「やらされている」と思うと上手くいかないから自力で試行錯誤させてほしい

「やらされる」と「やる」は違うんだと、それだけは言いたい。

この人に対しては、特別こういう風にしなきゃいけないと教わる。いや、まあ、言わんとしていることはわかる。特別気をつけたほうが私のためになるから言ってくれるのだろうと。しかしどうしても、”そうしなきゃいけない”その内容が納得いかなくて困ったものだ。

社会的立場を踏まえる前に、私たちは人として関わっているんじゃないのか?他人に対して求められないことは、身内に対しても問答無用に求めて良いことにはならないんじゃないのか?多少は甘える部分もあるかもしれないけど、それは一方的なものじゃなくお互いに許し合っていくのが人と人との関係なんじゃないのか?

あとついでに言えば、「慣れ」てない人に対して信頼関係を築く前に、新たなハードルを設置し出すのは如何なものか。甚だ疑問である。(ただただ「この人も”人”なんだ」と認識するのに時間をたくさん使うことになる。)

しかし、みんなが言う「社会」には、私が抱いている疑問を疑問とせず、受け入れている(そういうものだからとしている)きらいがある。釈然としないな。「そういうものだから」で押しつぶしてこようとするのも、おかしいことだ。


とにかく、分かった。アドバイスは聞くだけ聞いておくことにして、その時どうするかは自分で判断させてくれないか。絶対にこうしたほうがいいと言わないでくれないか。やってみてから考えるから、考えさせて欲しい。私は反省しない人間ではないよ。そっと訂正してくれたところをがっつり見つけて、それなりに落ち込む人間だよ。全部は気づけないけど、全く気づけない訳じゃない。


無言実行していく、というのを否定されたらもう何もしたくない。全部が有言実行じゃないように、全部が無言実行じゃないんだから、そこは好きにやらせてほしい。割合の問題ではないか。でかい事やらないから、身の回りのことや自分のことは自分で実行させてほしい。でかい事やる時はちゃんと相談する。


指摘されるのがあまり好きじゃなくて、影では何言われてても良いけど、表では褒められるのもダメ出しされるのも苦手だ。やっぱり、見られてるんだなって思ってしまうから。いつも”見られている”事を意識するようになって、余計なことしないでおこうって思ってしまう。余計じゃないかもしれないけど、むしろ良い事をやることもあるだろうけど、それもやめとこうと思ってしまう。

第一に自分のためにやっているだけで、他の人を喜ばせるのは次だと思っている節がある。一番信じられて、一番騙せるのは自分の感情だから。「よし、やろう!」と思ってやっている事を、「わざわざやってくれた」と表されるとしっくりこない部分がある。一番に他者が来ると、それは”やらされている”感じがして、違うんだよなあって思う。

だからか、私は考えずに自然にやる方が向いていて、というより(他者を喜ばせるための)テクニックを扱えるほど器用ではなくて、それなら私のままでいた方が上手くいく(天然性の器用さがある/と良いな)。

「やる」のが向いていて、その方が上手くいく人もいるのだ。


とにかく、とにかく、すぐには出来ないからと言いつつも、すぐの成長を求めるのは変な話だと思うんですよね。「やらされる」と「やる」は違うことだから、まずは自力で頑張らせてほしい。という思いがある。



めでたし、めでたし。と書いておけば何でもめでたく完結します。