【歌舞伎のはなし】殺陣や見得よりも笑いに興味がある。
前回から『三人吉三廓初買』の話をし始めている。前のを読まなくても分かるようには書くつもりだが、どう頑張っても限界があるので読んできてほしいなあ〜〜とは思ってます。
ということで、「三人吉三」の全然有名じゃない部分の話を。「通客文里恩愛話」の方である。『三人吉三廓初買』が「三人」「吉三」「廓初買」に分かれるように、「通客文里恩愛話」も切れ目がある。「通客」「文里」「恩愛話」となり、遊郭のとあるお店の「通客」である「文里」という人に関する「恩愛話」(人情話)のことである。
内容は以前書いたものを参照されたし。良い家の出だったはずの文里さんがお金無くなって、遊女とお別れする時の色々。とだけ書くと、文里さんが悪いみたいになるので言っておくが、全ての元凶は和尚吉三の父親である。
私がなぜこれほど、今は上演されないような箇所を推しているかというと、「通客文里恩愛話」にはギャグシーンが多いのである。私は「笑い」に興味があるので、笑えるシーンが多いと嬉しい。これも一つの歌舞伎の見方である。私は殺陣や見得よりも笑いに興味がある。
文里さんが通う店には、「花巻」という下っ端の遊女がいるのだが、この人こそが私のお気に入りキャラクターである。これを書いている現在、大学時代の卒業論文をちょこちょこ読み返しているのだが、花巻に関する論述が分かりやすくてとても良い。自画自賛。ということで引用する。
まずは、花巻というキャラクターの分析。
【引用】
(前略)この観点で丁子屋の新造「花巻」を見ると、(1)脇役の一人で、(2)色気より食い気が勝つ、容貌を馬鹿にされるというキャラクター設定で、(3)新造は花魁を見習う立場にある、(4)女性らしいおしとやかさに欠ける、と分析できる。(中略)戯曲に関わらない道外と言える。
次に、花巻の笑いの取り方について。先に容姿をいじられるパターンの話から。
【引用】
基本的に花巻は、ドタバタ登場してきて、笑いを起こして帰っていく。食べ物を欲しがるか、容貌について馬鹿にされるかのパターンが多い。容貌を馬鹿にされている場面は実に面白く、特に他の場面では冗談を言わない吉野という花魁が「なにも中低でないものを、中低だとは言いはしまいし、そんなに泣かずとも、いゝじゃありませんか。」という場面は、吉野のキャラクターを保ちながら笑いを生んでいて面白い。
【引用】
その後の会話でも、花巻が「それだって、わたしゃ、くやしくってくやしくって(※二回目は繰り返し記号)なりいせんものを。」と返すと、吉野は「くやしいと言ったとて、仕方がないわね。まあゝ窪たまりの涙でもおふきよ。」と追い打ちをかける。顔について馬鹿にされて泣いている花巻を慰めているように見せかけ、むしろ追い詰めるこの台詞からは花巻への愛さえ感じられる。
【引用】
美形でない顔面は、道外役を演じるには有利なのだ。現代でも特徴的な顔を持つお笑い芸人はそれが強みになっているが、道外役も同じだ。また、吉野ならば庇ってくれるだろうという花巻の期待を、吉野がバッサリと裏切ることは、花巻からすると傷付く演技はしているが、実は笑いがとれるおいしい場面となっており、吉野は結果的に優しい。
【引用】
(中略)物語的に不可欠で名場面と言われるようなシーンでなくても、役者がうまく引き立つ場面を用意するという黙阿弥の創意工夫が読み解ける。
次は食べ物を欲しがることについて。分かりやすいので一気に引用。
【引用】
食べ物を欲しがるという特徴は、まだ一人前の花魁になっていない花巻の幼さがみえる。花巻の食い意地の張り様は女性らしさも大人らしさもない。
一重の見舞いのために用意した養生糖というお菓子を食べたいがために、唐辛子を間違って口にしたと嘘をつき、その嘘を見破られたことで養生糖を食べられずに終わる場面がある。嘘を見破った丁子屋で働く若い者の喜助に向かって、花巻は「覚えていろよ」と言い退場するが、まるで小学生の男児の様だ。
お菓子を食べられなかったことで怒ってしまうという品の無さは、遊郭勤めに相応しくない。しかし、これを怒る人物はおらず、笑って済まされてしまう。病気の一重も花巻の様子を見て、思わず微笑んでしまうくらいだ。
花巻は丁子屋のムードメーカーとして愛されており、良いいじられ役なのだ。男が女の役を演じる違和感を、他の女性役は女性らしさでカバーしているが、花巻は逆に男らしく振舞うことで違和感を残し笑いに変えている。
「覚えていろよ」の台詞ののち、花巻は文を落として去っていく。これには浄瑠璃の触れ書きが書いてあり、文を拾った喜助が読み上げる。そのあとで浄瑠璃になり、場面が転換する。(中略)つまり、花巻は喜助とともに、浄瑠璃に入る前に観客を笑わせる役割を担ったのだ。
【引用】
花巻が起こす笑いは、観客をゲラゲラ大笑いさせる類のものであったと推測出来る。今でも、顔や体の特徴をいじって笑いにするという手法はよく見られるものであり、専門的な知識がなくても理解が出来るので、観客に受け入れられやすかったと考えられる。遊女見習いとしての新造役には相応しくない言動や行動の違和感は、女性役なのに男性的という違和感と合わさり、笑いに繋がっている。
(中略)また、笑いの場面は、他の観客の笑い声が聞こえてくるので、周りのリアクションが分かりやすく、舞台へのリアクションを受け取りやすい。そうすると、観客は舞台への注意が向きやすくなり、自然と内容に集中する。舞台へ再度注目を集めるという役割が笑いの場面にはある。そのあとに続く物語の見せ場である悲劇を、観客が見逃すことのない様に仕向けることが出来るのだ。
後半結構大事なこと言ってる。言ってるが、花巻についてというより笑いについての話だな。でもまあ、花巻に関する記述が結構長めにあることからも私が花巻を気に入ってるのが分かってもらえるだろう。
実際に戯曲を読んで面白さを分かってもらいたいが、次回どうするかはちょっと考えてから決めたい。
参考文献:『三人吉三廓初買 歌舞伎オン・ステージ14』延広真治編(白水社、2008年)
めでたし、めでたし。と書いておけば何でもめでたく完結します。