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【レビュー】遠い痛みの記憶—『空港時光』(温又柔)

それはあなたが使うべき言語ではない。それは本来あなたの言語なのになぜうまく話せないのか。

そんな風に言われたことがある日本語話者は少ないはずだ。人とすれ違うことはあっても、すれ違いを引き起こす言語そのものの「掛け違い」によって、人とのあつれきを経験することはめったにない。

台湾と日本を行き来しながら描かれる10の掌編を収めた温又柔の『空港時光』には、そんな場面が何度も出てくる。

歴史的経緯とグローバリズムの進行により、台湾語、中国語、日本語の話者が入り混じる台湾。ある人はある言語の台頭に苦々しい思いを抱き、愛着を抱く言語の衰退を悲しむ。そして、冒頭に掲げたような言葉を他者に投げる。

『空港時光』を読み終えてすぐに、こんなツイートをした。実際にこんなことを考えたのだが、しばらくして、このツイートが『空港時光』が湛える雰囲気にそぐわないものであるような気がしてきた。

この掌編集は、このツイート文面のようには怖くない。ここで言っている「痛み」もたぶん顔を歪めるほどのものではない。それは「それほど苦痛ではない。少なくとも、以前ほどは。あるいは、今のところは」(p.131)。痛みは"今の"感覚ではなく、その記憶であり、かすかな予感なのだ。

登場人物の多くは——タイトル通り——空港や旅客機の中にいて、そこで見た光景や人とのやりとりが、(多くは)子ども時代への回想につながっていく。言語にまつわる「痛み」は、その記憶の中にある。または、それは自分の「痛み」ではなく、誰か別の人のものであったりする。

いずれにせよ、テクストの<現在>から、遠い場所に傷があり、それがかすかに疼いている。

先の自分のツイートが、この掌編集に似つかわしくないと思ったのは、こうした痛みの遠さゆえなのだけど、もっと言えば、遠い痛みを思い出し、その輪郭をなぞることは、むしろ傷を慈しむような行為なのではないか。

痛い痛いというテキストではなくて、あの痛みは今、どうしているのか。そんな探訪の営みに見えた。あてずっぽうだが、その痛みが、この作家の「書くこと」の原風景なのではないか。

それを自分の経験として知るかどうかは別として、言語には暴力(政治性)が内在する。言うまでもなく、日本語も例外ではない。日本語で書かれたこの10のフィクションは、まるで一度も経験したことのない過去を懐かしむように、わたしたちの多くが経験したことのない痛みを思い出させる。



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