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【レビュー】風太郎の「すべて」—『銭ゲバ』(ジョージ秋山)

「モブ(mob)」とは群れを意味する言葉だ。漫画やアニメで名前を持たず、物語の進行に影響を与えない、背景のような登場人物は「モブキャラ」と呼ばれる。そのモブキャラ〝ではない〟ようなものとして登場させた人物を、つまり読者の注意を引き、物語の中で何らかの役割を持つような印象を与えた登場人物を、その役割を果たさせることなく殺害するという「技法」が、漫画やアニメの世界には在るようだ。

例えば、奥浩哉の「GANTZ」という漫画(2000~13年連載)に典型的なシーンがあったと記憶している。登場人物たちが夜な夜なマンションの一室に集まり、理由もわからずに「星人」と戦い続けるというストーリーだが、物語の後半で、めちゃくちゃかっこいい乗り物に乗って――めちゃくちゃかっこいい武器を持って、だったかもしれない――現れためちゃかっこいい男のキャラが、次のページで瞬殺されてしまう。

この漫画がどういう風に「風呂敷を畳んだか」――どう物語を終えたか――を全く覚えていないのだが、わたしにとって「GANTZ」とは今のシーンが象徴する何かを遂行する漫画だった。モブキャラじゃないものとして提示された人物が、モブキャラのように殺害されるような漫画。この漫画は多くのキャラクターが死んでいくのだが、(わたしが想像する)作者が本当に殺そうとしているのは、機会ある度に登場人物たちに「移入」される、読者のポジティブな「感情」である。好感を抱き、活躍を期待した、人物が虫けらのように殺されるときに、彼らに投じた読者の感情は殺される。読者はその感情を、もはや回収することのできない一種のサンクコストとして損切りし、殺伐とした気持ちで物語の先を追うことになる。「怪作」という寛容なカテゴリーに、投げ込んで忘れたくなるような作品だった。(忘れてなどいないのだが)

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ジョージ秋山の『銭ゲバ』を読みながら、ここまで書いたようなことを思い出した。

1970年から71年、高度経済成長期の終盤に連載されたこの漫画は、極度の貧困の中で育った蒲郡風太郎という醜い男が、殺人を繰り返しながら大金を稼ぎ、社会的な地位を築いていく過程が描かれる。

風太郎は「金がすべてだ」と思っている。彼が幼い頃に、母親が金がないがために、医者から見捨てられて死んだからだ。夜中に医者の家まで行き、「かあちゃんが死んじゃうズラ」とひざまずき懇願するシーンは、風太郎の原体験として、作中で何度もフラッシュバックしてくる。(医者は風太郎の鼻先でドアを閉めるのだ) 

風太郎は、殺人などの悪行を犯そうとする度に、この体験を思い出して、ためらいを捨てる。思い出せ、金がすべてだろ、と。風太郎は札束を触ったり、においをかいだりすると気持ちが落ち着く。だが、どんなに金を積み上げても充たされることがない。殺人の罪悪感からか、警察から追及される恐怖からなのか、常に不安を感じている。

風太郎の充たされなさは、何の不思議もない。先にも言ったように、母親が死ぬ晩の記憶が風太郎につきまとう。幼い風太郎にとって「すべて」とは母親だったのだ。その「すべて」は既に喪われており、いくら金を積んでも帰ってこない。それなのに、風太郎は母の死によってあいた大きな穴を、札束で埋めるという、不可能な試みを、機械の運動のように繰り返す。言ってみれば、『銭ゲバ』はただそれだけの漫画なのである。

数年前に「家政婦のミタ」というドラマが話題になった。「それは業務命令でしょうか?」が口癖の三田という家政婦は、無表情・無感情であることが特徴のキャラクターだ。彼女が表情と感情を失ったのは、過去に悲惨な出来事を経験して、心に傷を負ったからだと説明される。このドラマは、三田が家政婦としての派遣先の家族と接する中で、感情を取り戻していく、という筋になっている。

「家政婦のミタ」は「回復」の物語だった。『銭ゲバ』は違う。三田の心の傷と違い、風太郎の欠損は、回復不能なのだ。風太郎は殺人を繰り返すのだが、物語の途中には、彼の心を癒やしかねないような出会いがいくつも用意されている。彼ら・彼女らは風太郎を理解し、気遣い、愛しさえする。風太郎もまた、そうした人々の一部を愛し始めているようにも見える。だが、風太郎は、ほとんど自分の外側からやってくる力に強制されるように、彼らを殺害し続ける。

繰り返しで悪いが、風太郎はまるで機械である。あらゆるものを平等に解体する破砕機に、魅力的で、大きな役割を果たせそうな人物たちが、次々に投げ込まれていく。風太郎の感情と、読者が性懲りもなく移入した感情と一緒に。その「機械」は、最後に――そんなに意外ではない形で――稼働をやめる。

「じゃあ、さっきあなたが説明した『GANTZ』と一緒じゃん」――そう、似てるでしょ? でも、同じじゃない。『銭ゲバ』という物語のスタート地点には喪われた「すべて」が在る。わたしたちは、破砕機に投げ込まれた自らの感情の喪失を通して、この暴力の起点にある喪失を思う。この漫画はその全体を通して、「すべて」を白抜きで描いているのだ。一方、「GANTZ」には、最初から「なんにもない」。だから、前者は途方もなく哀しく、後者は荒涼としており、ただ前者だけがわたしの本棚に居場所を持っている。

(シミルボンから転載。2019年10月30日投稿)



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