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むらさきのスカートの女

昨日、文談〈Bun-Dan〉というオンライン読書会に参加した。

課題図書は、今村夏子 著「むらさきのスカートの女」

読了してから、もう一度読み直して、半分くらい読んだところで読書会当日となった。2回読んだらどうなっていたのだろう?感想も違っていたかもしれない。そういう小説だと思う。

読書会に参加する前に思ったこと、印象に残ったこと。

*「黄色のカーディガンの女」は、「むらさきのスカートの女」を、「同一視」しているのではないか(心理学でいうところの)。

*女性同士のストーカーものである。

*登場人物は、「むらさきのスカートの女」もふくめて、全員がちょっとルール違反にあたるようなことをしている。

*p130の所長のセリフと、小説内での実際の行動。

*罪とは何か?罪が、罪深さになる時とは、どんな時であるのか?

といったようなことを考えたりしていた。読書会ではこれらの感想をほぼ伝えられ、ナビゲーターの方の感想も興味深いものだった。

そして、読書会でいろいろと語り合っているあいだに、

「黄色いカーディガンの女」が「むらさきのスカートの女」をストーキングしていることが、この小説の中心的な筋ではあり、確かにこわいけれども、彼女たちや所長の「職場」あるいは「職場環境」のほうが、もっとこわいというふうに思ってきたのであった。

だからこそ、「黄色のカーディガンの女」は、もとは同じ職場ではなく、外側にいた、「むらさきのスカートの女」に接近したくなり、「黄色のカーディガンの女」自身も気づいていない部分で、何か救いのようなものを、もとめていたのではないか?というようなことを言った。

そして今、こうして感想文を書いていて思うのは、この小説の主人公は、いったい誰なんだろう…?ということだ。

タイトルは、「むらさきのスカートの女」であるけれども、主人公は、「黄色のカーディガンの女」の方ではないか?

で、主人公がわかったとしても、さて、ほかの登場人物たちは、主役ではない、と言い切れるのだろうか?彼、彼女らの方が、小説に登場した時から苗字ではあるけれども、「名前」あるいは「役職名」で呼ばれているのである。

「黄色のカーディガンの女」のしていることは、小説を最後まで読んでも、けっして肯定できるようなものではないが、その執拗さであったり、狂気やダークなものというのは、ほんとうはどこから来ているのか?

ラスト、「むらさきのスカートの女」がいつも座っていたベンチに、「黄色のカーディガンの女」が座る。「むらさきのスカートの女」が食べていたのと同じように、クリームパンを食べる。はたして、これで「黄色のカーディガンの女」は救われたのだろうか?

もしかしたら、今度は「黄色のカーディガンの女」が、誰かにストーキングされるのかもしれない…なんて想像してしまうけれど、その答えは、もしかしたら、キャッキャッと逃げていった子供が物語っているのかもしれない。

あと、「むらさきのスカートの女」は実在するかしないのか?私は実在すると思っている。実在しない、という方向で読んでみるのも、面白そうだなと思う。

ものすごく読みやすい小説だけれど、その読みやすさとは裏腹にといおうか、いつまでもいろんなことを考えていられるような小説であると思った。


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