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雨の日のメロンソーダ

 息子のたいよう(仮名)がメロンソーダを飲み始めたのはいつからだっただろう。
それは去年の秋だったか、それとも今年の春だったか、思い出せない。

 頻繁にメロンソーダを飲みたがるので、うちの冷蔵庫の中にはメロンソーダが並んでいる。
たいようには自閉症という障害がある。そのため、話しをすることができない。

 そんなたいようが、最近、自分の鼻を私の鼻に、ちょん、と重ねてくることが何度かあった。不思議に思った私がこの一件をパパに話すと
「テレビかなにかで見たのをマネしているだけじゃないのか。特に意味はないよ」と笑っているだけで、まともに相手にされなかった。

しかし、人とコミュニケーションをとるのが苦手なたいようが、あまりにも真剣なまなざしをするので、私はなにか少し、ひっかかるものを感じていた。

 たいようは毎朝スクールバスに乗って学校に行った。そして学校のあとにデイサービスがない日は、家からほど近いスクールバスのバス停まで私はたいようを迎えに行く。

 今日も私は学校帰りのたいようを迎えにバス停までやってきた。
始めのうちは一人でバスに乗り続けられるだろうかと思いを巡らせたりもしたけれど、もうすぐ初めての夏休みがやってくる。

 バス停から家に帰るまでの間、私は必ず、たいようと手をつないで歩く。なにかの拍子にたいようが道路に駆け出していってしまったら危ないからだ。
すると、うちに向かってしばらく歩いたところで、急にたいようが立ち止まった。

まあ、ゆっくり行こう。

私はこういう時、しばらく待つことにしていた。
こうなると、たいようはしばらく動かない。たいようはどこかを一心に見つめているようだった。

道端の一か所で立ち止まり続けるたいようと私を、通りがかった人は横目でちらりと見やりながら、黙って通り過ぎて行った。

私はたいようのうしろに広がる景色をなんとなく眺めていた。そばの通りを車がせわしなく行き交う。
道路に沿うように、建物が連なっているものの、突出して高い建物がないせいか空が広々して見える。青く澄み切った空が、どこまでも続いていた。

そろそろ大丈夫かな。

「うちに帰ろうか」
 そう私が言うと、また、たいようは歩き始めた。

 自宅のマンションに到着すると、私とたいようはエントランスホールからエレベーターに乗った。
エレベーターが目的の階に止まると、真っ先にたいようがエレベーターから降りようとするので、私はたいようの手を握ってエレベーターから降りた。

家のドアの前までくると、たいようは早く家の中に入りたそうにしていた。
私が鍵をあけるまでの間、たいようから文句をつけるような声が出始めるがひとまず放っておく。
ここで私が話しかけたり、なにか反応をしてしまうと、たいようはもっと騒ぎ出し、行動がさらにエスカレートしてしまう可能性があるからだ。

たいようは怒りやパニックなどで一度ボルテージが上がると落ち着くまでに時間がかかる。
一日、二十四時間という限られた枠の中で生活を進めていくとなると、たいようにはなるべく凪の状態でいてもらいたかった。

玄関に近い洗面所で手洗い、うがいを済ませると、たいようは洗面台の向かいにあるドラム式洗濯機の扉の窓に自分の顔を映し、唇を突き出したり目を大きく見開いたりして遊んでいた。

私はタオルをたいようの前に出すと、たいようのまだぬれている手の甲を指差した。たいようは自分の手の甲をタオルでがしがし拭いた。そしてそれが済むとタオルをその辺にぽいっと投げて、奥の居間に走って行った。

すぐに子供向け番組の歌のお兄さん、お姉さんの声が聞こえ始める。テレビをつけたたいようがⅮⅤⅮを再生したのだ。

六畳ほどの居間にはたいようが登ってしまはないように、鏡台やタンスといった高さのある家具は一切ない。
それらは奥の部屋にすべて隠してしまった。
あるものと言えば、丸いローテーブルがひとつ、低めのテレビ台の上に乗った小さなテレビ、ディスプレイ式の背の低い絵本棚が壁際に置かれているだけだった。

居間の入り口から部屋の中をのぞくと、たいようが踊っていた。
一見するとなんの動きかわからないが、テレビのお兄さん、お姉さんのダンスを真似しようとしているのだった。
ゆっくりだけれどたいようは成長している。

数年前のたいようにはそういうことが難しかった。
自分でああしたい、こうしたい、と思っても、脳の影響ですぐに行動に移せない場合があると、お世話になった療育施設の先生が言っていた。

「メロンソーダ飲む?」
 そう私が聞くと、たいようはテレビを見ながら
「うっ!」
 と元気にこたえた。
話すことができないたいようの『はい』の合図だ。

 私がメロンソーダの入れたクリアカップをたいように手渡すと、にこにこしながらメロンソーダを飲み始めた。
もう何回も飲んでいて馴染の味なはずなのに、メロンソーダを飲む時のたいようは今まで飲んだ飲み物の中で一番おいしい、という顔をする。
たいようのふせられたまつ毛のあたりに目線を向けていたら、ふいにたいようが顔をあげた。目と目が合う。
たいようはメロンソーダを飲むのをやめると、私と目を合わせたまま、私のそばに近づく。
そして目をあけたまま私の鼻にそっと自分の鼻の先をくっつけた。たいようのやわらかな鼻の感触がした。
とても近い距離で目が合うとたいようは少しずつ私から離れて行って、ちょっと得意げな顔をした。
この行動がなんなのかはわからないけれど私はたいように笑いかけた。

 
 ある日、メロンソーダを切らしてしまい、帰りがけにたいようと一緒にコンビニに寄った。
帰りのスクールバスを降りて、いつもとは違う道を通るのがいやだったのか、たいようは途中何度か立ち止まった。
姿の見えない蝉のしわがれた声が一瞬大きくなり、つないでいたたいようの右手に力が入るのを感じた。

 家に着くと、たいようは洗面台の向かいにある、洗濯機の窓に映った自分の顔に気を取られて、持っていたメロンソーダを落とした。ペッドボトルについていた水滴がはじけて床に飛ぶ。
ペッドボトルはそのまま転がって洗面台の下のキャビネットの前で止まった。
「たいよう、メロンソーダ拾って」
呼びかけてみたものの、たいようはあいかわらず自分の顔に夢中だった。
私はペッドボトルを拾おうとかがむと、洗面台のキャビネットの扉に貼られたいくつかの車や動物のシールに目が留まった。何年か前に、私が貼ったものだった。

洗面所が楽しい雰囲気になれば、たいようがスムーズに手や顔を洗えるようになるかもしれないと思ったからだ。目につくように、なるべく大きなシールを選んだ。
おとなのこぶしひとつ分くらいのものもある。

けれども、たいようはまったく興味を示さなかった。
もうはがそうはがそうと思いながらも、今日までそのままになってしまっていた。

 早くメロンソーダが飲みたいと、たいようが急かすので、台所に行ってクリアカップを用意した。
ペッドボトルを床に落としたせいで、たくさんの小さな白い気泡が目立つ。
「今あけたらシュワっとなるけど、準備はいい?」
「うっ、うっ!」
 たいようはしきりにメロンソーダに人差し指を向け、催促を繰り返す。
「わかった。いくよ、せーの!」
 私はぐっと力を入れてキャップを回す。キャップとペットボトルの隙間から、ブシュっという音と共に勢いよく押し上げられた泡が台所のシンクにぶくぶくこぼれた。
「キャーーー!」
 驚いたのか、たいようは台所を離れてどこかへ走っていく。
しかしすぐにげらげら笑いながら戻ってきた。
 私は用意しておいたクリアカップに、メロンソーダを注いだ。
 たいようは居間の床に座ると、メロンソーダの入ったクリアカップを両手で持ちあげて、クリアカップの底から中を見あげた。
私がそばに行くと、クリアカップに部屋のシーリングライトの光があたって、メロンソーダの気泡がちらちら瞬いているみたいに見えた。

たいようがクリアカップを前だったりうしろだったり少しずつ動かしていく。
メロンソーダの緑が濃くなったり、薄くなったり、光の入り方次第で見え方が違う。
水や氷を入れて薄めたり、メロンソーダの原液を足して濃くしない限り、色は変わらないと私は思い込んでいた。

神秘的で控えめな色彩を放ち、クリアカップの中で液体が揺れている。
海に潜って、そこから水面に照らされた陽(ひ)の光を見るとこんな感じになるのだろうか。私はそんなことを思った。

 光と緑色の世界をひとしきり楽しんだたいようは、メロンソーダを、こくこく飲み始めていた。

 その日の夕方、たいようが冷蔵庫からアイスキャンディーを取り出そうとした。夕ごはん前なので私が止めると、たいようは顔を真っ赤にして怒り出した。
目に涙をためて、じだんだを踏みながら思い切り私の腕を引っ張り、不満を現にした。

私は黙ったまま少しずつ台所から離れると、居間のテレビの前でリモコンのボタンを押した。
ほどなくして、たいようのお気に入りの歌が流れ出す。
私にしがみついていたたいようの視線がテレビに一瞬移った。
それでもたいようは「うーうー」文句を言って窓のカーテンを勢いよく引っ張り、カーテンレールが軋んだ。
長期戦になるのは予想がついた。
これでは夕ごはんが作れない。
「アイス、1本だけなら食べてもいいよ」
 ため息交じりにそう私が口をひらくと、ようやくたいようが私から離れて冷蔵庫に向かって走って行った。

たいようとの闘いを回避して、穏便に済ませたい気持ちと、これじゃあだめだという思いが交じり合う。
普通ならじきに夕ごはんの前にアイスキャンディーを勧めたりはしないだろう。

 結局、たいようはアイスキャンディーを2つも食べた。
しかしそのせいで夕食が食べられなくなるのではないかという考えは杞憂に終わった。
 食事の準備をしながら「今日は、ハンバーグだよ」そう私がたいように話しかけてもなにも反応を示さなかったのに、居間の丸いローテーブルの上に並べられたできたてのハンバーグやスープを見つけると、たいようは自分のご飯茶碗の前に座った。

手と手を合わせて「いただきます」をすると、あらかじめ切り分けておいたハンバーグにフォークをさして口の中に放り込む。

口の周りにソースをつけて「んー、んー」と嬉しそうに目を細めて頬張る。
指でつまんだつけ合わせのにんじんを噛みしめる。
大げさかもしれないが、心の底から目の前の食事を味わって、その味わいがおいしさに変わり、どんどん膨らんでいって、ハンバーグとたいようが一体になっているように感じた。

 たいようが私に近づいてきて、自分の鼻先をちょん、と私の鼻に当てた。

夕食を食べ終えて洗い物を済ませると、私はたいようをお風呂に誘った。
居間の片隅で、たいようはシールブックからはがしたシールを床の上に並べていた。

お風呂が苦手なたいようは三十分以上経っても知らんぷりを決め込むこともある。
案の定、私が話しかけても、たいようはシールを貼り続けていた。

洗面所のキャビネットに貼りつけたシールには見向きもしなかったのに、シールブックのシールを貼ったりはがしたりするのは好きなようだ。
「うさぎだ。かわいい」
 そばで私が床にくっついたうさぎのシールを触っていたら、すかさずたいようが気がついて、そのうさぎのシールを床からはがすと、別の場所に貼り直した。

 たいようはいつもこんな調子だった。
ある時、スケッチブックにクレヨンで絵を書いていたたいようの横で、私も絵を描こうとクレヨンを持つと、たいようは素早く私の手からクレヨンを奪い取った。

 しかしたいようのこの行動に悪気がないのを私は知っていた。
『本当は一緒に遊びたいんだよね。だけど、どうしたらいか、わからないんだよね。こわいんだよね』
 人とうまく遊べないたいように、以前、療育施設の先生が優しく投げかけた言葉を思い出す。
始め、先生の言った“こわい”という言葉の意味が私にはわからなかった。
 普段通り、いつも通りの日常を好む、たいようの姿を見ていたら、ある時、″こわい”というのは、変化が起きることなのではないかと思った。
だから私がシールを触っていた時も、これからどうなるのか先が読めずに、たいようは不安を感じたのかもしれない、と。

「たいよう、お風呂の時間だよ」
 何度目かの声がけで、ようやくたいようは重い腰をあげた。
 お風呂でたいようの髪を洗っていると、いやがって途中でお風呂場から出て行ってしまった。
 

 1年の中で1番暑いこの季節は、たいようとつないだ手の指先に、じっとり汗が絡みつく。重なった手の平が、熱い。

 学校からバスに乗って帰ってきたたいようはどことなく元気がないように思えた。

一緒に歩きながら、うっすらと明るい雲の白さに目を向けていたら、だんだん雲が迫ってきて、目がくらんで、ついにはいろんな色が見え始めた。
白は、白だけじゃなかった。
白の中にはたくさんの色があった。

私とたいようの遥か上を、隙間なく広がった厚い雲が覆っていた。
湿気でぼやけた空気の中で、空に浮かぶこの雲はどこまで続いているのだろうか。
私はたいように目をむける。

どんなふうに景色が見えているの?

 たいように話すことができたなら、どんなことを思い、考えているのか、知りたいと、ずっと、ずっと、思っていた。

 家に戻ると、普段通り、洗面所で手洗いうがいをすませた。
私はたいようの学校リュックから、校内着のジャージやハンドタオルなどを取り出して、洗濯機の中に放り込むと、居間に向かった。
たいようはカーテンのあいた窓の前に座り、そこから見える曇った空に顔を向けていた。
いつものメロンソーダはまだ冷蔵庫の中だった。

 私は用意したクリアカップにメロンソーダを注ぐと、それを持って、たいようの横に並んで座った。
「飲む?」
「うっ」
 たいようは小さな声で返事をすると、クリアカップを受け取る。
「ママも、ママも飲みたい!」
 メロンソーダの緑を見ていたら、無性に飲みたくなってしまって、私は急いで台所に戻った。そしてもうひとつのクリアカップにメロンソーダを少しだけ注いだ。
私はメロンソーダの入ったクリアカップを持って、たいようのそばに戻る。

たいようはメロンソーダのクリアカップを窓に掲げるようにしていた。
メロンソーダの炭酸が上に向かって微かに弾ける。
気泡の行方を、なんとなく目で追いながら、窓越しに見上げた空から雨が降り始めていた。
まるでたいようが降らせたみたいだ!

「たいよう、見て! 雨が降ってきたよ!」
 窓の外を降る雨はきらきら光っているように見えた。
「きれいだね」
 相変わらずたいようは私の横でメロンソーダを飲んでいた。
唇の先をちょっととがらせて、頬を動かして。
そのメロンソーダがなんともおいしそうで、急いで私もごくりと一口。
ああ、この味だ。
今日はなんだか、雨の味もするような気がした。
私はちらりとたいようを見た。
たいようは窓ガラスにうっすらと映った自分の顔とにらめっこをしている最中で、思わず私は笑ってしまった。

 たいようの様子が変わったのは私が夕食の支度をしようと台所に立った時だった。近くにきたたいようが私の腕にくっついて離れない。
「ママはこれからご飯を作るから、たいようは隣の部屋で待っててね」
 私は居間に行くと、テレビの前でⅮⅤⅮの再生ボタンを押した。
そしてその場から離れようとすると、たいようが立ちはだかって邪魔をした。
「じゃあ、シール遊びはどう?」
 私は絵本棚に並んだ本や絵本の中からシールブックを抜き取った。
するとすぐにたいようはシールブックを私から奪うと床に投げ捨てた。
それから私の右の手首をつかみ、力づくに引っ張りながら寝室に移動すると、ひいたままになっていた布団の上にそのまま倒れこんだ。
私はすかさず体制を整え直すとたいようの隣に座り込む。
たいようは泣いていた。
私の手を握ったまま布団に顔を押しつけ、時々しゃくりあげながら。
「ねえ、たいよう。どうして泣いているの? もしかして学校でいやなことでもあったの?」
 たいようは泣いているばかりだった。

たいようが突然、怒ったように泣きはじめたりすることは、今までにも何度もあった。でもそのたびに、ただそばにいて、見守ることしか私にはできなかった。

私にはなにも、できない。

あらゆる物をかきわけて、たいようの心の中をのぞくことができたなら。
いつだってそう切に願っていた。
「教えて、たいよう。泣いているだけじゃわからないよ、教えてよ、わからないんだ」
 気がつくと私はたいようの肩を両手でつかんで揺すっていた。
こんなことをしたら、さらにたいようが興奮してしまうのはわかっているはずなのに。
たいようは声を荒げ、私を叩く。
顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにして、座っていた私の太ももの辺りにたいようは顔をうずめて泣きじゃくっていた。

私も泣いてしまいたかった。
心の底から込みあげてくる涙を延々と外の世界に降らせたなら、なにかが変わるだろうか。
またこれからも、頑張っていこうと、思えるだろうか。

 しばらくの間、たいようは泣きやんだと思えばまた火がついたように泣くことを繰り返していた。
 たいようが泣きやむまで待っていると、布団のシーツの色が一部変わっていた。
たいようのはいているズボンが湿っている。おしっこが漏れたのだ。

たいようが落ち着いてから、私はたいようの着替えを手伝い、洗面所で服とシーツの汚れてしまった部分を軽く手で洗ってから洗濯機に入れた。

ようやく立ち直ったたいようは居間でⅮⅤⅮを見ていた。
テレビのお兄さん、お姉さんのダンスを少しでも真似しようと、手や腕を動かしていた。
居間の入り口に立っている私に気がつくと、たいようがそばにやってきた。
そして私の両肘の辺りを下に何度か引っ張って私にかがむように訴えると、目をあけたまま私の鼻にちょんと自分の鼻先をあてた。
「さっきはごめんね……」
 私はたいようを見つめた。
たいようはじっと私の目を見続けている。

どうしてたいようが私に鼻先をくっつけてくるのかはやっぱりわからないけれど、私はいつもしている通りにたいように笑いかける。
すると、たいようは満足そうな顔をして、またテレビの前に戻って行った。

私は寝室に戻ると、布団に染み込んでしまったおしっこをタオルで押し拭きし始めた。
別の部屋から、がしゃん、という音が聞こえてきて、私は慌てて、たいようの元に駆けつけた。
ドアがあいたままの冷蔵庫の前で、たいようがしゃがんでいた。
台所の床には割れた生卵が散らばっていた。
「おなかがすいたの?」
 たいようは割れた生卵の殻を指で突っついているだけで、なにもこたえない。
「たいようも片付けるの手伝って」
 と私が言った時には、もうすでにたいようはその場にいなかった。

 割れた生卵と床を掃除していると、たいようの声がして、急いで手を洗ってから居間に向かった。テレビの前でたいようが怒っていた。DVDがうまく起動しなくなってしまったことが受け入れられない様子だった。

 それから即席ラーメンで夕食を簡単に済ませ、たいようと一緒にお風呂からあがった時にはすでに二十一時を過ぎていた。

明日も学校だ。早くたいようを寝かせなければ……。

焦る気持ちを抱きながらも、私は洗面所の洗濯機に寄りかかったまま動けなくなってしまった。
正面にある洗面台の大きな鏡には疲れ切ってどんよりと沈んだ私の顔が映っている。

 居間から歌声が響いてくる。
きっとたいようはテレビの前に立ってリズムを取っているのだろう。

私はたいようが世の中のことをどれくらい理解しているのかわからなかった。
たとえば、走る車の前に飛び出すのは大変危険なことだとか、時間というものがあって、朝がきて、夜になる。毎日その繰り返しだということ。
私がたいようの母親であるということも……。

私は洗濯機を背にしたままその場にうずくまった。入浴をして温まったはずの身体がすでに冷え始めているのを感じた。

 そんな時、玄関のドアの鍵があく音がして、パパが仕事から帰ってきた。
同時に雨と夏のにおいが入り込んできて、吸い込むと鼻の奥にまとわりついた。

今日、部屋の窓から私と見た雨を、たいようは覚えているだろうか。
明日になっても、明後日になっても……。

居間からたいようの笑い声が聞こえて、パパはそちらに顔を向けた。

おかえり。という言葉がうまく出てこなくて、私が口を“お”の形にしたままでいると、パパはなにかを感じ取ったのか
「たいようの添い寝、今日は僕が代わるよ」とだけ言った。
私は黙ったまま、こくりと頷くのがやっとだった。
それからパパはてきぱきと部屋着に着替えると、たいようを連れて寝室に向かう。
眠いのか、それともパパが珍しいのか、たいようはあっさりパパの言う通りにした。

たまに寝室の方から、布団がこすれる音がかすかに聞こえた。
私は顔をあげると、洗面台のキャビネットに張りつけてあるシールをぼんやりと眺めた。いくつかの車やバスのシールに、小さなクマと仔ウシが優しいタッチで描かれたイラストのシールがランダムに貼られている。
女の子であろうか。
擬人化されたクマは黄色のスカートを履いている。
そんなクマの子と仔ウシがかわいらしくて、私が雑貨店に立ち寄った際に、思わず買ってしまったものだった。 

あの頃はたいように障害があるなんて思いもよらなかった。
たいようが成長したら、このシールを見比べながら、一緒におしゃべりをするのだろうなと、勝手に夢見ていた。じっくりひとつひとつのシールを見ていると、その中のひとつにはっとする。

クマの子と仔ウシが鼻と鼻をちょこんとくっつけて、目をあけたまま、しっかりとお互いを見つめ合っていた。

私は、たいようがまっすぐに私を見て、鼻をちょんとくっつける姿を思い出した。

これだったの? これを、していたの? 

温かなものが込み上げてきて、クマの子と仔ウシの輪郭がみるみるうちに滲んでゆく。
私は思わず洗面所から寝室の方に振り返った。

覚えていたんだ。覚えていてくれたんだ。
涙が頬を伝い、流れてゆく。

このクマの子と仔ウシはね、とっても仲良しなんだよ。だから鼻と鼻をくっつけているの。大好きだよ、って

 数年前、私はここでたいようにそう説明したのを思い出した。
その時、たいようは手に持っていた車のおもちゃをただいじっているだけで、私を見ない。
私の話なんてちっとも聞いていない。
そんなそぶりをしていたのに。

少しも気づいていなかった。
いつだってたいようは私に伝えてくれていたのに。

私はたいようのことを思った。
じっと私の目を見て、そっとその小さな鼻先を私の鼻にくっつけて、ちょっと得意げな顔で、満足そうにしているたいようのことを。

だいすき だよ

たいようの言葉が今、届いたような気がした。

ママも たいようのことが 大好きなんだよ

たいように、そう、伝えたい。

窓辺に座り、目を輝かせて、いつものメロンソーダを飲むたいようの顔が思い浮かんだ。

メロンソーダの気泡に光が当たった瞬間のきらめき。
空から降りゆく銀のしずくたち。
そして、小さな鼻の先端の、やわらかい感触。

たいようがいなきゃ、なにも知らないままだった。

雨の音が聞こえる気がした。
静かに、穏やかに、降り続いている。


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