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Go with the flow.


 20キロも痩せていたので、誰だかわからなかった。大病をして死にはぐったというテツローがやって来たのは、秋分の日を過ぎた頃の少し肌寒い日だった。何をしに来たのかと思えば「写真を見てくれ」と言う。 プリントされた写真の束が目の前に積まれた。写真なんか撮る男じゃなかったのに。
 テツローは不動産屋だった。趣味が筋トレのマッチョな男で、それほど気が合う奴じゃなかった。いや、合うとか合わないとかそういう以前に、もうまるっきり人種が違うって感じ。
 生活に不向きなほどの筋肉は巨大なカブトムシを思わせた。実際、カブトムシみたいな体臭がした。やたらと酒を飲み肉を食うマッチョな不動産屋なんて、友人の結婚パーティで隣合わせにならない限り、知りあいようもなかった。

「すい臓ガンやってさ」とテツローは言った。筋肉の鎧を脱いだテツローの手足は思った以上にすらっと長く、パンパンだった赤ら顔は青黒くて陰気な面容になっていた。
 大量に見せられたプリントは、どれもピンのボケた薄気味悪い写真で、明け方の悪夢みたいだ。
「よくわかんないけれど、個性的ではあるね」
「どう思う?」
「どうって言われてもなあ……」
「写真家になろうと思う」
「マジ? 不動産屋は?」
「やめた。もう土地転がしはムリだ」

働きづめだったそうだ。どんなことをしても身体はオレに着いてくる、そういう根拠のない自信があったらしい。急激に体重が落ちて、だるくて動けなくなっても、病気だなんて思わなかった。
 点滴でも打ってもらおうと医者に行ったら即入院の指示。「どうしても外せない仕事がある」と突っぱねると「命の保証はできない」と言われたそうだ。
「どうして急に写真家になんて……」
「オレにもわからん。寝ていてもやることがないんで写真を撮ってみた。空とか、病院の中庭とか……。そのうち面白くなって、撮らずにいられなくなった」
 死にはぐった人間は人生観が変わるのか。金と筋肉と土地にしか興味がなかった男がいきなり「なあ、あんたは幽霊を見たことがあるだろう?」と言う。
「ないよ、そんなもの」
「あるよ、あるはずだ」
「なんでわかるの?」
「わかるんだ……」

 幽霊じゃない。私が見るのはそんなもんじゃない。
 
「なにがあった? 病院で」
「……見た」
「なにを?」
「浮いてたんだ」
「幽霊が?」
「いや、人間が」
「それって、空中浮遊?」
 私は笑った。この話はもう打ち切りたかった。

「違う。肉体はベッドに寝ているんだよ。たくさんの機械にチューブでつながれて、人工呼吸器をつけて、そういう重症の人間ばっかりがいるところにオレも寝ていたんだ。みんな意識がなさそうだった。肉体の上に白っぽいものが浮かんでる。60センチから1メートルくらいかな。ふわっと、こう……細長い風船みたいに浮かんでいる。ぶよぶよしていて、時々表面に顔が表れたりする。そのびよぶよがへその緒で肉体とつながって、空中に浮いているんだよ」
 ああ、あれを見たのかと思った。だから、こんな写真を撮るようになったんだな。
「器の中身を見たんだね。それを写真に撮ろうとしたわけだ」
 テツローは頷いた。
「だんだん、見えにくくなっていて、もうほとんど見えない」
「そのほうがいいよ。こんな写真を撮ってちゃダメだ」
「これはダメか?」
「肉体のほうを見ないと抜けやすくなる。なんだって中身がきっちりと収まっていないと不安定でしょ。せっかく生き返ったんだから、生きなくちゃ」

 でも、それからもテツローは、写真を持ってやって来た。どうしても現実に戻って来たくないみたいだった。別の世界があるって実感した人間にはよくあることだ。どうせ、いつか死ぬのに、肉体が消えた後のことばかり考えるようになるんだ。テツローの気持ちはわからないでもない。死なないと思っている圧倒的多数のひとに囲まれて、「必ず死ぬ」と実感して生きていくのは、けっこう骨が折れる。
 筋肉はテツローの魂を閉じこめるための強固な器だったんだなあと思った。殻の中に閉じこめておかないとこの人の魂ってするっと抜けちゃうんだ。そういう人がたまにいる。もともとすわりが悪いっていうか、スカスカしているんだよね。どうしてなのかはよくわからない。こういう奴は地に足が着かない。ふらふらしてしまう。うまく魂と肉体がはまればいいんだけど、私にはどうすることもできない。

 テツローの写真は、魂が透けて見えるようで心地が悪い。どんなものにも魂がある。魂という言い方はちょっと適切でないかな。精気いうか霊気というか、そういうものだ。物質にこびりついているなにかしらの記憶、感情、そんなものだ。それが写されていた。
 こういう写真を見て魂が抜けてしまう人もいるかもしれないから、発表させちゃいけないと思った。でも、こんなへんてこな写真が撮れるのは一種の才能かもしれない。

「この写真をわかってくれる奴はあんまりいない」
「アートとも違うしね……」

 しばらくすると、テツローの肉体は回復してきたみたいだった。転移もなかったと言う。身体はむくむく太っていった。さすがにヘラクレスには戻らなかったけれど、痩せっぽちではなくなった。器がしっかりしたためか、テツローは写真を撮らなくなった。そして、また就職した。今度は不動産屋ではなく、住宅メーカーの営業だった。土地よりも、家の方が、それも新築の家を売るほうがこの男には安全だなと思った。

「テツローみたいな人は疲れるまで働いたらいかんよ。疲れると憑かれるからね。憑かれた時はたくさん食べるんだよ。空腹だとそこに棲みつくやつがいるから」
 とにかく、隙間を作らないことだ。なにかで埋めておくことだ。最後に会った時はそんな話をした。
「この写真、もらってくれないかな」
 たくさん、写真を置いていった。困ったなあと思った。友人にシュレッダーを借りて切り刻んでビニール袋に詰めて、美化センターに持ち込み焼却炉に捨てた。全部、捨てたと思ったのに、机の下に隠れて1枚だけ残っていた。
 それが、この写真なんだけど、やっぱ気持ち悪い。やだ。

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田口ランディが日々の出来事や感じたことを書いています。

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