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流しの珈琲屋を始めます#9


日本の皆様、世界の皆様こんにちは。

今日もありがとうと言ってくれてありがとう。

やまんです。


みなさんは、「師」という人はいますか?

僕は今までの人生の中で、要所要所にて師と呼べる方がいます。

それぞれ自分の人格形成や、価値観を大きく変化させ成長させて下さった方々です。


  今日はそんな「師」について。


僕は中学生の頃、野球部に入っていました。

小学生から少年野球やクラブチームに入っている人はそこで上下関係や、監督、父兄との関係があり、大人との接点が多いかと思います。

僕は小学生のときは特にクラブチームや習い事もしていなかったので、この時が初めての大人の世界へのスタートでした。

まぁ野球部だけではないかもしれませんが、だいたい運動部に入っていると理不尽な上下関係のルールがあって、それに従わなければ制裁があります。

なんなんだと最初はビックリしましたけど、郷に入っては郷に従えで、なんとかやっていけました。

その中学野球部時代に、もっとも影響力のあった人が監督です。


     第一の「師」


清原のような体格と風貌、声は太く良く通り、はっきりいってめちゃめちゃ恐かったです。

監督は体育教師で、授業でも担当の先生でした。あるとき、体育の授業で柔道があり、おもっきり投げ飛ばされました。もーかなうはずがありません。ガリガリの中一と、清原ですもん。

体育教官室で、中一の時に坊主にしてもらってから3年間丸坊主でした。なぜか、学年でぼくだけ坊主でした。(みんなは前髪ちょい長のスポーツ刈り)

1年生の頃からことあることに監督によく頭をはたかれたので、だれよりもはたきやすい頭の形だったのだと思います。絶壁だし。

今となっちゃあ体罰ですけど、そりゃ殴られるにも理由がありますから、なんとも思ってませんでした。むしろ、またやっちまった!というのがしょっちゅうでした。

そんな監督ですが、白黒はっきりしている先生でした。いつも恐いんですけど、そこには気分屋な怒りとかではなくて、コントロールして叱っているんだと中学生ながら感じていました。当時、自分の父親は気分を害するとよく怒りをふるっていたので、その行為に比べれば、なにか理不尽な感じがないというか、どこか一線を置いて、それで叱るという感じでした。

とにかく練習は厳しかったです。僕は2年生からキャッチャーにコンバートされたのもあって、いつも監督の傍にいました。なので、プレーでミスをすればなにが良くなかったのかを監督と同じ目線でみることができました。中学生から野球をスタートしたぼくにとっては毎日がホントに学びの連続でした。

間違った事は間違ってる、良い事は良いという指導方針が、僕にはめちゃくちゃあってました。さらに、問題点はどこにあるのか?それに対する自分の行動はどうするのか?といった問題解決力が自然についていったと思います。

監督のおかけで、素人のぼくはチームのキャプテンにもなったし、市の選抜するメンバーにも選ばれて国際大会も経験することができました。

それは中学生にはなかなか体験できない事で、様々な環境に見を置くことでほんとに成長できたと思います。

ほんとにめちゃくちゃ厳しくて、ケツバットやもみじもめっちゃくらったけど(もみじって知ってる人は40歳以上の方かな)、どこか愛情があったように感じたし、様々な環境とチャンスをくれた監督には感謝しかありません。

第二の「師」


中一から高校三年まで野球を続けたので、もちろん丸坊主です。坊主歴6年です。

そんなマルコメ君が、じつは中二の頃から決めていた事がありました。それは、将来は「美容師」になると。

はい。

髪、ありませんでした。

いやいや、ありましたありました。3ミリですけど。

なんでこの仕事をえらんだかというと、めちゃめちゃ単純なんですけど、木村拓哉さんがきっかけなんです。そう。あのドラマ。

仕事を知ったきっかけは木村拓哉さんで、そもそもなぜ中二に決めたのかはまた長くなるのでいつか書きますね。

まぁ木村拓哉さんに影響されて、マルコメ君が美容師を目指した訳であります。

高校卒業後、専門学校を経て西東京方面の会社に就職しました。

この会社を選んだのは、単純にアシスタント時代からのお給料が良かった。そして社会保険完備でエデュケーションの評価がよかったからです。(この時代、社会保険完備入ってない会社はざらでしたので稀有)

そして、そんな理由で入った会社でしたが、まさか自分の人生に大きく影響のある「師」に出会えるとはつゆしらず、上京したのでした。

このアシスタント時代はものすごく大変でもあり、充実していた青春時代でした。

夜の10時まで仕事をしてその後トレーニングをして午前様に家に帰り寝て、また早朝6時半からトレーニングという、ほんとに若いからできる生活でした。

この会社の社長は女性で、とてもアバンギャルドな出で立ちと、価値観をもっている方でした。僕が教育を受けるにあたって、実費を支払ったのはハサミと人形のウィッグというものくらいでした。

地方への研修、社内の内部外部教育、技術研修、社会人研修、マナー研修、心の教育、脳科学、心理学、色彩学、幹部研修などなど、普通では有り得ないくらい、多岐に渡り教育を徹底していました。

そんな会社の技術者としてのトップに立っていたのが師匠です。

まさにその字のごとく、匠の技で多くのお客様から支持されていました。まさにカリスマという人です。

そして、師と呼べる人のそばで日夜仕事に打ち込む日々が続いたのです。アシスタントはメインアシスタントとという役があり、1番売上の高いスタイリストの側にいるという仕事がありました。またまたそうして、師匠の肩越しから仕事を見て、仕事を目に焼き付けていきました。

その頃はほんとに師匠に憧れていたので、よく先輩から似ていると言われる事が多々ありました。とにかく真似をするというのはその対象となる人になりきるという事も必要だと思います。

師匠には、様々な技術を学び、仕事の中から多くの経験をさせてくれました。お客様にとって生涯お付き合いできるパートナーとして存在している師匠の背中は凄かったです。

年齢や職責など関係なく、常に学び続ける事を師匠から教わることができました。プロとして徹底している姿はほんとに脱帽です。

今でも、公私共に大変お世話になっているので、これからも師として背中を追い続けていく所存です。


      自分の本質


美容の仕事を通して多くのお客様と触れ合い、第二の師匠との学びから、自分はなんのために生まれてきたのか?そんなことをよく考えるようになりました。

今は、独立をして自分のお店を運営していますが、お店を作るにあたっても、何故このお店は存在する必要があるのか?というのを考えてから作りました。

多くの学びを経て、行き着いた「問」というのは、まさに自分の命の使命です。

仕事は誰かに仕える事で成り立ちます。

ですがその前に、自分の心から目指せる目標、熱い情熱をもって全うできる事を「志事」として、そこを理解することからはじまりました。

何故この世に生まれてきたのか。

中学1年の時、精神的に追い詰められ、自分の命を終わりにすべきかと悩んだ時に、泣きながらそれは出来ないと自分に対して言葉をかけました。

まだ自分はなにもできていない。

心から熱く、楽しく、そして生きている!と感じる事を成していないとその時思い、踏み止まりました。


その頃から将来の仕事について考えるようになり、その問に行き着いたのです。

様々な経験から、一つの傾向を自分の中にみました。それは、誰かの笑顔の為に自分がしてあげれる事が嬉しい。

これは、自分から誰かに与える事が心の中に生まれる幸せの種の成長条件でした。

貰ってから与えるのではないんです。

先に与える事で、余白部分ができ受け取る事ができる。足るを知れば、どれほど自分はそう大きくもない心のバケツを満たす事ができるのか、そんなことに目を向ける事ができるようになっていきました。

独立してから、より自分の生き方に明確になれました。


座右の銘は「行雲流水」。

大きな空を往くあの雲のように、さらさらと流れ、とどまるところを知らない水のように。水は留まると腐ってしまいますが、動いていれば腐敗することはありません。

多くの事に捉われる事なく、たえず時代の変化に柔軟に、そして自由を手にして生きる。

これが僕の本質です。


    珈琲との出会いに


以前書いた日記に、珈琲との出会いを綴りました。その後、いろんなお店をめぐる中で第三の師との出会いがありました。

そして、その縁によってこの移動販売を始めることになったのです。


珈琲屋さんをめぐるうちに、好きな珈琲に出会いました。それは、このお店のコレ、ではなく、珈琲のタイプでした。

それは、甘い珈琲です。


甘い珈琲とは?砂糖を入れた珈琲ではありません。珈琲自体が甘いのです。

コーヒービーンズは、もともと紅い実の中にある種です。実は完熟の頃合をみて採取されます。

何故完熟する頃合なのか?それは鳥が食べやすいからです。つまり完熟とは甘熟とも取れ、甘くなった美味しい実を鳥は食べてくれるのです。

木は自分の子孫を残す為に、実を甘くさせ、そして種には毒を持たせ、糞として排出するように仕向けます。それによってコーヒーの木々はまた新しい土地で、新しいコミュニティを築くことができるのです。

つまり珈琲豆は、甘くなった実に包まれていたところから取り出されるので種にも甘さを蓄えているわけです。

これが、焙煎の具合によって最大限引き出され、砂糖のいらない、心が穏やかに踊る甘さのある珈琲ができあがるのです。


      第三の師


東京、千葉、大阪、福岡とそれぞれの匠の店に行き、甘い珈琲を求めて歩きました。

珈琲屋に行き、おすすめの珈琲屋を聞いて、新しい珈琲屋を尋ねる。僕の得意なbooksurfingのように、学びを得る為、様々出向きました。

そして、師匠の珈琲に出会いました。


とにかく、甘かった。そして優しかった。


今まで飲んだことのないくらい甘かった。めちゃくちゃ心踊らされました。幸せな気持ちになりました。

豆は、ブラックハニーでした。

知ってる方はなるほどーと思うかもしれません。(ブラックハニーについてはネット調べてみて下さい☆)

でも、珈琲豆は焼き手のスキルによります。つまり、美味いか不味いかは豆ではなく、焼き手だと思います。

師匠の珈琲を通して見ている世界です。まさに師匠の技です。思いが形になっているのです。


師匠は僕を弟子にしてくれる時に、そう簡単に弟子はとらないからと言ってました。

では何故弟子にしてくれたのか、それは自分の価値観の方向性が同じ方角を向いていたからです。


師匠の珈琲に出会ってから、いつか自分のお店で師匠の珈琲を振る舞いたいと思っていました。そして、その珈琲を振る舞うのは、心のこもった1杯の珈琲で、目の前にいるお客様を幸せにしたいと思ったからです。

この珈琲で、お客様が抱える重荷を降ろし、往く雲、流るる川ようにお客様を開放できると確信していました。 

その意思を師匠に伝え、お店で出させて下さいとお願いしたところ、その考えにとても共感して下さって、

では、自分でその珈琲を作ってみてはどうですか?と言って下さったのです。

これが僕の珈琲の師匠との出会いです。


師匠との出会いからの学びは、また珈琲について綴る時に少しずつお伝えしていけたらと思っています。


中学時代から現在にいたるまでのお話を書いてみました。初めて書く内容だったので、色々と思い返す事もあり、ちょっと疲れました。なかなか文字におこすというのは大変な事ですね。

そして気持ちや考えを整理してアウトプットするのも難しいものです。

ここまで読み進めて下さってありがとう御座います。 

お互い疲れないくらいの程よいペースで進んで行きましょう☆自分らしくね☆

乱文で申し訳ありませんが、またお付き合いくださいましたら幸いです。 

ではこの続きはまたどこかのまな板の上で☆

トントントン。

今日も善き一日を☘

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