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誰かを懲らしめたくなったときに読む本

40億年の生命の歴史

地球上に生物が誕生してから40億年という想像もできない時間が流れた。

生命の歴史を1年に置き換えてみると、恐竜が絶命したのが12月25日で、最初の人類が登場したのは12月31日午後11時頃である。

オランダ出身の歴史家ルトガー・ブレグマンは、人類の歴史を次のように描いている。

その後の約1時間を、狩猟採取民としてすごし、午後11時58分にようやく農業を発明した。ピラミッドと城、騎士と貴婦人、蒸気機関とロケットなど、わたしたちが「歴史」と呼ぶことのすべては、午前0時直前の、60秒間に起きた。

食物連鎖のピラミッドの頂上で威張っているぼくたち人類は、カウントダウンライブが最高潮に達する、あの60秒間の一瞬の存在なのだ。

人類といえば、これまで多くのヒト族が発見されている。歴史の授業で習ったように、ぼくたちはホモ・サピエンスだ。

ホモ・サピエンスといえば、ネアンデルタール人も連鎖的に思い出す人が多いのではないだろうか?

ホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人とも一緒に地球上に存在していた。しかし、ネアンデルタール人は絶滅して、いまは存在しない。

なぜか?

歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは、次のように推測している。

サピエンスがネアンデルタール人に出会った後に起きたことは、史上初の、最も凄まじい民族浄化作戦だった可能性が高い

ハラリは、「状況証拠は弱い」としつつも、サピエンスが「駆逐してやる!」と進撃の巨人のごとくネアンデルタール人を殲滅したと考えているのだ。

「いや、違う。」

こう考えるのが、前出のブレグマンである。

ブレグマンによれば、「危機が引き出すのは、人間の最悪の部分ではなく、最善の部分」であるという。

そして、「人間の本質は善である」からこそ、人類は歴史的な危機を生き残ることができたと主張する。

そのために書き下ろした書籍が『Humankind 希望の歴史 人類が善き未来をつくるための18章』であり、これが世界的にベストセラーを記録している。

ベニヤ説への反論

ベニヤ説とは、「人間は本質的に利己的で攻撃的で、すぐパニックを起こす、という根強い神話」である。

オランダの生物学者フランス・ドゥ・ヴァールが名付け親であるという。ヴァールによれば、「人間の道徳性は、薄いベニヤ板のようなものであり、少々の衝撃で容易に破れる」という。

だが、ブレグマンは「真実はそうではない」と反論する。

災難が降りかった時、つまり爆弾が落ちてきたり、船が沈みそうになったりした時こそ、人は最高の自分になるのだ。

ブレグマンは、『Humankind』において徹底してベニヤ説への反論を試みている。

以下、その中から、モチベーションについて少し詳しく見ていきたい。

外因性インセンティブ・バイアス

人間は「他人はやる気がない」と考えがちである。そして、他人にやる気を起こさせるには報酬を与えるしかないと決めつけがちだ。

これを外因性インセンティブ・バイアスという。

スタンフォード大学のチップ・ヒース教授は、法学部の学生を対象に調査を行った。それによると、64%の学生が「自分が法律を学ぶのは長年の夢だ」などの肯定的な動機を答えたのに対して、「他の学生も自分と同じ動機だ」と考えている学生は12%だった。多くの学生は、他の学生が法律を学ぶのは「金儲けのためだ」と考えていたという。

自分はやる気がある。だが、他人はそうではない。

とても不思議なことに、ぼくたちは、他人は自分のことしか考えていないと決めつけがちなのだ。

イスラエルでの保育所実験

1990年代後半、イスラエルの保育所である実験が行われた。

親の4人に1人(25%)は、子どもの迎えが遅く、保育所が閉まってからの迎えになっていた。そのため保育士は残業を強いられる。保育所からすれば、「親は自分の都合ばかり考えていて、保育士の事なんか考えてくれない」と思われた。そこで保育所は親に罰金として、遅刻する度に3ドルの支払いを命じることにした。

親に罰を与えたら、親は早く迎えに来るようになり、保育士の残業は減ると考えたのだ。

その結果、どうなったか?

プランどおりお迎えに遅れる親の数は減った…

否、逆に増えたのだ。40%の親が保育所が閉まってから迎えに来るようになった。

その理由は、親の認識の変化である。

罰金がないときには、「子どもにも、保育士にも申し訳ない」といった道徳的な認識が親には働いていた。

しかしながら、罰金が科されるようになると、それを追加料金と解釈した親は、「お金を払っているから預かってもらって当然」と認識を変えたのである。

この例では、保育所は親の早く迎えに来られない事情を無視し、道徳性という点をあまりにも甘く見積り過ぎた。その結果、残業を減らしたいという目的は、達成されないどころか、事態を悪化させることになった。

ここから学ぶべき教訓の一つは、親の道徳や自律性を舐めてはいけないということ。そして、道徳によって成り立っている事象に、経済的観点を混ぜると危険だということだ。

ジェイン・ジェイコブは、「統治の倫理」と「市場の倫理」はしばしば相互に矛盾し対立し、二つの倫理を混同すると、「救いがたい腐敗」が生じることを指摘している。

ここで紹介した保育所実験は、道徳的・倫理的腐敗を避けるには、課題に応じて統治の倫理、市場の倫理のいずれかを自覚的に選択することが必須となるということの好例である。

金銭的インセンティブはモチベーションを下げる

他人の自律性を軽んじるという現象は、とくに仕事のシーンで見受けられる。

決して少なくない人が、他人を働かせるためには、高い給料やボーナスなどの厚遇が必要だと主張する。

この場合は罰ではなく、報酬という外的動機づけが必要だと考えているのだ。

しかしながら、これまでに多くの研究は、ボーナスが従業員のモチベーションを下げ、道徳心を鈍らせることを、さらに悪いことにボーナスと目標には創造性を蝕む恐れがあることを発見し、証明している。

数値化された目標がモチベーションと結びつけられるとき、人びとは数だけを重視するようになる。その結果、質が低下するのだ。

ただし、単純で決まり切った仕事に関しては、ボーナスに効果があることを、行動経済学者ダン・アリエリーは明らかにしている。とはいえ、そうした単純作業は次第にAIやロボットに置き換えられる可能性が高い。当然、彼らはモチベーションを必要としない。

話を戻そう。

不思議なことにぼくたちは、報酬がなければ、他人は生産性を低下させて働くと思い込んでいる。実際に、報酬や罰がなければ、瞬間的にサボる人は出てくるかもしれない。とはいえ、ずっとサボっているという人は極めて少数だ。

しかしながら、ぼくたちは少数の経験例を一般化しがちだ。そして、少数の経験例に学べば学ぶほど、ぼくたちはそれが大多数に共通する経験であると思うようになる。

労働者の自律性を舐めてはいけないのだ。

「やりたいからやる」を支える

道徳性やモチベーションの低下を防ぐ方法はあるか?

それは、他人をやる気にやせようとすることを止めることだ。

その代わりに、人が自らやる気になる環境や社会を形成することを考えることが大切である。

言い換えれば、人が「やりたいからやる」と考え、行動できるようにケアするということだ。

ブレグマンは、子どもの教育について名言を残した。

問うべきは、子どもは自由をうまく扱うことができるか、ではない。
わたしたちは子どもに自由を与える勇気を持っているか、である。

問うべきは、他人の思考や行動ではなく、自分の思考や行動である。

モチベーションの問題についても同じことが言える。

問うべきは、他人を動かすためにはどのような外発的なインセンティブを与えるべきか、ではない。

ぼくたちは、他人が内発的なインセンティブに基づいて行動する自由を与える勇気を持っているか、である。

枠や型に嵌めることの無意味さを悟り、他人をコントロールすることを諦めれば、大抵のことはうまくいく。

もちろん万事がうまくいくことはないだろう。他人を統制する場面も必要となるだろう。

けれども、そうした場面はあくまでも例外的であると認識できれば、誰かの一言に憎悪して敵対したり、声高に管理・統制の必要性を叫んだりして、結局のところ望まない未来が生まれる、そんなことにならなくて済むのではないか?

SNSによって排他性や他罰性が拡散しやすくなった現代において、ブレグマンの『Humankind』が紡ぎだす18章は、ぼくたちが冷静さを取り戻す希望のシャワーを浴びせてくれる。

誰かを懲らしめたくなったときには、再び『Humankind』のページをめくりたいと思う。



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