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NHKの名アナウンサーを追いかけてみるvol.2。中西龍の詞藻「当マイクロフォン」三田完(角川書店)

その声と語りはサイコー、だけど人物は問題ありすぎ

 アナウンサーは司会やニュース原稿読みやリポートなど様々な仕事をこなさねばなりません。そのひとつでもある「語り/ナレーション」で、他の追従を許さぬ独自の世界を作り上げたのが中西龍(りょう)です。60年代後半から90年代まで活躍し、味わい深い語りで日本中を魅了しました。ラジオパーソナリティとしてリスナーに語り掛けるときには、自らのことを「当マイクロフォン」と呼んでいました。

 本の中で発見した資料的な面白さを紹介するのが目的ですが、この「当マイクロフォン」は読み物としても好きな作品です。評伝であるとともに魅力的な小説世界をあわせもっています。昭和男特有の自己本位な感傷を、ほどよい距離感で描写しているのが心憎いです。

 法令遵守の意識高まる昨今、よく耳にする「昔だったらよいけど、今なら許されないよ」をやらかしまくってていたのが中西龍です。お堅いイメージのNHKのアナウンサーでありながらです。当時も周りには眉をしかめる向きは多かったようで、懲罰的というか自業自得というか人事的に不遇な扱いを受けますが、その美声と語り口は行いをおぎなって余りあり、演出家達が中西の語りを陽のあたる場所に引き上げていきます。

 中西龍は1928(昭和3)年、東京生まれ。父親は苦学力行のすえに港区長となった厳格な人。生みの母は幼くして亡くなり、癇の強い継母から弟とともに虐待に近い扱いを受けながら育ちます。それは中西の人生に影を落とし、反発からか学生時代は軟派な不良生活に耽溺、その一方で亡くなるまで実母の面影に強い思慕を抱き続けるようになりました。

 龍は学校を放校になったり、大学卒業間際に新橋の枕芸者を孕ませるなど、父親の悩みの種でした。しかし父親に対する態度は謹直で、父は息子に継母の仕打ちへの負い目も感じており、厳しくしきれないところもあったようです。龍がアナウンサー志望と知ると、父は四方八方に手を尽くしNHKに就職させます。

感傷的な、あまりにも感傷的な・・・

 物語はNHKを退職しフリーランスになった中西と、NHKの後輩現役ディレクター二村との交流を軸に、中西の現在と過去が交錯して進んでいきます。テレビの「ひるのプレゼント」を担当する二村は、独自の語りで熱狂的なラジオリスナーを持つ中西の退職を知り、退職を機に半生を振り返ってもらおうと番組出演を依頼します。本来ならインタビュー形式のコーナーですが、中西は「僕の芸は原稿を読んでなんぼですから」と、自分の書いた原稿の朗読を出演の条件とし、二村もそれを受け入れます。当時の「ひるプレ」は裏で「笑っていいとも!」もはじまっていて、視聴率激戦区を戦っていた有名番組ですから、なかなかの決断ですよね。そして中西は退職した感慨を、ひとりスタジオで語り始めます。以下、退職の日の回想から中西らしいなと感じた部分を・・・

ーいま戸外が暗くなりました。午後六時五十分です。放送局から戻って背広を脱ぎ、この文章を書いています。終日梅雨の晴れ間に恵まれたきょうは、わたくしの五十五歳最期の日でした。そして定年一か年半を残してNHKアナウンサーの肩書を外した日でもあります。

ー多少の感慨がないわけではありません。しかし、不思議と未練も感傷もないのです。過去よりも、これから生きることのほうが大事だと思うからです。たくましい意欲は持ち合わせていませんが、どうか明日の波風よ静かであれ・・・と願っています。激しさをともなう喜怒は不要ですが、しずかな哀楽は欲しいと思います。人生の真実は、ひそやかなもののなかに宿るというのが、わたくしの信念だからです。

ー梅雨どきの雨に打たれつつ、街角にひたすら咲く紫陽花の花ーわたくしが生まれたのも、そして、退職の日を迎えたものの、紫陽花の咲く季節です。涙もろい性格は死ぬまで癒りませんが、それでいいと、今ではあきらめています。

 感傷もない・・・といいつつ、過ぎるほど感傷的ですよね。アナウンサーなら、それもNHKともなれば自分の感情を抑える印象がありますが、まぁタップリ。それが許されたのが中西龍なわけです。そこでもひとつ、中西が大好きな都はるみのために心を込めて描いた「涙の連絡船」の紹介ナレーション。

ーあの人が降りてくる筈もないに 今夜もあたしは港に来ました     あたしの肩に、あの人の手が そっと置かれる筈もないのに       今夜もまたあたしは港に来ました。                  船の汽笛が 波の間に間に あたしの代わりに泣いています。

 曲の紹介ひとつにも、確固たる自分の世界を作り上げようという気迫すら感じます。

ふしだらにしか生きられない。

 中西龍は父親のコネでNHKのアナウンサーとなりますが、大学在学中に芸者を身ごもらせて堕胎騒ぎを起こしたぐらいですから、その後も女性がらみのエピソードには事欠きません。そして酒にもだらしない。新人として赴任した熊本には入籍した芸者を妻として帯同し、先輩諸氏を驚かせます。その妻との営みはご近所に聞こえ渡るほど激しかったようですが、結局はヤクザや痴話喧嘩が絡んで妻は姿を消してしまいます。で、中西はめそめそ悲しみ自分を憐れむのです。当然のごとく職場ではとんでもない後輩とみられていましたが、こうも見られていました。

ー「それがねぇ、おそるべき後輩だったんだ」

ー「はじめっから、あの調子なんだよ、彼の語りは。当時地方局のアナウンサーの出番といえば、ラジオのローカルニュースと、午後四時から十五分のDJ番組だった。『四時のリズム』という番組でね。(中略)その十五分を日替わりで地元局のアナウンサーが担当するんだ。レコードを三枚かけて、聴取者からいただいたお手紙を読む。それだけなんだけど、ローカルのアナウンサーにとってはおのれの才を発揮する貴重な場だった。新人の中西龍が担当するやいなや・・・(中略)・・・凄いんだよ、聴取者からの葉書が。もう、群を抜いた反響だった」

 栴檀は双葉より芳しなのか、なにかゾクッとしますね。そして女性にたいするマメさと優しさは、聞き手にも発揮されます。

ー「みんなに語りかけるDJじゃない。あなたひとりに丁寧な口調で語りかける番組なんだ。それに、いつも背広のポケットに官製葉書を十枚ぐらい入れていてね、ちょっと時間ができると番組宛にきた便りの返事を書く。頂戴したお手紙ではこのごろお風邪をお召しとか、ご快癒をこころよりお祈り申し上げます・・・なんてことを書いてね。ニュースの取材で世話になったひとにも名刺を整理するときに必ず葉書を書く。とにかくマメなんだ、あいつは」

 実力は認められていたとしても、女と酒でいつも生活に嫌な雲のある男が、会社でしかもNHKのような組織でどうなるかというと、熊本を皮切りに鹿児島、旭川、富山、名古屋と転々とさせられ、なかなか中央に呼び戻してはもらえません。なんせ読んでいると、今のNHKなら赴任地ごとに女性問題で首になっても不思議じゃない感じですから。そのたびに中西は傷つき、ますます感傷的になっていくのです。

実力を正しく評価出来る人とはどんな人か。

 実力は認められながらも名古屋で燻っていた中西に、地元局のディレクターがナレーションを請います。番組はトマトケチャップを題材にしたローカル制作のドキュメントで、全国ネットで放送されました。大きな話題となる番組ではありませんでしたが、東京でこの番組を視て中西に目をつけた人物がいました。当時は芸能局次長でのちにNHK会長となる坂本朝一です。朝の連続テレビドラマを発案してヒットさせていた坂本は、次に夜の時間帯で斬新なドラマを編成すべく、演出には和田勉の起用を考えていました。

ー面白い・・・。名古屋放送局が制作したトマトケチャップの番組を視ながら、坂本がもっとも惹かれたのは中西龍というアナウンサーのナレーションだった。芝居がかった抑揚。それでいて日本語としてはまことに正統的で、なんともいえない底力を感じる。他のアナウンサーとは全く違う個性だった。

 坂本は旧くて新しいをコンセプトにした新しいドラマに、中西の語りがマッチするように思えたのです。そこで演出を担当する和田勉(当時三十代半ばだった)に中西の語りを聞かせます。

ー「こりゃ新時代の活動弁士ですよ。たしかに旧くて新しい。いいじゃないですか。中西龍を全国区にしましょうよ」 興奮して唾を飛ばす和田勉に励まされ、坂本はアナウンス室の旧知の副部長に会った。

 坂本のドラマで中西を使うには、アナウンス組織のコンセンサスをとって東京に転勤させなくてはなりません。しかし中西の日頃の態度が災いし上司の覚え悪く、異動の話がうまく進みません。そこで坂本は、全国区の人気を誇りアナウンス内で強い発言力を持つ宮田輝に力添えを頼むのです。しかし宮田は「のど自慢」で名古屋にいったときに、打ち上げの席で酒乱の中西にさんざからまれて嫌な思いをしたばかりでした。宮田としては得はありません。しかし坂本は、その宮田が成立させたい新企画(「ふるさとの歌まつり」)を持っているのを知っており、宮田の企画成立へのサポートを申し出て、お互いが協力しあう約束を取り付けるのです。宮田もなかなかの腹芸でこんなことを言います。

ー「そうそう、中西君のことでしたね。坂本さんのおっしゃるとおり、彼は特異な才能の持ち主です。たしかに、ああいうジャックナイフみたいな人物は、東京でないと本当に活躍する場がないかもしれませんね」

 東京進出した中西龍の語り/ナレーションは、またたく間に全国区となりました。道を開いたのは坂本朝一、和田勉、宮田輝とNHKの歴史にその名を残す人たちです。

 坂本の件をたまたま番組を視た奇縁ととるか、優れた製作者は常にふさわしい才能を探して引き寄せるととるか。和田が聴いた中西の語りは探していたものなのか、新しいひらめきを与えるものだったのか。宮田にとっては単に政治的な取引だったのか、才能と人間の使い方を考えたのか。考えれば考えるほど面白いです。

異能のアナウンサーはいかにして作られたのか。

 語りナレーションの練習は、ふつう名作文学や社説記事あたりを読むのではないかと考えます。中西の場合は違いました。

 転勤異動を重ね今度こそは東京か大阪と思っていたところで名古屋へ。大都市ですから悪くはありませんが、次に東京大阪に行けなければ一生地方まわりとなる正念場でした(実際のとこと坂本に声かけられ東京にきたときは、松江への異動内示が出そうだった)。名古屋に着任した中西はナレーションの職人として栄達を遂げようと決意します。そしてトレーニングとして始めたのが株式市況の下読みでした。例の社名と株価の値動きです。それを途中で切って間を開けたり、抑揚をかけたり・・・

ー近ごろは職場でも家でも眼についた文字があると、龍は憑かれたようにそれを朗々と声に出して読む。読む材料は、新聞に挟んである不動産広告でも、即席ラーメンの袋に書いてある調理法でも、なんでもよかった。(中略)とりわけ株式市況や気象通報の無機質な数字は、滑舌の訓練に最適だった。株の値段や各地の気圧を、単なる数字ではなく言霊にしてみせる。聞くものの耳に、新たな快感を与えるような読みを作り上げたい・・・。

 しかし中西龍が特別な領域にたどり着けた最大の理由は、良き職業人としてのアナウンサーではなく、自分にしか伝えられない技術を持ったプロフェッショナルを目指したことにあるように思います。中西自身が記した信条です。

―わたくしは中西アナウンサーであるよりも、許されるぎりぎりのところまで、中西龍個人でありたいと思います。またどのアナウンサーにも似ていたくないと思います。

 そしてNHKに所属しながら、そこで正統とされるメソッドが自分の美学にそぐわないと判断し、自らの美学を優先させたこともその理由でしょう。

ーNHKのアナウンサーは後輩に「歌うな」と指導する。歌わずに淡々と、正確に語れ……という意味だ。だが、龍は心を込めて歌った。

 テレビで語り/ナレーションを担当するのは,、大きく3種類の人たちです。番組内容を色づけしていく専門のナレーター、自分の個性を出して語ることを期待される俳優や芸人、そして安定感がありしっかりと読みきるアナウンサー。中西龍は、アナウンサーとしての技術を下敷きに、俳優のように自分の味わいを出すスタイルです。そのどちらもが高いレベルにあったことで稀有な存在となりました。また自分で書いた原稿を読むことが許されたため、自分の間や文節を生かすナレーションとなり、よりOne & Onlyな世界観を作り出すことができたのではないかと考えます。

 例えば、構成作家の書いた「白い花が丘の上に咲いた」というナレーション原稿があります。しかし、読み手によって「白い花・丘の上・咲いた」や、「白い花が丘の上・咲いた」のほうが感情が乗せやすかったり、表現が広がったりもしますよね。書き手と読み手が一緒ならそこのブレがありません。「丘の上の白い花」と読む語感の中に咲いているイメージまで声でのせられれば「咲いた」はいらないのです。そればかりは読み手じゃないと原稿執筆時にはわからないのです。

 ちなみに人間的にとても面倒くさそうな中西龍が女性新人アナウンサーのご養育係(NHKの慣習らしいです)となります。女性アナは中西の酒につきあわされ、女々しい愚痴や悪口をよく聞かされたらしいです。それがNHKで朗読の加賀美、ニュースの森田、ナレーションの山根と称された山根基世さんです。今でも「半沢直樹」などでご活躍され素晴らしいナレーションをお聞かせくださっていますね。

 最後に、かの三國一朗がラジオの「にっぽんのメロディー/美空ひばり特集」を聴いて、忘れることのない驚きを覚えたという中西龍の曲紹介のフレーズを。

「レインコートが古びてきました。ひとつ買おうと思っています」




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