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なぜ日本のマスコミはイスラエルではなく、ハマス贔屓になるのか?

「喧嘩両成敗」という不思議な制度

ハマスが仕掛けた戦争について考える前に、まず、喧嘩両成敗の話から始めよう。
喧嘩両成敗は世界の常識からみて、不思議な制度である。普通の社会であれば、先に手を出したほうが悪い、あるいは喧嘩の原因を作り出したほうが悪い、とされる。しかし喧嘩両成敗は、事件の本質や理非を棚上げし(つまり判断せず)被害者加害者双方に責任を負わせるという制度である。
北朝鮮のような、超強力な専制国家ならこれもアリだろう。しかし、民主的な社会で、国民が決定に異議申し立てができるのであれば、言葉を尽くして審議しなければならない。

2023年10月のハマスによるコンサート襲撃と誘拐は犯罪である。常識的な人間ならば、殺人や誘拐は悪だと断罪するだろう。ところが日本のマスコミはハマスが100%悪いとは言わない。良くて50:50の喧嘩両成敗。番組によってはイスラエルのほうが悪い、などと西側世界の常識とはかけ離れた言説を流布している。

なぜ日本でこのような意見が、主流派を占めるのかを分析したい。

1)テロリストを擁護する心情

幕末のテロリスト吉田松陰に「かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂」という歌がある。動機が純粋であれば、誤った結果に陥ろうとも知ったこっちゃない、という宣言である。これに似た心情は、中国人が日本製品を排斥して、日系スーパーを襲撃したときに「愛国無罪」と叫ぶのと変わらない。盗んでもそれが何だっていうんだ!日本が憎いという純粋な動機から発しているのだから、誰からも責められるいわれはない!という理屈だ。これは陽明学や朱子学のエッセンスであり、行動においては、動機が「清らかなる心」から出ているか否かが重要ということだ。

近代の西洋社会においては「結果にコミットする」ことが大切で、アメリカ哲学のプラグマティズムでも、役立つことが善だとされている。そこに動機の善悪をうんぬんする余地はない。仮に動機が「金儲けしたい」「仕事をサボりたい」「モテたい」といった邪悪(?)なものであっても、それが勤勉や省エネやイノベーションにつながるのであればOKだというのが、資本主義社会の基本的な考え方である。むしろどうやって人々の心情の清らかさを客観的に測定できるというのか?

テロは悪である。ところがテロ行為の背後に純粋な動機が見られるのであれば、それは正義となる。では人々が「純粋な動機」と感じる原因は何だろうか?それは歴史である。

2)悪を隠す詭弁としての「歴史」

歴史では、どちらからスポットライトを当てるかによって善悪の相貌が変わる。だからといってナチスドイツにも一分の利があるとはならない。ポルポトによる惨殺や、ソビエトの非人間的な圧政も同様に悪であり、人類の進歩に何の貢献もしていない。
イスラエルやハマスやパレスチナの報道のたびに繰り返されるのが、2000年にも亘るすったもんだである。この歴史を正確に理解しないと、この地域の問題は解決しないらしい。この大きな障壁を前に、テレビのコメンテーターも「これは難しいですね」とか「相互の話し合いが必要ですね」とか「解決方法が見つかりませんね」と匙を投げる。違うのだ。いまこそ積極的に「歴史を無視する」技術が必要なのだ。
歴史を考慮してしまうと、双方に言い訳が成り立ってしまう。これでは平行線が続き、裁判所も「喧嘩両成敗」と逃げたくなる。また、弱い側であるハマスのほうにシンパシーを感じてしまう。これだけイスラエルにひどい目に遭わせられているのだから、多少の暴力や誘拐はしょうがないじゃないか!ほかにどうやってイスラエルに一泡吹かせられるというんだ!ということでハマスのほうに肩入れしたくなる。

(2000年間のスパンで見れば、パレスチナよりもイスラエルのほうが悲惨な歴史を本当は負っている。ところがマスコミでは簡略化された歴史しか紹介しないため、どっちもどっちと思えるようになる。)

また過去に起きた出来事をことさらクローズアップするのは問題だ。アメリカに原爆を落とされたからと言って、アメリカに乗り込んでテロ行為をした日本人はいない。先祖が奴隷だったからと言っていじめるのは明らかに罪だ。同じように先祖が悪事を働いたからと言ってその子孫まで迫害されてはいけない。いまさら韓国に、秀吉の朝鮮出兵を責められても困る。罪はその一代で終わるべきだ。
サルから進化したわれわれが生き延びてきたのは祖先が暴力的、良くて卑怯者か臆病者だからだ。われわれはみんな似たり寄ったりの不道徳な遺伝子を持って生まれてきたのだ。

ところで、以上のようなことを考えていると日本社会が危険に思えてきた。テロを擁護し、強者を敵視する文化は恐ろしい。言葉を尽くして正義を問うという行為は、歴史上、一度も日本社会に根付いたことはない。むしろ日本が北朝鮮のような社会にならなかったのが不思議である。

私たち日本人は、日本語という閉じられた空間でバイアスのかかった情報にさらされることで、民主主義的思想から逸脱することに慣れつつある。私たちは薄氷の上にいて、かろうじて落下しないでいる。しかし氷は突然割れる。松岡洋右が国際連盟で啖呵を切り、帰国した代表団を熱狂的に迎えるなどという、あのときの過ちを、私たちはもう一度繰り返してしまうのではないだろうか。

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