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メビウスの舌

          田部智子        

       ➰➰➰➰➰➰   

 パソコンで仕事をしていると、知らず知らずのうちに歯を食いしばっているらしい。
 千秋がそれに気づいたのは数日前だった。どおりでこのところ、顎の疲労や、首筋のこわばり、全身の倦怠感がひどいはずだ。
 気づいたときは、口を開けてパクパクしたり、腕をぶらぶらさせたり、肩上下させたりしてみる。だが、いつのまにかまた歯を食いしばっている。
 何とかしなければ……。このままでは仕事に支障が出るし、体にも歯にも悪いに決まっている。

どうしよう?

 逡巡する千秋の頭に、プロ野球選手の姿が浮かんだ。メジャーリーグの選手はよくガムを噛んでいる。余計な力が抜けて、プレイに集中できるのだそうだ。
 それだ! 口を動かしていれば、歯を食いしばる暇はないはず。

 千秋は近所のコンビニに走り、円筒形のボトル入りタブレットガムを買ってきた。同じ味では飽きると思ったので、七種七色のミックスガムだ。
 ボトルの封を切って一粒口に入れようとして、はっと手を止めた。せっかく七色のガムを選んだのに、無為に食べると最後は同じ味ばかりが残ってしまう可能性がある。それはいやだ。絶対に避けたい。
 考えたあげく、千秋は小皿を持ってきた。ボトルの中から、一色ずつ七粒のガムをのせる。これを食べ終えたらまた新たに七色を取り分ければよい。それを繰り返せば、偏りなく食べられるはずだ。
 千秋はほっとしてガムを噛み始めた。

 それから数日後。

 思った通り、歯の食いしばりはなくなった。ちょっと舌が荒れた感じはするけれど、全身が疲れるよりはずっとましだ。
 よかった。ガムを噛むのは正解。

 だが、ボトルの底に残った数粒のガムを見て、ぎょっとした。
 黄緑色が二粒でピンク色が三粒。

 なんでこうなる!

千秋の頭にかっと血が上った。細心の注意を払って、小皿にガムを取り分けたのだ。では、初めからボトルに入っていた数が、七色均等ではなかったということか!
 なんといういいかげんな製菓会社。
 千秋は腹立ちまぎれに、残ったガムを全部口に放り込んだ。ぐっとあごに力を込めて、五粒のガムを噛みつぶす。ガリッとコーティングが砕け、ガムがつぶれていく。
 三回噛んだ時だ。いきなり歯にガチッと硬いものが当たった。
 
 痛っ!

 思わず吐き出したガムの中に、銀色のかたまりがあった。歯の詰め物が取れたのか。
 舌で口中を探ると、右上の奥歯に穴が開いていた。
 千秋は一瞬頭がクラッとするほど大きなため息をついて、歯医者に予約をするために、スマホに手を伸ばした。


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「どうしました?」
「ガムを食べてたら詰め物が取れたんです」
「ああ、なるほど」
 歯医者は不穏なほど尖った器具を千秋の口に入れて、カリカリと歯の穴をひっかく。
「中を少し削って、詰めなおさないといけませんね。麻酔をしましょう」
 千秋は顔をしかめた。
「ガム会社のせいです。ミックスガムなら、数を均等に入れてもらわないと」
 どういうこと? メガネの奥の歯医者の目が不思議そうに細まった。
「わたし、無意識に歯を食いしばっちゃうんです。で、すごく疲れるんです。だから野球選手の真似をして……」
 千秋は事の発端から、丁寧に説明した。
 歯医者は不穏な器具を宙に構えたまま、辛抱強く千秋の話を聞いている。
「で、残りの五粒をいっぺんに口に入れて噛んだら、三回目でガチッと音がして……」
 歯医者は誠実そうに五回うなずくと言った。
「それは残念でしたね。ただ、この歯は中が虫歯になっているので、ガムを食べなくてもおいおい取れてしまったと思いますよ」

 千秋は診察台に体が張り付きそうなほど脱力した。そうか、しょうがなかったのか。

「麻酔準備して」
 歯医者の声が無機質な空間に響く。


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 気になる……。

 帰宅した千秋は、まだ麻酔のしびれの残る舌で、奥歯を探った。
 オレンジ色の何かを詰められたのだ。金属でもセラミックでもなく、「仮」という頼りなげな物質。
 パソコンを立ち上げても、仕事に集中できない。
 舌先はすっと奥歯の詰め物の上をさまよっている。触らない方がいいと頭では分かっている。でも、どうしてもやめられない。
 しびれが取れて、舌先の感覚がクリアになっていくと、余計に奥歯の状態が気になってくる。
 あ、穴と詰め物の間に少し隙間がある。ここから取れてしまいそう。まずい。触らない方がいい。でも我慢ができない。ああ、隙間が広がっていく……。
 ポロリと口の中に詰め物が転がった。吐き出してみると、オレンジ味のガムのようだ。
 ガムのせいで出現した穴に、ガムが詰められたというパラドックス。千秋は思わず笑い出してしまう。
 取れてしまったものはしょうがない。その辺の接着剤で付けるわけにもいかないだろう。ティッシュでくるんでゴミ箱に放り込む。

 千秋はまたパソコンに向かった、

 舌先は、今度は歯の穴を探り始める。歯医者が削って大きくなった穴。奥が深そうだ。
 削った跡が、ざらざらと舌に触る。舌が傷になると思うが、これまたやめられぬ。

 どこが底だろう。あの歯医者はそんなに深く削ったのだろうか。
 まだ突き当りには届かない。舌先が入らないほど、細い穴なのか。
 千秋は目をつぶって舌先に意識を集中する。
 細く尖らせて、奥へ奥へ……。

 目が舌先に移動していく。真っ暗な穴の奥を見ようと目を凝らす。
 心臓が舌先に移動していく。どくんどくんと脈打ち、熱気を帯びる。
 脳が舌先に移動していく。奥を極めようとする意志だけが、先端をかりたてる。

 千秋のすべてが舌先に移動していく。

 奥へ、奥へ。
 奥へ、奥へ、奥へ……。

 底はあるのだろうか。辿り着けるのだろうか。

 千秋の体は闇を突き進む。

 突然、するりと抜ける感触が全身を戦慄させる。
 無限空間に放り出される恐怖。
 そののち体は解放され、細かく散らばっていく。

 わたしはどこへ行くのだろう……。

       ➰➰➰➰➰➰

 目を開けると、千秋は元通り椅子に座っていた。
 目の前のパソコン画面が真っ暗になり、ぼんやりと千秋を映している。
 前と同じ自分? それとも全く違う新しい自分?

 ……どうでもいい。

 千秋は大きく息を吸って、Enterキーを叩いた。

 ともかく仕事を終わらせるんだ。

                           ―了―

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