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「やさしくいよう」でやさしくできなくなるときがある。

「やさしい人でいよう」と意識することは立派だけれど、これは行き過ぎると、自分の怖かったり冷たかったりする一面を受け入れられないという弊害につながるのでは、と思う。
 
 前々から、「やさしくすると調子に乗ってつけあがる人ってなんなんだろう」と定期的に頭を抱えていたが、はたと、「『つけあがるな』と思う時点で別にわたしってやさしくはないな」、と気が付き、ついでに「やさしい人でいなければ」という気持ちがどこかにあることにも気が付いた。

 よくよく考えてみたら、「やさしい人でいたい」というわけではない。ただ、日常的におだやかに過ごせたほうがいいので、他人にはなるべくやさしい態度で接しようと思っているだけだ。
 それがいつの間にか「やさしい自分でいなければ」という強迫観念みたいなものを抱いてしまい、そうできない相手に悩んでしまっていたのだ。

 それが、「こんな自分ではだめだ」という自責の念になったり、「こんな気持ちにさせるあの人は、とんでもない人だ」と必要以上の憎悪を相手に抱いてしまったりする結果になっていた。

 人間、誰だって「やさしい面」も「こわい面」もあると思う。
 どちらが出るかは、自分の意識の問題もあるが、割と周囲の環境にもよる。

 それに、主観の「やさしさ」が客観的に見て「やさしい」とも、主観の「こわさ」が客観的に見て「こわい」とも限らない。

 主観での「やさしさ」が、客観的に見ると「甘さ」になっていたり、主観では「つめたい態度だったかな」と思っていたことが、相手から「あのとき突き放してくれて目が覚めました」というように、感謝されることもあると思う。

「人間にはこわい面もつめたい面もあるんだから、誰かを悪く思う今の自分の状態も仕方がない」と開き直る、ということではない。
「常にあたたかでやさしい気持ちをもっていなければならない」という気持ちでいると、そうできなくなったときに、必要以上に自分を責めたり、相手を攻撃してしまう恐れがあるのでは、と思う。

 そうならないためにも、自分にはやさしい面もこわい面もある、と思っていたい。
 基本的にはやさしい気持ちではいたいけど、こちらだけが正解なわけでもない。
 難しいことではあるが、なるべく主観ではなく、客観的に今の自分の状態が判断できるようにしたい。

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