失われ行く時代…

この先、SNSやYoutube、Tiktok、twitterなどの、SNSから発信される情報において、共感、反感を抱いたりすることもあるだろう。

そういった、細やかな情報が交錯する中で、個人が個として存在するために、感じる基本的な概念は、どこへと向かっていくのだろう。

情報が細分化される中で、果たして、一つの個人としての意見というのは、存在しうるのだろうか?

先ほども述べたように、メジャーな意見が幅を利かし、マイナーな意見は、排他される危険性もはらんでいるように、個人としては思う。

今の、世の中を振り返ってみれば、ほぼ、大多数の意見に流されているように思える。

声高に、正義を主張するマスメディア、それに呼応するかのように、肯定や否定を繰り返す輩たち。

何しろ、ネットの世界では、バズったらそれでいいという概念が横行しているという事実は否定はできないだろう。

ただ、それも、この世の流れではある。僕は、その流れに対して、否定も肯定もしない。ただ、確固たる個人として傍観しているだけだ。

というのも、その流れの渦に飲み込まれてしまうと、自分自身を見失いそうで怖い。なおかつ、その他、大勢の意見に流されるのも嫌だ。

僕は、僕なりの価値基準を持っている。それを他人に押し付けるつもりはない。

その本流に飲み込まれないように、個人としての意識は保ちたい。その理由としては、アイデンティティーを守りたいというものだ。

個人が個人として認識されることなく、その他大勢の意見として処理されることには、吐き気がする。

この先、どれだけ、自分の人生にネットが介在するのかは、想像もつかない。しかしながら、膨大なネットの情報という渦の中で、個というものを喪失しても、それに気づかずに、意見を述べるような、恥ずかしいことはしたくない。

それが、僕にとって、生きるということだから。

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