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謎の古墳時代を読み解く その7 旧唐書にある日本国 後編 日本人の活躍

 今回は前回に引き続き、『旧唐書』の内容で、今度は「日本国」についてです。漢文で1頁に満たない程の記述です。

 前回の前編の倭国についてはこちらとなります。

□旧唐書の日本について

 『旧唐書東夷伝日本』の出だしには以下の記載があり、日本国についての成り立ちの説明がある。

日本国は、倭国の別種なり。
其の国、日が登る辺に在るため、故に日本を名と為す。
或いは、「倭国自ら其の名の雅やかならざるを嫌がり、改めて日本と為す」と言う。
或いは、「日本、古くは小国なれども、その後、倭国の地を併合した」と言う。

日本人で唐に入朝した者の多くは、国土が大きいと自慢するが、信用のおける事実を挙げて質問に応じようとはしないため、中国では、彼らの言う事がどこまで正しいのか疑っている。

 日本国の名前の由来について、全部で4つの説明が書かれている。これは、過去多くの朝貢の使者達がやって来て行われた説明の積み重ねだと考えている。つまり、この4つの中のどれかでは無く、全てが日本側から言われたことであり、理由として存在していて正しいのだと思う。

 簡略化して書くと以下となる。

①倭国にある別の一種が日本国だった
②日が昇る東の端にあるから日の本となる国へ
③倭が中華思想による悪字のため良字の日本へ
④日本国が倭国を併呑した

 しかし、上記の4つの全てが論理的に単純に紐付くわけではない。その理由は、①の倭国の別種が日本と、③倭国が悪字だから日本に変えたがあるからだ。この2つがあると矛盾してしまう。単純に倭国が悪字を良字の日本にしたら、倭国と日本が別の一種にならないからだ。

 実は、少しひねって推測して考えれば、理論上は上記の4つをほぼ含める事が可能ないくつかの案が存在する。お気づきだろうか。以下のようなロジックだ。

1、元々は倭国の一種だった機内のヤマト政権が倭国が悪字のために東の国という事から日本国に改名し、倭国とは別の一種となった。その後、機内の日本国が力をつけて、北部九州の倭国のままだった国々を併呑した。

 ⇒神武東征のエピソードと合わせると、元々倭国から出た一部が機内に行き国を起こし、別種の機内勢力となった。近畿地方での広い平野と海山川のある住みやすい環境に恵まれ、どんどんと発展し、やがて東の国として日本国を名乗り、勢力を拡大していき、ついに九州の元々の倭国も支配下において日本国を統一したというような解釈だ。

2、北部九州の倭国連合だった国の中の力のある一部の国が倭国の悪字を嫌がり、日の本の国として日本という良字に変えた。やがて、北部九州の倭国連合が、全体で日本国を名乗ることになった。やがて機内にある倭国や日本国とは別の一種だった存在のヤマト政権が北部九州の日本国を併呑し、既に有名だった国名をそのまま引き続き、自分達の国名とした。

 ⇒こちらは、元々、機内と九州は別の勢力で、悪字を日本に変えたのも九州北部勢力の話で、当時、機内の大和国のヤマト政権が北部九州の国々を併呑して、対外的にも名が知れていた日本をそのまま国名として採用した、国名ごと奪ったというような解釈だ。現代で例えれば、例えば急激に成長したベンチャーやファンドの企業側が、古くからある名のしれている企業の買収や統合合併を行い、ブランド価値のある名前の企業名の方をそのまま名乗るようなイメージだ。その九州倭国を取り入れて日本国となったため、そのルーツが九州であることを残すのに、神武東征の形にしたという解釈になる。

 ここで一番分からないのが、最初に日本国を名乗ったのは、機内勢力のヤマト政権なのか、北部九州の倭国勢力のどちらなのかだ。機内勢力の『日本書紀』による「聖徳太子」の日出処の天子が日本の最初とみなすべきか、中国史書の『隋書倭国伝』による「俀王姓阿毎字多利思北孤」による日出処の天子を日本の最初とみなすべか、見解が大きく分かれる所だと思う。

 この当たりについては、再度、歴史の流れを捉えた上で日本史側からも再考していきたい。

 また、ここでは、中国側からは、日本側の言う事が信用出来ないという記載がされている。

 これには、当時の倭国、日本国として、主に、以下のような背景があると思っている。

・大国の中国に負けたく無い。馬鹿にされたくないという思い。対抗意識。虚勢。外交上の戦略。

・自分たちの国土と相手の国土をそもそも正確に把握していない。正しい距離感覚の欠乏。知識不足。

・万が一、中国に倭国を攻めよう、併呑しようと思わせないため、大国であること、遠くにあることのアピール、自己防衛本能の働き。外交上の戦略。

・文化や言語の違い、単語の違い、通訳を介することによる言語の違いによるコミュニケーション上の齟齬、誤解。言葉の伝達がうまく行かない。

・倭国、日本国への移行期による混乱。従来の倭国使者と、新たな日本国の使者の説明内容の食い違い。そもそも、2カ国から使者が来ているような状態で話が違う。

・使者が中国側に嘘をついてごまかしている状態。嘘の国土を伝えようとしている。嘘の歴史を刷り込もうとしている。例えば、日本は中国と同じかそれ以上の国土を持つ。元々倭国では無かった日本国が、自分たちが昔から倭国や日本国だったという偽りの説明を行うなど。

 真相は分からないものの、当時の中国側は、日本の言う事が信用出来ないと思って疑っているのは間違いない。嘘をついている、話しをはぐらかしていると感じたのだと思う。これについては単純な理由からではなく、上記のようないずれかの複数の理由が複合化された結果からだと思っている。

 1つだけ思うのは、倭国から日本国に国号を変えたときに、倭国からの使者として、前回に朝貢した同じ使者達に新しい日本国の使者として行かせて自分達の国名を変えたことはっきり説明させるや、あるいは倭国からの最後の国名変更を伝える上表文と、倭国から日本国になったので新しい国として挨拶の上表文を同時に渡し、両方の国書の差出人の王は同名でとかにすれば、混乱も疑いも無く国名変更が中国側に伝わり記録されると思うのだが、そのようなことをしなかったから、『旧唐書』では、倭国と日本国が存在する事態になったと思う。

 当時、そこまで気が回らずに、そうしなかっただけと読むべきか、そういった単純な国名変更という出来事ではなかったから、そんなことはしたくとも出来なかったと読むべきか。

 全くの余談ですが、どうやら現在の国際社会においても、大変残念ながら日本人は世界の国々の人々からみると、嘘つきな国民性、何を考えているかが分からずなかなか言ってることを信用出来ないと思われているようです。個人的には、日本人は世界中の中でも正直な国民性だと思うわけなのですが、残念ながら、世界からみると違うようです。日本人の持つ特徴から、本音と建前を使い分ける文化(ダブルスタンダード)、Yes、Noをはっきり言わない姿勢、相手を思いやり傷つけないために優しさからつく嘘は良しとされる文化、多彩な表現力を持つ日本語による回りくどい表現、単語を別の意味の表現へ置き換え印象を変える言い換える文化、周りを伺い空気を読み同調する習性、和を以って尊しとなすため話し合いによって変わる結論などが大きく関係していると思います。下手に損をしてしまっている部分や、誤解されやすい側面があるのだと思います。

 このため、自身の仕事での経験上からも、世界の人々とのビジネス上でのコミュニケーションを行うときは、特に出来る限りはっきりと意思表示をするシンプルに明確に伝えることを意識すると、より理解されて信用されやすく、より良い信頼関係を構築することが出来ると思っています。自身で上手く実戦出来ていると良いのですが。

□遣唐使の朝貢記録

 『旧唐書倭国伝』の「日本国」に記載がある朝貢の記録は以下だ。

703年 日本国の大臣の粟田朝臣真人
713年〜741年 副使の朝臣仲満(※朝衡へ改名) 
       使者 経書を学ぶ、書籍を購入
753年 使者
(760年〜762年 ※朝衡を抜擢 高官へ)
804年 学生の橘逸勢、学問僧の空海
806年 日本国使判官の高階真人
839年 使者

 遣唐使は、前回に説明した631年の第1回目から、839年まで、約200年間の間続いた。回数は諸説あり、最少だと12回〜多くとも20回くらいの間と考えられている。十年〜二十年に1回の頻度で行われていたことが分かる。

 ここで、やっと日本史に登場する人物と同じ名前が中国側の史書に登場する。日本では大変有名で仏教の真言宗の開祖である空海も登場している。粟田真人阿倍仲麻呂が両国の歴史書に同じ名前で登場する存在が確実な最初の人物だと思う。これ以前の時代は、必ず名前が一致しないのだ。また、これ以後の時代は、基本的に両国の歴史書の名前が一致している。これまでの過去の連載で説明してきたが、本当に意味深な現象だ。

 日本人には、子供時代の学校教育の年号暗記で、「白紙(894年:ハクシ)になった遣唐使」という語呂合わせでの年号が有名なため、最後の遣唐使の派遣が894年や、894年に遣唐使廃止を検討し決定したと思っている方も多いかと思う。しかし、実はこれは正しくなく、839年を最後に停止されていた遣唐使を、50年以上経ってから、894年になって、改めて遣唐使を再開するか再検討した結果、やっぱり送らないことを決めたというのが実情だ。なお、この894年の遣唐使再開検討のとき、送る場合の使者予定者があの有名な菅原道真である。そして、唐はこの少し先の907年に滅亡するため、このときの判断は正しかったのだと思う。(ちなみに、他にも有名な1192年のイイクニ作ろう鎌倉幕府も実はこの年では無かったと判断され、今では歴史の通説としても違う年に変わっています。)

 私見ですが、歴史の年号を暗記させてテストで問題に出すような子供時代の学校教育方法が変わってくれば、もっと沢山の人が歴史を好きになる、興味を持つようになるのではないかなと思っています。一般的には、歴史は過去の出来事を覚える暗記教科の扱いだと思います。暗記は人により、得意不得意、好き嫌いがはっきり分かれてしまう気がします。そして、歴史は、本来、暗記教科ではないと思います。

 例えば、894年の遣唐使を問題にするならば、当時の日本が遣唐使の使者に送る予定だった人物は誰でしょう、なぜその人物が選ばれたのでしょう、なぜ遣唐使を辞めることにしたのでしょう、のような国語的(作者は誰?、作者の意図は何?、どのような気持ちだったのでしょう?なぜそうしたのでしょう?等)な問題が多数派になると嬉しいです。

 歴史の専門家は別として、学校教育の子供や私のような一般の人の歴史の学びにおいては、歴史の発生年数は知らなくても全然問題はなく、だいたいの時代の流れや、その時代背景や、主要な人物や考えや、出来事のなぜや、それは正しい選択だったのかや、本来はどうすれば良かったのか等を追うべきだと思うからです。

 唐の時代も後半になると、唐の力が衰えて、治安も悪くなり、財政難にもなり、日本の留学生への受け入れ援助が十分に保証されないなど、初期の頃とは事情が変わっていたようだ。また、百済滅亡後の663年の白村江の戦い以後の遣唐使は、従来の朝鮮半島経由とは異なり、九州からの長い航路を直接船で中国本土を目指して渡航したため、とにかく良く海難事故、沈没にあっていたため、まさに命がけの渡航であり、実は一部を除くと使者や留学生へのなり手の人気も低かったようで、実際に朝廷からの命令を無視し使者としての乗船を拒否して処罰された人達の記録も残っている。日本としては、これまでの遣唐使で仏教や政治や経済や芸術や建築技術など、新しい文化や文明を十分に学べたから、もういまさらリクスをおかし、大金を使ってまで、唐へ学びに行く必要が無くなったと考えることが出来ると思う。

 しかし、飛鳥、奈良、平安時代という初期の日本国としての文化成立、国として日本人としての基となるアイデンティティの確立において、遣唐使によりもたらされた恩恵は図りしれず、色濃く影響を受け、現代にも通じていると思う。

□唐での一生を選んだ阿倍仲麻呂こと朝衡

 713年の遣唐使で副使を務めた「朝臣仲満」と書かれているのが、「阿倍 仲麻呂(あべのなかまろ)」のことで姓は朝臣とされている。なお、小倉百人一首では、「阿倍仲麿」と表記されている。百人一首にある「天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも」と唐にいて日本の故郷を思う歌の作者として有名だ。(ただし、この歌の作者には異説もある。)この阿倍仲麻呂は、九州福岡の筑紫大宰帥であった阿倍比羅夫の孫で、中務大輔であった阿倍船守の長男で、弟には美作守となる阿倍帯麻呂がいる人物となっている。当時の豪族、貴族、役人の家系であることが分かる。一説には、日本の平安時代の陰陽師として有名な「安倍晴明」が、この阿倍仲麻呂の子供の子孫だとする説もあるようだ。

 阿倍仲麻呂は、遣唐使で唐に行ったあと、自ら唐での名前を「朝衡(ちょうこう)あるいは、晁衡(ちょうこう)」と変えて、唐での役人になって暮らし高官にまで出世して、そのまま一生を唐で過ごした人物だ。
 当時の唐の詩人で、現在でも超有名なあの「李白(り はく):詩仙と呼ばれ、詩聖と呼ばれる「杜甫(とほ)」と並び称される中国史上での最高の詩人の1人」等との多くの文化人とも親交があり、朝衡が作った詩が唐の詩の作品集にも残っているし、また朝衡が亡くなったときに、李白が晁衡(朝衡)を偲び思いを読んだ詩も残っている。当代随一の詩人に歌を読んで貰えるなんて凄いと思う。

 日本から遠く離れた異国の唐の国で、自ら望んだ通り、当代の一流の文化人達に囲まれて、きっと幸せな充実した実りある人生を送ったのだと思う。

□嬉しい内容と謎の年号

 『旧唐書』の「日本国」には、以下のような注目すべき記載がされている。

玄宗皇帝の時代の713~741年にまた使者が来朝してきた。その使者は経書(仏教の経典)を教授してほしいと願った。玄宗皇帝は四門助教(教育機関の副教官)の趙玄黙に命じて鴻盧寺で教えさせた。

日本の使者は玄黙に広幅の布を贈って、入門の謝礼とした。その布には「白亀元年の調布」(調布は税金として納めたものの意味)と書かれていたが、中国では日本で税として布を収める制度があろうとは嘘だろうと偽りでないかと疑った。

日本の使者は唐で貰った贈り物のすべてを投じて書籍を購入し、海を渡って帰っていった。

 使者はまず自ら仏教の経典を学ぼうとしている。そして、入門の礼を行っている。経典を学べるだけの仏教の知識や、理解出来る中国語のスキルがあり、礼節も知っているかなりの知識人だと分かる。そして、中国から朝貢により貰った価値ある贈り物を全て売ってでも、自分達の学びのために本を購入して日本に持ち帰ろうとしている

 これは、かなり凄い事だと思う。私自身が本が大好きだからかもしれないが、初めてこの文を読んだとき、日本人で良かったなと、本当に嬉しかった事を覚えている。こんなにも知識、学問、学びを大切にする文化の国の子孫として生まれたのだ。中国皇帝から朝貢の褒美に貰った価値ある高価な品物よりも、本の方が欲しかったわけだ。高い知識好奇心、探究心、学びの姿勢があったからこそだと思う。きっと唐の進んだ文明を学び、日本に取り入れ、国としての発展、人としての成長と、唐に追いつけ追い越せを目指していたんだと思う。おそらく、当時にこんなことをしたのは、日本からの使者だけだと思う。だからこそ、中国側もかなり驚いてわざわざ記録に残したと思っている。

 日本側では、8世紀初頭以降に『古事記』、『日本書紀』をはじめとして、様々な日本の史書や和歌集などが続々とまとめられて行きますが、その内容には中国側の書が引用されていたり、真似されていたりと、明らかに作者達が中国側の書籍を読んで知っていた内容があることが分かります。きっと、このようにまとめ買いして持ち帰った中国書籍の中には、沢山の歴史書等があり、それらを読んで学んで参考にしたのだと思っています。

 そして、「白亀元年の調布」である。中国人は、まさか東夷の蛮族であり後進国の日本に、自分達の中国と同様な進んだ税制度があるなんて、夢にも思わなかったから、驚いて記録したのだと思う。実は税制度だけで言えば『魏志倭人伝』での倭国・邪馬台国(邪馬壱国)においても租税があることが記録されている。日本は、それ以降の時代もずっと定期的に中国に朝貢しており、常に最新の文化や制度を学んできており、うまく中国の進んだ律令制を自国にアレンジしながら取り入れてきた結果なんだと思う。

 『魏志倭人伝』の邪馬台国(邪馬壱国)での租税については、以下参照のこと。
魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その11 倭人の文化風習

 そして、実は、上記の説明文には、1つの小さな謎がある。それは、日本史の年号の話だ。「白亀元年という元号は一体西暦の何年なのか?」。実は白亀という年号は、日本史上には存在しないのだ。ここに記載されている奈良時代には「白」を用いた年号は無く、「亀」を用いた年号は、以下の3つがある。亀という漢字が同時代でこんなに使われているのも珍しいと思うが、古来より亀は万年と言われているように、長生きする縁起が良い生き物とされているのが分かる。きっとこの時代が長続きするようにという願いが込められていたのだろう。

 霊亀 715年〜717年
 神亀 724年〜729年
 宝亀 770年〜781年 ※年代的に違う

 713~741年の間に使者が来たとあるからこの間だとすると、上記の霊亀か神亀が、白亀に近い漢字の元号となる。諸説あるが、通説だと「神亀」の書き間違いだとされているようだ。もちろん、誤記の可能性もあると思う。しかし、そんなに簡単に肝心な年号部分を間違うだろうか。しかも、白と神や霊は、読み方の音も漢字の書体もかなりはっきり異なり、間違えやすくは無いと感じる。当時の人々には、西暦は無いので、この各国の元号だけが、この時代の年代を表す唯一無二の重要な時間表記になる。そう考えると、倭国で「白亀」を用いていた可能性や、他の日本国内の地域で「白亀」を用いていた王国があったと捉える考え方も十分ありえると思う。

 このように、古代には、ちょっとした至るところに、面白いミステリーが存在している。様々な謎が謎を呼び、太古へのロマンは決して尽きないのである。

 ここで、簡単に「九州年号」という存在について触れておきます。

 いまの日本の「元号」は、「令和」です。そもそも元号は、古代中国で生まれた制度であり、紀年法と呼ばれる一種で、特定の年代を表す年号を用いて年代を表すものです。日本では、あの有名な「大化の改新」の後の「大化」という年号が最初です。そして、なんと、現代では、世界で日本のみが用いているようです。これからも守っていくべき大切な日本の良き文化という気がします。現代は、天皇の退位と即位により年号が変わっていますが、昔は、必ずしもそうとは限らず、不吉なことが起きたから年号を変えたり、新しいことをはじめるから縁起をかついで年号を変えたりと、天皇一代の中でも複数回変わることが一般的でした。

 この年号ですが、寺社などで昔からある古い古文書には、ときどき、日本の正統な朝廷の年号とは明らか異なる年号の記録が存在していました。これらを「私年号」と呼んでいます。南北朝時代の朝廷が併存した時代にそれぞれが用いていた年号など存在理由がはっきりしているものもあれば、なかには理由が不明なものも多々あります。これらの私年号の記録が古代九州地方に複数存在していたため、これを当時の「九州王朝」が用いていた「九州年号」だ、という解釈があります。もちろん、本当かどうかは分かりません。現時点では、歴史の通説にはなっておらず、異説や珍説の扱いだと思います。もちろん、その存在を信じている人達もいます。

 こういった記録が散在して残っていた以上、その全てが単なる誤記や間違いというわけではなく、何らかの理由があるものだと考えることも出来ると思います。九州年号については、またいつか別で考察してみたいと思っています。


■次回は、謎多きキーマンとなる古代天皇について

 次回に続く

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最後までお読み頂きありがとうございました。😊



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