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魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その3 金印の奴国と倭国の記録

 ここでは、奴国について考察します。唯一、国が実在したことの証が発見されている国です。

□奴国の不思議さ

 金印で有名な奴国だか、魏志倭人伝では、実は奴国に関する記載はとても少ない。(奴国は、一般的にナコクと読み、倭奴国は、一般的にワノナコクと読むが、倭奴国でイドコクやイヌコク、奴国をヌコクと読む解釈もある。)そして、奴国だけが、二回登場する。

1回目の奴国
 奴国(5番目の国)は、伊都国から東南
 二万余戸ある国だと説明
  伊都国→奴国→投馬国→
   邪馬台国→斯馬国(9番目の国)→
    斯馬国以降は、略記で国名のみ紹介
     (ここでは以降の国名は割愛)

2回目の奴国
  →邪馬国→烏奴国→
    奴国(29番目の国)
     奴国が女王国の境界の尽きる国
     →狗奴国
      女王国に属さない国、
      男王の国、邪馬台国と争い中

□奴国は歴史ある大国

 順に考察してみよう。まず、1回目の奴国は大国である。魏志倭人伝の中では、万を超える大きな国は、邪馬台国(七万与戸)、投馬国(五万与戸)、奴国(二万与戸)だけである。このことからも、この三カ国が力を持つ国だと分かる。この戸数の実数字は、オーバーに記載されているだけなのかもしれないが、仮に半分だったり、桁を1つ下げたとしても、大規模な集落だと分かる。また、それだけの人口が養える広い平野、食糧調達が可能な自然豊かな場所であることを示す。

 実際に金印(漢委奴国王印)が発見された奴国(なこく)は、那珂川(なかがわ)が流れている福岡県福岡市の平野と考えられ、この地域には、那(な)の川、那(な)の津という地名も残っている。つまり、漢字で表現するならば、奴国(奴隷、奴等とかの奴ではなく)とは、那国の事だったと思う。近くに海、川、山があり、人口を養える条件を満たしている。他の二カ国も同じような恵まれた立地のはずだ。

 なお、実は金印の国印の読み方については、諸説があり、実は確定まではしていない。「漢の倭(委)の奴国の王の印」というのが一般的な通説で、その理由は、『後漢書』に、57年に倭の奴国(または、倭奴国)が中国に朝貢し印綬を与えられた記録があるためだ。まさに、このときの金印だと考えられている。

 他の有力な解釈としては、古代中国が朝貢してきた周辺諸国に与える印は基本的に全て「中国の国名+相手国の国名+与える位の印」の形式である。この読み方で読めば、「漢+委(倭)奴国+王印」となる。つまり、「漢の委奴国の王印」だ。通説の読み方だと「中国の国名+相手国の民族+相手国の国名+与える位の印」となるが、当時の中国が与えた印綬で発見されたものにはこのような民族を表現したものはない。だから、通説の読み方では無いというわけだ。ここは私もそう思う。

 そして、このときの委奴国は、イドコクやイトコクという読み方の音だと考えられていて、つまり、『魏志倭人伝』に記載されている倭国連合内の伊都国(イトコク)の事だと想定されている。仮に、通説の「漢の倭の奴国の王の印」だったとしても、私は、この倭は特に民族を表したものではなく、「中国の国名+相手国のその地域の全体を表す国名(全体国名、連合国名)+その中の相手国名+与える位の印」を表現したものではないかと思う。

 多国・多民族国家の統一国家の中国あるいは、漢民族が支配した統一国家のため、たしかに民族を国名に反映するような文化ではないと思うからだ。その場合は、おそらく、当時の倭人が、倭国(地域国名や連合国名)に属する奴国であることを毎回説明していたため、それが分かるように地域の連合国名である倭を付与したものだと思う。というのも、同じ三国志の中で書かれているお隣の朝鮮半島の南側に当たる韓国は、馬韓、辰韓、弁韓の三種に別れ、馬韓は五十余国、辰韓や弁韓も十二国に別れていて各国名も書かれていたりするからだ。

 もちろん、他の可能性としては、シンプルに、委奴国(伊都国)への印だった可能性もあると思う。個人的には、倭の奴国も伊都国も隣接する博多湾沿いの九州北部の倭国連合内の国々であり、古くから歴史ある重要な国々と思われるため、どちらの可能性もあり、また歴史全体を大局的にとらえると、実はどちらでも大局的には大差は無いとアバウトに捉えている。

 なぜならば、当時の真実は、倭(わ)の奴国(なこく)や倭(い)の奴国(なこく)だろうが、倭奴国(いとこくやいどこく)だろうが、それらが転じて、現代の我々にとっては、和(わ)であり、大和(やまと)であり、日本やJapanが事実であることには何ら変わりがないからだ。(もし、魏帝が卑弥呼に送ったとされる「親魏倭王」の金印が見つかれば、倭国(わこく、いこく)であることが強まると思います。もし金印の文が、親魏倭奴王とかならば、イドコクやイトコク等だった可能性が高くなると思います。)

 奴国は、説明に出てくる順番より、奴国の2つ先が邪馬台国であるため、邪馬台国ともそれなりに近くにある国だと考えている。

 なお、余談ですが、江戸時代にこの漢委奴国王印の金印が発見された場所は、奴国や伊都国ともすぐ近くの現在の福岡県福岡市にある志賀島(しかのしま)です。この志賀島は、『筑前国風土記』にも登場しており、神功皇后との縁がある場所で、海に飛び出した志賀島の浜が手前の浜と近いことから、ほとんど同じところだということを言われたので、近嶋(ちかのしま)と言うようになり、やがてそれが訛って資珂嶋(しかしま)と呼ぶようになったことが書かれています。のちに、漢字が変わり、現在の志賀島(しかのしま)の地名に変化したわけです。

 そして、この志賀島は、実は『古事記』にも登場しています。有名なイザナギとイザナミの国産みのエピソードに、「次生知訶島。亦名謂天之忍男
」と記載があり、訳すと、「次に生まれたのが知訶島(ちかのしま)で、またの名を天之忍男(あめのおしお)と言う」となります。古事記の国産みに記載されている知訶島は、現代の九州の長崎の五島列島のことだと考えられていたり、一説にはこの福岡の志賀島のことだと考えられていたりするようです。志賀島のことだったと考えると、志賀島は、今でこそ九州と海の中道により陸続きに繋がっていますが、かつては島だったことがこの古事記の記述からも分かります。実際に、志賀島は、砂州により本土(九州)と陸続きになった全国的にも非常に珍しい陸繋島です。このように、志賀島は、非常に古くからの歴史ある土地というのが伝わってきます。

□奴国は女王国の境界

 次に2回目に登場する奴国は、女王が治める境界となる国という説明だけが書かれている。出てくる順番も、女王国での最後の順番だ。

 奴国の次に出てくる国は、邪馬台国とは戦争中との記載がされている「狗奴国」である。このため、奴国は、狗奴国とも近いことが分かる。個人的には、その2つ前の国の名前が「邪馬国」という邪馬台国と関連しそうな国名があるのも気になる。全然関係ないかもしれないが、似た漢字や音としては、九州北部の山中の大分県には、「耶馬渓(ヤバケイ)」という地名もある。

□女王国の奴国は同一国か

 当然、同一国と考える説と、別々の国だと考える説があるが、どちらの奴国も同じ女王国であることは明記されている。私は、同じ女王国内で同名だと国の区別が出来ないため、この2つは同一国だと思っている。(もしかしたら、単に2回目の国名が、例えば奴山国や奴東国のような元々別の国名だったものが、写し時に文字が欠落しただけ等の理由で、実際には別の国名だったという可能性もあります。)

 奴国だけが2回出てくるのは、とても印象的である。この2回出て来ても不自然がないケースを考えると、私はそこから国々が円形のような地理感になっているからではないかと思う。1回目がスタートで、そこから南下しながらぐるっと周って輪っかになり、最後に北上して元のスタートに戻るイメージならば、最初と最後に奴国の名前が出てくるのは、自然だと思う。またそれを示しているから、あえて2回登場させてるのではと考えている。(もちろん、2回目の奴は、単なる国名の漢字一字の書き間違いや、奴の前後に記載されていた2文字の漢字の1つが欠落しただけかもしれません。このような理由だったからと意味を持たせて考えてみた方が楽しかった、自説に都合よく辻褄が合ったからです。)

 そして、その輪(わ)の状態に国々があることを表して、当時の人々が中国側に自分たちは「わの国」から来た(倭の漢字は中国側での当て字)と名乗ったのかも知れない。(もしそうだったら、全ての理由が辻褄が合い論理的に紐づく形となり、すごいです。太古への壮大な夢が無限に広がるのを感じます。)

 補足ですが、「倭」は、中国の古代の書籍の『論衡』に、「の時代に倭人が朝貢してきた」や、同じく『山海経』に、「倭はに属す」というような記録があります。これらが歴史上の倭の最古の記録のようです。ここで登場する倭人が当時の日本列島に住んでいた人々を指すのか、それとも中国の南部や朝鮮半島の南部に住んでいた人々のことを倭人と呼んでいたのかは、定かではないようです。日本に住んでいた倭人と考えている人達もいます。
 
 その後、中国側に残っているはっきりとしている倭人の記録としては、『後漢書』に、「建武中元二年(57年)に倭の奴国が朝貢した」という記録が残っています。こちらは、国名、金印もあり、我々の日本列島に住んでいた倭国で間違いないと思います。

 もう1つ、朝鮮半島側の記録では、『三国史記 倭人伝 新羅本紀』に、もう少し古い時代の紀元前50年に「倭人、兵をつらねて辺を犯そうとする」、紀元後14年に「倭人、兵船100余船をもって海辺の民戸を襲う」、59年に「倭国と友好する」等の倭との記録が多数残されています。

 このように紀元前後辺りには、既に現在の日本の元となる倭国が存在していたと考えることができます。
 
 なぜ、国名を倭(ワ)と名乗ったのかも諸説あります。中国側が何かの特徴や理由から名付けたという見方、倭人側が自ら名乗った見方があり、それぞれにも諸説があります。

 私は、朝貢というのは、知らないと出来ない行為のため、お隣の韓国などから朝貢の事を教えて貰った(国名が必要なことも)後に、万全な行く準備をしてから(国名も決めて)出発しただろうと思うので、倭人側から自分たちの国名として名乗ったという説が妥当な解釈だと思っています。また、もしも、中国側が名付けた名前ならば、背が低く体が曲がってたから倭、従順な性格だったから倭としたなどの従来からある解釈よりも、中国側からみて、他に倭人を表すもっと分かりやすいピッタリの国名が思いつくからです。例えば、黥面文身国(顔と身体に入れ墨)、百寿国(長寿を表す)、東南海国(位置を表す)などです。こういった分かりやすい名前では無いため、少なくとも倭は中国側が名付けたわけではないと思っています。

 そのため、我々のという意味の古代語がワだったからや、もしくは、輪っか(円形)状の住居や、国の敷地、国々の位置などの何らかによる輪の円形状から名付けたというのが、一番自然な気がしています。また他にも和を重んじる国民性だからと和(ワ)にしたという精神的な意味合いの理由から名付けたという説や、小国が合体した連合国家だったから、共和国のような意味合いでの和だったというような説もあります。これらの意味合いから名付けたというのは、現代人目線で考えられたもっともらしい理由ですが、当時に古代人が考えた理由としてはちょっと難しい概念や思想から名付けられている気がしており、私は違う気がしています。他の説としては、最初に国を起こしたや治めていた王一族の姓が倭(ワ)氏や倭(イ)氏が治めていた国だったから王の名を表す国名だったというような考え方もあるかと思います。

⬛次回は、その他の女王国の国々について

 次回へ続く

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最後までお読み頂きありがとうございました。😊

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