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魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その20 日本の創世記 まとめ

 ここでは、日本での人類の歴史の始まりについて、現在の一般的な解釈に合わせて、これまで考察した内容を振り返りつつ、簡単にまとめてみたいと思います。

□日本での人類の歴史の始まり

 日本列島には、少なくとも約3万8千年前頃には人類が暮らし始めていたようです。まだ旧石器時代と呼ばれる時代で、今から約1万6千年ほど前までの時代です。この時代の遺跡としては、熊本県の石の本遺跡、長野県の貫ノ木遺跡、群馬県の岩宿遺跡、沖縄県のサキタリ洞窟跡、東京都の武蔵台遺跡など日本全国各地で多くの遺跡が見つかっています。また、まだはっきりとは認められてはいませんが、最も古い石器類では、島根県出雲市の砂原遺跡で約12万年〜11万年前の石器とみなされる石片類や、岩手県遠野市の金取遺跡で約9万〜8万年前の石器や木炭粒とみられる発見があります。日本列島には北はロシア大陸側から北海道経由のルートで、南は中国、台湾、朝鮮半島側からから九州、沖縄ルートで、日本列島に人類が移り住んで来たと考えられています。氷河期により海面の水位が下がり、日本列島が、北と南で大陸と陸続きになったときや、暖かくなり海に戻ったときにも簡単な船で移動して来たのだろうと思います。最後の氷河期が、約7万年前から約1万年前ほど前の時代だと考えられています。この期間には縄文時代も含まれます。この時代の人類の化石では、沖縄県の港川人や、静岡県の浜北人などがあります。

 最近の考古学では、炭素14法などの年代測定の技術の進化や遺跡発掘の調査などが進み、日本の縄文時代は、約1万6千年〜5千年前頃から始まり、約3,000年〜約2,500 前頃に終わったと考えられているようです。1万年を超えるような本当に長い時代です。この間には氷河期もあり、途中、食料調達や生活に厳しい寒い気候になると人口は減り、食料調達が行い易く暮らし暖かい気候になると人口が増加しているようです。日本の縄文時代では、遺跡調査などからは、西日本側よりも東日本側の方が人口も多く栄えていたようです。東日本の山々の方が面積も大きく大規模な広葉樹林、落葉樹林が発達して栗やどんぐりや熊や猪などの食料調達が豊富だったからだと思います。日本の最大規模の縄文時代の遺跡としては、青森市の三内丸山遺跡が有名です。縄文時代から既に定住の集落が作られて、倉庫などもあり、栗の樹木や植物の栽培が行なわれていた事が分かっています。現代人が想像してしまうような原始的な生活ではなく、もっと進んだ文明、豊かな暮らしがあったと考えられています。

 日本では、紀元前10世紀くらいから、紀元後3世紀頃までを弥生時代と呼んでいます。北部九州では、今より約3,000年ほど前から稲作が始まっています。日本に稲作を持ち込んだのは、中国南部で稲作を行っていた越人、呉人、江南人と呼ばれる民族のようです。初期の稲作を示す遺跡としては、福岡市にある板付遺跡や唐津市にある菜畑遺跡が有名です。日本列島には、中国や朝鮮半島から何度かに分かれて多数の移民が渡って来たと考えられています。中国で北方の漢民族が南部の民族との戦乱や朝鮮半島での北部と南部で戦乱などがあった際に、戦乱から逃げる形で移民が増えたと考えられます。稲作は保存が効く食料を大量に安定して調達出来るため、またたく間に広がっていき、いくつかの説はありますが、およそ約600年前後で日本中で稲作が行われるようになったと考えられています。稲作には温かい気候が適しているため、その結果、西日本側の方が東日本側よりも人口が多く栄える形になったようです。

 この後、4世紀頃から日本は本格的な古墳時代へ入っていきます。日本での古墳時代は3世紀半ばから8世紀始め頃になります。

 この連載で考察してきたのは、主にこの弥生時代の後期の話しです。『魏志倭人伝』は2世紀〜3世紀頃の物語です。そこに登場する卑弥呼は3世紀前半にいた人物で、倭国、奴国に関しては記録に残る限りは1世紀半ば頃から、邪馬台国(邪馬壱国)は、少なくとも2世紀末から3世紀の半ばには日本にあった国です。

□倭国について

 縄文時代、弥生時代を通じて、日本中に集落があった。弥生時代の中期から後期の遺跡をみても、九州、中国・四国、近畿、東海、関東、東北など、それぞれに国々があった。

 当初は、本当に小さなムラだった国々が、時代と共に大きくなっていき、やがて集団の規模が大きくなった。周辺国々との交流で、食料や産物や土器や翡翠など物々交換を行っていた。その中で、国同士が仲良くなったり、不仲になったり様々な関係性が生まれた。国が統合したり、分裂したりもあり、周辺国同士の間での争いも盛んに行われるようになった。この時代はまだ全国統一とかではなく、このそれぞれの地域で、土地や産物や取り引きや信仰などのそれぞれの理由により、局地的な争いが行なわれていたと考える。4世紀以降の古墳時代に全国各地に古墳が作成されるのは、各地方の豪族がそれぞれ力を持っていたからこそだと思っている。

 1番古い倭国や倭人の記録が残されているのは朝鮮半島や中国の歴史書で、紀元前後あたりの年代からだ。九州北部の国々では、朝鮮半島経由でやってきた人々から中国への朝貢から得る事が出来る庇護の効果を知り、中国への使者を送り始めた。一番古い記録に残っているのは、1世紀半ばの倭の奴国の朝貢だ。そんな時代の中で、北部九州の地域にある国々が連携して倭国を形成した。中国や朝鮮半島との交流により、新しい文化や学問や宗教などが、倭国に入ってきた。また、中国や朝鮮半島からの渡来人もどんどんやって来て、日本に移り住んできた。

 倭人は、顔にも身体にも入れ墨があり、朱色の染料を身体に塗っていた。海に潜り、魚介類を好んで食べていた。何かあると占いを用いて決めていた。既にけがれやみそぎに関する思考があった。倭国には、既に身分の上下があり、市場も税もあり、住居内で部屋の仕切りもあり、現代人が思い浮かべるよりもずっと高度な文明社会が形成されていた。

 倭国は、『魏志倭人伝』に記載されている内容と国内の弥生時代の遺跡の特徴から、北部九州の島々と福岡平野と筑紫平野に存在した国々であったと考える。卑弥呼の邪馬台国もこの倭国にあった国の1つである。最大期には、直方平野や豊前平野など九州北部全域に広がっていき、後の筑紫国を形成したと思われる。

 後の畿内のヤマト政権の勢力と、この九州北部の倭国連合の国々とは、別の勢力で、3世紀にはそれぞれが別々の存在であった。しかし、『日本書紀』や『古事記』、あるいは後の時代の中国正史にある記録からは、日本の天皇家の祖先は元は九州から東の近畿内に移動した事が記録されている。「ヤマト政権」の発足時期に、実際に九州勢力の一部が移動して畿内を治めたり、畿内勢力の一部と合流したりしたのか、あるいは、ヤマト政権の畿内勢力が自らの出身を九州の倭国にする必要があったのか、何らかの直接的な関与があったと思われる。

 九州北部の勢力と、近畿内の勢力とは元々は別である。邪馬台国が畿内にあり、そのまま後のヤマト政権になったわけでは無い。かといって、九州の倭国や邪馬台国がそのまま東に移動して畿内のヤマト政権を起こしたわけでもない。ヤマト政権が誕生したときも、九州にも倭国連合の勢力が残っていたと考えている。

 その17 倭国と邪馬台国の所在地
 その18 中国側正史と日本神話での倭国
 その19 神武東遷の意味と大和

 日本の古墳時代に全国各地で様々な形状の古墳が造られたのは、ヤマト政権が全国を従え、全国へ影響を与える中央政権だったわけではなく、むしろ各地域の王族がそれぞれで力を持ち、各国での独立した自治権があり、やがてヤマト政権が力を持ち各国を従えていく形になって、古墳時代が終焉し飛鳥時代がスタートしたものと考える。

 この時代の歴史を考えるとき、やはり歴史を大局的に流れで捉える必要があると思っています。魏志倭人伝、邪馬台国(邪馬壱国)、卑弥呼といった話になると、どうしても、邪馬台国はどこだ、卑弥呼は誰だといった局所的な話になりがちです。そして、邪馬台国は北部九州だと言う説は盛んに沢山唱えられているわけですが、九州説においては、この後の時代への展開や考察がまだまだ不十分な気がしています。このため、今回は縄文時代から弥生時代へという流れで日本創世記を捉え、本連載では、九州倭国連合、邪馬台国から神武東征、中国の歴史書と日本の歴史書という繋がりを表現してみました。ここでも、邪馬台国という小さな国で捉えるのではなく、小さな国々が集合や連携した倭国グループという地域で捉えて考察する必要があると思っています。そして、この後の弥生時代から古墳時代へという流れがとても大切であり、特に邪馬台国九州説においては、その後の時代へのストーリー展開がどうなったのかを解き明かす必要があります。今度は、その謎を読み解きながら、次の古墳時代について考察していきたいと思っています。

■次回は、次の古墳時代の新たなテーマで連携へ

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 次回は、空白の謎の4世紀と呼ばれる古墳時代のテーマについて考察してみます。

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最後までお読み頂きありがとうございました。😊

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