見出し画像

魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その10  魏志倭人伝の世界 印象深い単語と意味

 ここでは魏志倭人伝を読んでいて、印象的だった単語をいくつか取り上げてご紹介します。ここでは、言葉の雰囲気をお伝えしたいため、あえて原文も載せてご紹介しています。

□瀚海(かんかい)

又南渡一海。千餘里、名曰瀚海。至一大國。

 対馬国(対馬)から南にいき一大国(壱岐)へ行きときの海の名前が、瀚海と書かれていた。いまだと、玄界灘だ。こんな時代から、この海に名前がついていたのかと思うと感慨深い。ちなみに、瀚海の他には海の名は登場しない。日本に近いこの位置の海なのでおそらく当時の倭人が名付けていた名前だと思う。瀚(カン)は、広いという意味があり、古くはガンとも発音したようなので、そこからゲンカイとなったのかもしれない。

□持衰(じさい)

其行來渡海詣中國、恒使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、 如喪人。名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。

 中国に船で行くときには、必ず常に1人、持衰という役割の人がいて、衣服が汚れシラミがいて禁欲の状態でずっと渡航の無事を願って過ごす。渡航が無事成功すれば財産や奴隷が与えられ、もし渡航者が病気や暴風雨などの被害に合うと、持衰が不謹慎だったからと殺されしまう。

 渡航の安全祈願を担う生け贄のような命がけの役割だ。当時の倭人が、こういったまじない社会、神頼みの考えに基づいて生活していることが良く分かる。同じく当時の渡航がいかに命懸けの運任せの旅であったことも分かる。また、女性を近付けず、肉を食べずとあり、この当時から、既に倭人には穢れの概念が存在することがみてとれる。日本では、穢れ思想は、平安時代に貴族社会から生まれたような考え方が定説だと思うが、私は弥生時代から生まれた思想だと思っている。

 人体に対する正しい科学的な知識がない古代において、古の日本では、女性の月経の生理現象を女性の身体が穢れているから起こると考えられていました。死に繋がる血を穢れの対象として捉えていたのです。私は、現代では、女性に対してあり得ないひどい考え方で、男尊女卑の極みだと思います。しかし、古くから穢れ思想のある日本では、このような考え方があったことは、歴史的な事実なので、あえて触れています。
 死や血への穢れは、獣を殺して肉を食べる狩猟民俗であった縄文時代には無かったはずの概念で、稲作中心の農耕民族になった弥生時代に生まれたのだろうと思っています。なお、現代においても、穢れを恐れて、一部の神聖な島や山や場所とされる所には、女人禁制の文化、風習や制度が未だに残っています。

□生口(せいこう)

親魏倭王卑弥呼。帶方太守劉夏遣使、送汝大夫難升米、次使都市牛利、奉汝所獻、男生口四人、女生口六人班布二匹二丈以到、汝所在踰遠、乃遣使貢獻是汝之忠孝。

壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人送政等還。因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千孔 青大句珠二枚異文雑錦二十匹。

 生口は、魏志倭人伝の中に何度か登場する。先の持衰への褒美としても登場していた。ここでは、卑弥呼や壹與や中国への貢ぎ物として差し出した献上品の記載の原文を載せてみた。
 生きた口である。全く馴染みが無い単語だ。なんと生々しい単語なんだろう。献上品の中に品物と一緒に並んで書かれている。一般的には、いわゆる奴隷である。本来の元々は捕虜を意味していたが、転じて奴隷を意味するようになったという説がある。魏志倭人伝の中には明らかな身分の階級を表す表現がいくつもあり、弥生時代に既に階級社会が始まっていることが分かる。

 一方で少数意見ではあるが、生口は奴隷ではないという考え方もある。生口は、献上品となる伝統工芸品を作成した技術を持った職人、あるいは、真珠などを海産物を潜って採取する能力を持った海人だという説だ。技術者も合わせて一緒に献上したという考え方だ。

 色々探してみた結果、朝鮮半島の歴史書である『三国史記の新羅本紀の倭人伝』の中に、「440年に倭人が南辺を侵し、生口を奪い取って去った」という記載を見つけました。この記載は、住民を捕虜や奴隷としてのような意味合いでの使われ方だと思います。

 奴隷だと、同じ倭人なのに、人を人ではないものように扱い他国に渡したということになる。後者だと、一度の品物だけではなく、それを次に生み出す技術も合わせた伝えようとしたことになる。全く発想の意味合いが違ってくる。おそらくは、捕虜や奴隷のことだとは思うものの、願わくば、後者だったならば日本人として本当に嬉しいなと思う。

□黥面文身(げいめんぶんしん)

男子無大小、皆黥面文身

 黥面文身も、かなりのインパクトのある言葉の響きだと思う。この一文の意味としては、以下の2つが考えらる。

 ・男性は、大人も子供も、
  皆、顔と体に模様の入れ墨をしている。

 ・男性は、身分の高い人も身分の低い人も、
  皆、顔と体に模様の入れ墨をしている。

 魏志倭人伝の中では、室内に仕切りがあり、父母兄弟がそれぞれ別々に寝ていることや、倭人には身分の違いがあることが書かれている。倭人の入れ墨は、人により位置や大きさが異なり、身分によっても入れ墨が異なることも記載されている。このため、どちらの可能性もあると思うし、どちらの意味合いを含んで、単に大小と表現したのかもしれない。どちらかといえば、身分ならば、高低で表現するのが自然なため、大小で表現したのは、大人と子供を表現したかったからだと思う。

 いずれにせよ、古代の倭人は、入れ墨をする文化風習だったことが分かる。入れ墨は、海にもぐり魚介類を採取する際に危険から身を守るおまじないの意味ということも書かれている。

 また、一足先に文明が進化していた古代中国(古代中国では、罪をおかした罰として、罪人であったことが分かるように、顔に入れ墨を彫る刑罰があったりもした)の人達から見ると、倭人はかなり原始的な野蛮な民族に見られたのではないかと思う。きっと、辺境の地から現れた倭人の全身入れ墨の異質な姿にかなり驚いたことだろう。

□一大率(いちだいそつ)

自女王國以北、特置一大率。検察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。

 一大率、なんてカッコいい響きだろう。この連載でも伊都国について記載したときに紹介した内容だ。
「女王国より北には、伊都国に特別に1人の統率者、監察官をおいて、諸国を監視し、諸国はこれを恐れた。まるで中国の刺史のようだ。」となる。中国での刺史は、監察官、州の長官になる。このため、ここでの一大率は、大将軍、監察官、統率者のような意味合いだと思う。

 ちなみに、漢文から訳してしまうと「1人の大率を置いて」となるのがおそらく正しい解釈だが、ダイソツでは全然カッコいい響きにならない。また、それなら漢文的には「特置一人大率」とも書けるわけだから、ここでは、伊都国に一大率がいたとして、言葉の響きを味わいたい。

 後の時代の『隋書』の「百済条」の中には、百済の官階は、16等に分かれていて、一番上級が左平といい、次が大卒、次が恩卒、(以下の官位は省略)というような記載がある。百済の官位を真似して倭国でも導入されていたのかもしれない。なお、一大卒は、中国側の帯方群から派遣された役人というような説もあるが、そうであれば、中国側は、わざわざ中国の刺史のようなどとは補足説明を書かないし、我々が派遣した大卒を恐れたとかの記載になるので、記載内容や表現から、そうではないと思う。

□宗女(そうじょ)

復立卑弥呼宗女壹與年十三為王。國中遂定。

 卑弥呼の宗女の13歳の壹與を王に立てたら遂に国中が安定したという有名なくだりだ。初めてこの単語を見たときに、神秘的な卑弥呼に繋がる宗女って一体なんだろうと思ったのを覚えている。

 実は、宗女とは、一族の女という意味で、言葉の意味は明らかのようだ。対象としては、同宗(一族や同姓)の女、姪、一族の宗家の世継ぎの娘とかを表すときの表現のようだ。実は、同じく『三国志の東夷伝』の「夫余」国の中でも「遼東太守の公孫度が宗女を夫余王に嫁がせた」という記載がある。このため、当時の一般的な用語なんだと思う。

□鬼道(きどう)

名日卑弥呼 事鬼道能惑衆

 卑弥呼の説明において、「卑弥呼が鬼道を用いてうまく民を惑わした」という記載がある。この鬼道の解釈については、以下のような諸説がある。もちろん、そのどれが正しいかは断定出来ない。

・占いのこと
・呪(まじな)いのこと
・シャーマニズムのこと
・祭り事のこと
・当時の中国に生まれた新興宗教の道教のこと
・日本人に古来からあった神道のこと
・中国の儒教じゃない信仰だから鬼道と表現

 1つだけ、はっきり分かるのは、鬼とかのような悪字が使われているのは、中華思想に基づく悪意、卑しみの心理の表れなので、決してその言葉通りの意味ではないという事だ。

 このため、当時の中国側からみたら自分たちが信じる「儒教」こそが正しい教えのため、それ以外の教えは全て邪教にあたるため、鬼道と表現した。民はその間違った教えに従っているから、卑弥呼がうまく民を惑わしたと表現された。というのが、実情のような気がする。日本側の目線で書き表すと、実際は、「神道による占いや祭り事を行い、民を良くまとめて導いた」という事なのではないかと思う。

⬛次回は、倭人の文化風習について

 次回へ続く

 全編への目次に戻る

最後までお読み頂きありがとうございました。😊

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?