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魏志倭人伝から邪馬台国を読み説く その19 神武東遷の意味と大和

 ここでは、ヤマト政権や天皇家のルーツは九州にあったのか、神武東征は本当にあった出来事なのかについて考察したいと思います。

□九州出身の記録がある理由は?

 筑紫の日向出身、神武東征は本当にあった出来事なのか、あるいは、架空の物語なのか、古代人にもなったつもりで考えられる案を考えてみたい。事実だった場合、神武に相当する人物の1代での出来事なのか、あるいは何世代かに渡って実現した出来事なのかは、分からない。(神武東征については、その18 中国側正史と日本神話での倭国を参照)。まずは、論理的に可能性がありそうな理由を考えてみる。

 まず最初の前提知識としては、神武東征の理由について、『日本書紀』では、明確な目的地があることを示唆し「東方に山に囲まれた良い地があるからそこに向かう」と書かれている。個人的には、いかにもヤマト政権発祥の地である奈良盆地ありきで、後から理由付けしたような印象も受ける。一方の『古事記』では、特に明確な目的地は感じさせず漠然と「統治する地にふさわしい場所を求めて東に向かった」事が書かれている。こちらは、そうしようと思った真の理由には触れられていない印象だ。これらも踏まえて、理由を探っていきたい。

〈1〉東征は、事実であった。
 天皇家、ヤマト政権の母体は九州が出身地だった。自分たちの大切な故郷が後世に忘れられないように明記した。

 ①九州の倭国の勢力全体、主流の国、宗家の主流が移動した。九州に別の新興勢力が現れ、自分たちの場所を奪われ暮らせなくなった。逃げるように移動した。(特に深刻な理由はなく、全体が国を捨てて機内に大移動するわけがないため、その可能性は考慮しない。)

 →この場合、ある時期に急に、九州地方の遺跡や出土品が全く別文化の物になり、同時期に、機内の遺跡や出土品が従来の九州地方の文化圏になるはず。考古学からは、このような特徴的な発表は聞いたことがないため、おそらくこれは無いと思う。

 ②九州の倭国の一部勢力や軍隊が移動した。国が力をつけた。国が手狭になった。さらなる領土の拡大や属国を作り勢力を拡大したかった。計画的に進出した。

 →可能性としては、もちろんあり得る。こちらは、『日本書紀』に書かれている理由に相当すると思う。しかし、この場合、畿内の遺跡がある時代から急に九州文化圏化するはずで、九州と畿内が友好的な活発な交流の跡が残るはず。また、領土拡大が目的ならば、まずは山口、広島あたりまでを占拠して徐々に支配地域を広げていきそう。実際にそういう特徴は見聞きしないため、おそらくこれも無いはず。

 ③何らかの問題を起こして九州の勢力から弾き出されたや、主流では無い勢力が自分たちの立身出世や自由になれる新天地を求めて移動した。九州には居られなくなったか、九州の宗家とは別の分家的な存在または、宗家で家を継げない兄弟の立場の人物が中心となり、自分たちの新しい国、または、自分たちがより中心的に活躍出来る新しい国を見つけたくて移動した。

 →この可能性は、かなり高く十分にあると思う。行った先の国で自分たちを受け入れてくれた場所で、知識や技術や血筋を活かして活躍出来たはずだ。また、九州ともべったりな関係ではないため、その後の九州と畿内の関係性とも一致する。あくまでも九州から一部の人達が行っただけなので、畿内の文化が急に変わるわけではない。こちらは、ちょうど『古事記』に書かれている理由に相当しそうだ。

 後の『宋史』の「日本史」には、「始めの主が天御中主、次が天村雲尊と呼び、その後の彦瀲尊まで凡そ23世の尊が筑紫日向宮に都を置き、彦瀲尊の第四子は神武天皇と呼び、筑紫宮から大和州橿原宮に移り住んだ。」ことが書かれています。日本側の『日本書紀』でも、神武天皇は、第二子や第三子のように書かれています。このことからも、宗家の家を継ぐ長男の立場では無かったから、大和に移動したのかもしれません。(ただし、古来では、若くして子供を作るため、父親と長男の歳が近いため、家を長く安泰させるために、長男ではなく、まだまだ若く長生き出来る末子が家を継ぐような場合もあります。)

 ④倭国とは別の中国や朝鮮半島からの海外からの移民勢力、または、九州で急に成り上がった新興勢力が畿内に移動した。

 →可能性としては無くはないと思う。説としては「騎馬民族征服王朝説」というもある(発表当時はすごい熱量で話題にもなり支持されましたが、現在は論理的に破綻や矛盾している内容も多く、否定的に捉えられています)。個人的には、この場合だったら、覇者として自分たちのルーツを堂々と言えば良いと思うので、おそらく違うのではと思っている。

 以上の中では、やはり1-③だったならば、可能性があると思う。九州から出て、途中の中国四国地方に留まらず、遠くの畿内まで行った理由も、九州勢力の力が及ぶ範囲から、出来るだけ遠ざかりたかったからと捉えると辻褄が合う。

〈2〉東征は、事実では無かった。
 ヤマト政権、その天皇家は、元々、畿内の大和の地にいた。しかし、何らかの理由があり九州出身にする必要があったから九州出身と偽った

 ①ヤマト政権とは別の九州勢力が中国に朝貢して、領土を認められ、臣下となっていた邪馬台国、女王国、倭国だった。その正統な流れを組み、血の繋がりがある国の格式のある位置付けとしたくて、九州出身と偽った。(有名な例では、徳川家康が、源氏の棟梁しかなれない征夷大将軍になり徳川幕府を開くため、後に新田源氏の家柄だったことにしたのと類似)

 →この可能性も、かなり高く十分にありえると思う。何よりも具体的なメリットがある。中国との関係性も維持できて、国内外に自分たちの存在、血統の正統性を明らかに出来る。

 ②九州が当時の憧れの地だった。大陸からの新しい文明や文化(稲作、鉄、絹、文字、宗教等々)は、全て九州経由で入ってきていた。そのため、最先端の憧れの地出身として自分たちに箔がつくように、周りから尊敬や認められやすいため、九州出身と偽った。

 →この可能性は、畿内に邪馬台国があり、倭国の中心が元々畿内の勢力だった場合には、成り立つ案だと思います。しかし、これまでの考察でそうは思っていないため、違うと思っています。

 ③とにかく遠くから来たことにして、自分たちの出身をごまかしたかった。実は、当時として、周りに認めらるような良い血筋では無かったや、あるいは、日本が出身ではない勢力だった。それらがバレないように出地を偽った、あやふやにした。

 →この可能性もあるとは思う。しかし、この当時に良い血筋では無い中で、国の中で人々の上に立つのは相当に難しいと思うため、現実的にはおきていないのではと思う。

 ➃自分たちがあまり真っ当ではない方法、相手を陥れる、騙すような手段を用いて滅ぼした九州の倭国の王一族に対して、その後の祟を恐れて、弔いや鎮魂の意図で、自分たちは九州出身だと、だから子孫へ祟らないでほしいという願いで、九州出身という事にした。

 →この可能性も十分あり得ると思う。ただし、このような根拠を示せるような痕跡・証拠が他にないのと、このような自分たちのルーツに置き換えるパターンで鎮魂したという例があるのか知らないため、本当にそうかという強い確証を持てない。現代人的には、そもそも思いつくこともないような非現実的な案かとは思うが、古代人的な思想では、本当に十分にあり得ると思う。イメージとしては、「あなた達は、私達の神々として生きています、あなた達の大地から私達は生まれてきたのです、だからどうか私達を恨まないでください、黄泉の国や天の国で安らかにお暮らしください」というようなイメージだ。

 以上のような案が浮かぶが、おそらく当時の国内では事実では無い以上、きっと嘘がばればれなのはもう良しとして、露骨になりふり構わずにメリットを求めた「2-①」や、ごまかす以外の道が無かった「2-③」ならば、話として成り立つ気がしている。「2−➃」の可能性については、私は可能性は高く、十分にありえると思っている。読んで頂いた皆様のご判断にもおまかせしたい。

□実際はどちらだったのか?

 私の考察では、上述の1-③九州の非主流の一部が移動か、2-①倭国がルーツだと偽るため架空の移動か、正直このあたりだと思う。どちらにしても、現時点での決定的な証拠はなく、結論を出すのは、かなり難しい。というよりも、どちらもありそうで捨てがたい。あと実は、2−➃滅ぼした倭国の一族への祟を恐れた鎮魂も可能性はあり、これが真実だったとしても、不思議ではないと思っている。

 当時の倭人は、顔も身体も朱色を塗り、顔にも身体にも入れ墨があり、入れ墨で身分の上下も現していた。国、地域毎や年代によっても模様にも違いがあったはずだ(詳しくは その11 倭人の文化風習 参照)。また日本には、古くから方言があり(日本語の標準語が生まれ、浸透したのは第二次世界大戦後の現代になってからの話)、言葉も聞けば分かるほど発音が違った。おそらく、当時から何らかの地域による言葉や表現、発音の違いはあっただろう。こういう分かりやすく差異のある状況の中で、出身をごまかすというのは、現代人が思う以上に相当に難しいと思う。

 現代人が考える以上に、時代を遡れば遡るほど、血統、一族、出身、出地というのは、非常に重きをおかれ、最重要な事項になると思う。また、空想で具体的な物語やストーリー、登場人物を考えるのは、文字文化が発展した現代人は大得意だが、まだ文字文化が始まったばかりの当時では、相当に難易度が高いと思う。

 また、個人的には、『日本書紀』や『古事記』などをみても古代人は、より純粋、単純で、嘘がつけない。嘘が下手くそだと思っている。まるっきりの嘘が付けずに、どこかに真実を隠した痕跡が残ってしまっている。これは、真実を隠すと祟られる、偽るとバチが当たるというか、ご先祖様や人様に顔向け出来ないというか、日本人の信仰や宗教の考え方にも通じているような気がする。

 上記より、出身を偽ることの難しさ、神武東征の考えられた具体的なストーリー展開と登場人物の神話の物語の存在感、古代人の純粋さを信じて、本命の候補としては、1-③九州の非主流の一部が移動を本命の解釈としておく。また、派生オプションの考えとしては、1-③の非主流派が畿内に行き勢力を蓄え、その後の時代で、卑怯な手や騙し討や突然の襲撃で九州北部の本家を滅ぼしたので、本家への尊敬と鎮魂の意味も込めて東遷を記したという可能性もあると思う。

 もちろん、対抗の候補は、2-①倭国がルーツだと偽るため架空の移動の解釈で、それ以外の大穴的な候補は、2−➃滅ぼした倭国の一族への祟を恐れた鎮魂になる。ここは、今後の考古学や歴史学的な調査が進み、より明らかになるのを楽しみに待ちたい。

 もしかすると、元から畿内に倭国、邪馬台国があり、そのまま大和になり、ヤマト政権になり、九州からの東征とかもなく、特に九州には縁はなく、東征は神話上の物語だけ、という一般的な解釈がないと思われるかもしれません。

 しかし、もしそうだとすると、元々は九州に代々住んでいた、その後、九州から畿内に来た、そして日本を統一して治めた、というような自分たちの最も重要なアイデンティティを示すルーツを変えること、そのようなストーリーにすることへの意図や目的が全く分からなくなります。

 私の論理的思考だと、そのパターンは、論理的な上手い説明が思いつきませんでした。まさか自分たちの故郷を占いで決めたわけではないでしょうし、特に深い理由は無くなんとなく九州出身にした、全くの縁もなくわざわざ九州から旅立ちやがて全国統一したことにしたとかでは、他の可能性、選択肢に比べてあまりにも必然性や説得力がないと思いました。少なくとも何かの理由や意図はあるずです。このため、ここでは、別の何らかの理由が考えられる見解を示しています。

□中国側の歴史書にも神武東征が書かれている理由

 中国側の正史に日本側の歴代天皇など記録が残っている理由はとても簡単で、日本側の使者から中国側に対して、自分たちの日本の天皇家(主・あるじ、王・おう、大王・おおきみ、尊・みこと等)のルーツ、出生について説明がされたからだと思う。あるいは、日本側の書いた書物が中国側に渡されていたのかもしれない。そして、仮に神武東征が事実だったとしても、作り話だったとしても、その当時の事実を知っていたはずの初期の使者を除き、後世のその話しをしている使者達については、その内容を自分たちの王のルーツとして、事実としてきっと信じて説明していたと思う。

 日本側からの説明内容については、例えば、日本の天皇家は、中国の始皇帝の時代に旅出した徐福の子孫だなど、何か中国にとって都合や気分が良い内容が書かれているわけではないため、少なくとも中国側からの恣意的な変な意図や改ざんは、働いていないと思っている。そして、それは、同じく日本側の記録にも神武東征が書かれていることからも分かる。

□神武東征、筑紫から大和への根拠の1つ

 実際に北部九州の勢力が機内に移動した結果とされる根拠の1つに、福岡県の甘木と朝倉の地名奈良県の大和の地名に、多数の類似があり、それが同じような位置関係を示しているという説があります。

例としては以下のような地名の場所です。(一部のみ紹介)

九州:
①大己貴神社→金町→朝倉→稚児忘→長谷山→白川→白木

②谷→桜井→三輪→蔵谷→穴尾→永岡→八並→乙隈→吉野→田屋

大和:
①大神神社→金屋→朝倉→馳向→長谷→白河→白木

②谷→桜井→三輪→車谷→穴師→長岡→八島→乙木→布留→田町

 問題は、九州と大和のどちらが先だったのかなのですが、元々神武東征の神話や伝承が残っているのと、さらに以下に記載する理由と、地名に残っている伝承や記録などから、九州の方が先、つまり元だと考えられています。

 そのもう1つが、古代にヤマト政権において活躍した天孫降臨伝承(九州由来)に紐づくとされた5部族に位置する中臣氏、大伴氏、久米氏、物部氏、多氏などが、元々は九州北部に拠点があり、実際に残っている記録などから、九州をルーツにした氏族だったと考えれていたり、あるいはそのような伝承の説が根強くあるためです。

 また、別の視点では、後の8世紀の奈良時代に天皇を道鏡に譲るか譲らないかで大問題となり、称徳天皇が最終的に大分県の宇佐八幡宮(今でも日本の八幡宮の総本社)の神様にどちらにすべきか尋ねた宇佐八幡宮神託事件があります。このような天皇家にとって最重要な事項を、わざわざ大分県まで行ったのは、天皇家のルーツが九州だったからだ、つまり、自分達のご先祖様に尋ねにいったからだ、という解釈があります。天皇家の進退について相談出来るのは、ご先祖様の神様しかいないという考え方です。なお、さらにつけ加えると、この大分の宇佐八幡宮は、実は元々の古くは、福岡県にあった神社が元宮であり、そこから生まれたとされる記録が残っています。

 上記以外にもあると思いますが、以上のような理由から、具体的にルーツが九州であったと考える事が可能な根拠が考えられる状況です。

 余談ですが、八幡神社は稲荷神社と並び日本全国に一番多く存在する神社で、この八幡信仰は、九州の大分県宇佐市の宇佐八幡宮から全国に広まりました。古代にこの地に海民族の宇佐氏が住んでいて、氏族の祖先を神として祀っていたようです。やがて、この神が、船に多くの大漁旗が立てられたことを表す言葉であった「八幡(やわた)」の神と呼ばれるようになったそうです。

 奈良時代には、称徳天皇の宇佐八幡宮神託事件以外にも、宇佐八幡宮の巫女に「奈良に赴き大仏作りを手伝いたい」という神のお告げがあり、聖武天皇の東大寺の大仏作りの手助けや後押しになったエピソードが残っています。これだけ、天皇家との縁がある宇佐八幡宮ですが、実は『日本書紀』や『古事記』には登場しないという謎があります。

 宇佐八幡宮は、八幡大神、比売大神、神功皇后の3神を祀っています。八幡大神は、第15代応神天皇とされていますが、これは、平安時代後期や鎌倉時代に広まった考えとされています。応神天皇の武勲にあやかり、武家の棟梁の清和源氏の源義家が元服し「八幡太郎」を名乗ったことにより、鎌倉武士の間で一気に広まったようです。比売大神は、神社によっても、それぞれの解釈があります。宇佐八幡宮では、宗像三女神のことです。宗像三女神は、元々は筑紫の海人族、宗像氏などにとっての玄界灘の神様で、『古事記』や『日本書紀』では、オキツシマヒメ、イチキシマヒメ、タギツヒメ等と呼ばれています。神功皇后は、3韓征伐に出発や応神天皇を出産など北部九州に強い縁がある皇后です。

 このように、宇佐八幡宮自体がかなり北部九州、筑紫にも縁があることが分かります。個人的には、元々、北部九州の玄界灘側に住んでいた海民族の一部が宇佐地域に移り住み、その土地の名前だった、宇佐氏を名乗り始め、自身のご先祖様を氏神として祀り、また出身地の海の守り神であった宗像三女神を祀り始めたのが、スタートなのではないかと考えています。


□大和(やまと)の発音の意味

 日本の地名には漢字2文字が多く、同じく日本人の名前には漢字2文字の姓が多いのには歴史上の明確な理由がある。実は、中国(唐)を真似して6世紀以降にて日本の律令制令制国を推し進める中で、漢字2文字の地名に整えた結果によるものだ。一文字や2文字以上の地名を、意味の良い漢字2文字に変えたからである。この政策は、「好字二字化令」と呼ばれている。

 好字二字化令は、奈良時代の初めに、元明天皇の和銅6年(713年)5月12日に諸国に『風土記』の編纂を命ずる勅令の中にある命令で「畿内七道諸国郡郷着好字」によるものです。『続日本書紀』には、『風土記』の編纂に関して、「凡そ諸国の部内の郡、里等の名前は、並びに二文字を用い、必ず善き名を取れ」というような記載があります。

 このことから、どんなに遅くとも奈良時代の始めには、既にヤマト政権(大和朝廷)の畿内勢力、日本の天皇家による当時の日本(北海道、沖縄や東北地方の北部など一部を除き)の統一が完全に出来上がっており、地方に対して命令が行える状態だった事が分かります。

 また、名前に関しては、日本では、古くから地名を姓(現在での姓。いわゆる苗字。古代における姓はまた別の存在。)にする文化があり、土地が漢字2文字になったため、必然的に名前の姓も漢字2文字が多くなっている。例えば、源氏の一族が新しい場所で土地を開墾して新田荘を作れば新田姓になり、また武田郷に移り住めば武田姓を名乗りのような形だ。このように、地名がやがて姓になるのが日本式だ。(このため、日本人は世界的に見ても、姓が非常に多い国となっています。)
(※氏姓、姓名等についての詳しい解説は、謎の古墳時代を読み解く その9 蘇我宗家の一族滅亡の謎に迫る 前編 馬子についてをご参照ください。)

 ここで、この中国を真似して地名を変えていった当時に、主な漢字1文字だった地名(国名)が、漢字2文字に変化した例を並べてみる。

 泉→和泉(和は発音せず、付与しただけ)
 津→摂津(摂は発音せずが、後に発音し、せっつへ)
 沖→隠岐(おきをなまらせて、いきへ)
 木→紀伊(きを、きぃとして、きいへ)
 粟→阿波(あわを、別の漢字2文字に)
 火→肥前、肥後(別の漢字にし、分割して)
 越→越前、越中、越後(3つに分割して)
 豊→豊前、豊後(2つに分割して)

 なぜここでこんなことを書いたかというと、倭国の変化が気になったからだ。実は倭国の場合は、上記のどの変化パターンにも当てはまらない

 倭/和(わ)国→大倭/大和(やまと)国

 通常、倭や和に大をつけたら、「だいわ」や「おおわ」とは読めるが、「やまと」とは読めない。音の変化を考えても、当初は、「大(だい)」を発音せずに、「わ」と読んでいて、後になまって「やまと」になったわけでは無いと思う。つまり、これは、おそらく、当て字の類いだと思う。(大和をやまとと読む理由は定かではなく、諸説あるようです。)倭が、和になったのは、倭の漢字が中国側が割り当てた悪字である事に気がついたから、良い意味の漢字である和に変更した通説通りの解釈が正しいと思っている。

 そこで、以下のような仮設が浮かぶ。

 「元々、九州に倭(和)国があった。倭国からの移民も流れてきて、畿内が真似をして対抗する形で、元々の九州の倭国を、小倭国と言わんばかりに、自分たちの国に、より優れた存在として「大」をつけて「大倭(大和)国」と名乗った。そして、畿内の地は元々、「やまと」という地名だった。この地こそが大倭である必要があるため、「大和」と書いて、「やまと」と呼ぶことにした。」

 あるいは、「元々、九州に倭国があった。畿内の勢力が九州まで制圧してより大国となったので、その意味で大を付けて、「大倭国」にした。この畿内の勢力の出身地が「やまと」と呼ばれている地域だった。だから、自分たちが、この地から起こした国であることを示す必要があるため、「大和」と書いて、「やまと」と呼ぶことにした。」

 どちらも十分ありえると思っている。なにより、これまでに考察した結果とも親和性がある。以上が、太古の日本で何が起きていたのかについて、私なりの倭国誕生、神武東征の秘密について考察してみた結果である。

 ここでの地名としての「やまと」の本来の意味は、その呼び方の音からも、「山」に関する地名だったと思っています。山への入口を示す、山の門、山の扉、山の戸の意味や、山の麓(ふもと)や山のすそ野の意味や、山々に囲まれた盆地や台地の意味などだと思います。元々の古代の言葉(やまと言葉)では、一般的な呼び方のため、日本全国に「やまと」という呼び方の地名があったと思います。実際に近代まで地名として存在した地域や、今も現存している地名もあります。元々の意味の漢字がそのまま残った地名(山門、山戸等)や、後に大和という当て字に変えた地名もあると思います。

■次回は、日本創世記の振り返りについて

 次回に続く

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最後までお読み頂きありがとうございました😊

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