エルピスを探して

洗顔料を手に取り、泡立て、顔を洗う。ペーパータオルで水分を取ってから、保湿クリームを軽く伸ばす。続いて、無くなりかけの化粧下地を顔全体になじませる。最後にファンデーションを、導入化粧水を軽く含ませたメイクブラシで顔全体に塗る。
 これが木崎(きざき)夏人(なつと)の仮面。汚されるための前準備。
「あら、リョウちゃん、今日はお早い出勤じゃない」
 リョウちゃん、とここでの呼び名に応え、挨拶をする。涼(りょう)という名をこの人に名付けてもらってからもう二年半。ここはホストクラブのような、風俗とは言わないけれど、要するにあまり表に出ない裏の店。K市の薄暗い路地裏の深くにある、その手の人たちしか知らない場所。卑しい店だと呼ばれてもしょうがない、そんな店。
「今日は女性が二名と男性が一名ね」
 店長の江口(えぐち)尭(あき)から、仕事の概要を伝えられる。珍しく男性の指名が入っているようだった。仕事内容は店内で接客するのは勿論のこと、ご飯を一緒に食べたり、デートをしてあげたり、買い物に付き合ったり様々。ときにはそういうこともしたりする。
「今日もご盛況なこったな、涼さんよ」
 仕事仲間の黒江(くろえ)がニタニタと口角を釣り上げながら笑いかけてくる。
「うるさいな、お前もさっさと太客をつけろよ」
 黒江は大変大雑把な性格で何事も適当なのだが、そこがいい、というお客さんも一定数いる。だが、あまりにも適当な所為で、指定時間に現れない等々の少々トラブルを起こしがちで、客が長期間指名することは稀である。
「リョウちゃん、何か言ったかしら?」
「いえ、特に何も。客の指定時間にはちょっと早いですが出てきます」
 一件目は同伴だったので早めに出ることにした。今日もいつものように、仮面を何重にも重ねる。木崎夏人は今、涼として町へ繰り出すのだ。

 ここは ようせいのくに
 きれいなようせいたちが たくさんすんでいます
 ようせいたちは むれをつくってくらしていました
 みんなでたのしく くらしていました
 あるひ ようせいのなかにひとり みすぼらしいようせいがうまれました
 まわりのようせいたちは そのようせいをなかまはずれにしました
 みんなで みんなで——

 仮眠から目覚める。悪い夢をみていたのか、疲れはとれていない。普段はこんな時間に仮眠など取らないのだが、出かけなければならない。彼にはなにか自分と通じるものを感じたのだ。
 洗面台で顔を洗い、鏡で自分の顔を見る。いつも通りの溝呂木(みぞろぎ)幸(ゆき)衛(え)は其処に居る。時計は午前二時を指していた。黒地のシャツを着て、ジーパンのベルトを締める。髪はボサボサだったが、少し水で湿らせれば、これくらいはなんとかなるだろう。
「いってきます」
誰も返すことのない出発の合図を六畳一間に投げかける。
タクシーを呼び、学生たちの噂話から手に入れた情報を運転手に伝える。運転手は怪訝な顔をしていたが、何か問われることは無かった。タクシーで三十分。そこからは狭く入り組んだ道だったため、タクシーを降りてから五分ほど歩いた。
アンドロメダ、と書かれた看板はそこにあった。看板があるくせに、主張するのを敬遠しているような暗さが醸し出されている。意を決して扉をあけると、店の周りの寂れた様子からは想像できないような、艶めかしい装飾がなされた店内が広がっていた。
「いらっしゃい、あら、リョウちゃんのお客さんかしら」
 四十代くらいだろうか、決して若くはない赤いドレスに身を包んだ女性が、受付のカウンター越しで煙草を吸っている。
「予約してた溝呂木です」
 改めてそういう店に来ているのだと自覚すると、不意に緊張が走った。受付であろう女性の目を見ていることが出来ず、部屋の隅に置いてある花瓶に目をやる。
「リョウちゃーん! お客さんよー!」
そう呼ばれて出てきたのは、溝呂木が以前見た彼とは違う誰かだった。
「涼です。今日はよろしくお願いしますね」
光のない笑顔で彼は一礼した。その笑顔を見ていると、自分まで沼に沈んでしまいそうな感覚があった。
「じゃあ、お席の方ご案内いたしますね」
 急に手を繋がれ、不覚にもドキッとしてしまう。一瞬女なのではないかと疑ってしまう程綺麗な細い指。背後から見る髪はさらさらで、これまた華奢なうなじが覗かせている。
「飲み物はいかがいたしますか?」
受付に居た女性と同じような赤色のソファに座らされ、メニューを渡される。
「じゃ、じゃあハイボールを」
 千八百円と書かれたソレは見ないことにした。彼は溝呂木の注文を聞くと、黒服を呼び、注文を伝えた。客が少ないのか、飲み物はすぐに運ばれてきた。
「お仕事は何をされているのですか?」
 彼は本当に何も知らないのだと思った。それも仕方なく、彼が学校に来る事なんて稀であるから、担任の顔すらも覚えてないのだろうと溝呂木は納得する。正直に高校の教師であることを話し、他愛もない会話をする。
「おかわりはいかがいたしますか?」
 いつのまにかグラスが空になっていた。溝呂木は自分の喉が異様に乾いていたことを自覚し、ジントニックを追加注文した。値段と味はこの際どうでもいい、今はこの涼と呼ばれている木崎夏人を観察しなければ。
 彼はこれまで何度か発せられてきた中性的な声色で、溝呂木を客としてもてなした。溝呂木の記憶の中にある彼とは、やはり異なる様子をしているということがわかった。それが無理やりつけている仮面だということも。

 溝呂木は彼の事を必要以上に目にかけていた。彼は学校内では頼れる友人も、居場所もない事を溝呂木は教師である職業柄、理解していた。でもそれは、不登校気味である彼の内情から、周りの生徒たちからそうされたのではなく、その端麗な容姿から受ける嫉妬からくる結果でもなかった。自分からその孤独に入り込んでいくような感触を溝呂木は覚えていた。
 溝呂木自身、こうして教師をやる以前は、所謂いじめられっ子の位置にいた。何かと自分よりも低い地位のものを攻撃しないと気が済まない人間や、周りの人間に自分が上であると分からせるための道具として扱われていた。教師や親に助けを求めたこともある。しかし状況は改善しなかった。生徒たちの事は生徒たちの間で決められる。他の誰かが介入する余地は其処にはなかった。なにより、溝呂木自身も大人の助けを乞う、という行動自体がいじめそのものに屈している気分になり、嫌いだった。
 教師を目指したのは、それとは関係ない。分からないことをされ続けていた過去があったせいか、それに理由をつけることが得意だった。それを、勉強を教える事に流用し、なにか理由をつけて他人を納得させることも得意になっていた。いじめを受けていた過去を消化しているような気分にもなって、人に理解してもらうということも気持ちがよかった。
 だが、彼を見たとき、溝呂木の中のしまい込んでいた筈の、呼び出してはいけない過去が再び火を灯し始めた。言葉になりきらない理由のまま、何か手を差し伸べなければならないという散らかった感情が溝呂木の中に生まれた。

「お客さん、大丈夫ですか」
 溝呂木はハッと意識を取り戻す。どうやらぼんやりしてしまっていたようだ。ハスキーな彼の声が聞こえてくる。アルコールを最後に摂取したのはいつぶりだったのだろう。以前は強いと自負するほどだったのだが、慣れというものなのだろうか。
「そろそろお時間になってしまいますが」
 淡々と彼は話す。溝呂木に対して心配とも嘲笑ともとれない、空っぽの言葉。彼は無表情のまま伝票を差し出す。
「ああ、すまない」
 何も謝ることはないのだが、自然とそう言葉がでる。溝呂木の悪い癖だった。クレジットカードを渡し、一万円札をチップだと彼に渡す。
「木崎くん、今日はありがとう」
 しまった、とその言葉を発した直後、溝呂木の身体を寒気が通る。涼という名前で活動している彼に対して、本名である名を口にしてしまった。それ以上に、私が彼の学校の教師であるとバレてしまう。もしこのことが彼を通じて学校に伝わってしまったら? このことがきっかけで彼との距離が余計に広がってしまったら。刹那、溝呂木の頭はアルコールに浸かった脳をフル回転させ、言い訳を考えた。
「いいえ、こちらこそ。またお越しくださいね」
 しかし、彼の口から出た言葉は、どの思慮にも当てはまらなかった。声色も何一つ変わっていない。カウンターにいた江口の顔を見ないように、要らぬ心配をしたと考え直し、溝呂木は店を後にした。

 そのようせいは くろくにごり くすんでいきました
 ようせいは かなしくて さみしくて たくさんなきました
 そのなみだが ようせいのまわりにたまって みずうみになりました
 ようせいは ふかくふかく しずんでいきました
 あるひ くにのおうじさまが そのみずうみをみつけました
 おうじさまは きたないようせいをひろいあげ きすをしました
 すると そのようせいは みるみるうちに——

「木崎夏人くん、校内に居ましたら職員室までお越しください」
 校内放送の声で目を覚ます。どうやら六限の社会科の授業が終わり、放課後に入ったところのようだった。焦点の定まらない視界で周りを見回すと、教室内は帰宅部の数人が談笑しているのと、掃除当番の男女がちらほらと居るだけだった。廊下からは、運動部の声とともにロッカーの開け閉めする音が聞こえてくる。
「繰り返し連絡いたします。木崎夏人くん、校内に居ましたら……」
 のそり、と重い腰を上げ、使うことのない教科書が入ったスクールバッグと共に立ち上がる。連日の勤務が身体にきたのか、貧血なのかははっきりとしないが、夏人はふらふらとする足元を懸命に制御しながら職員室へ向かう。
「失礼します、放送で呼ばれた木崎です」
 職員室の扉は常時解放されているので、入り口で要件を伝える。教師の何人かが夏人の声に呼応し、顔を上げたが、自分は関係ない、関わりたくないという気分が見て取れるほどすぐに顔を下げた。自分を呼んだと思われる教師はすぐに現れなかった。先ほどまで寝てしまっていたし、何か勘違いしていたのだろうと思い、職員室を出ようとする。
「ごめんごめん、おまたせ」
 そう言われ振り向くと、先日店に来た男がそこにいた。名前は溝呂木。珍しく男性の客を相手したこと、職業的に顔を覚える必要のある仕事なのですぐに思い出すことができた。
「ちょっと話したいことがあってさ、このあと時間あるかな」
 教師という属性がなければ、ナンパのそれにもなりうる言葉を溝呂木は口にした。夏人は強張りそうになる顔面の筋肉を正し、
「構いませんが」
 といつものように仮面を一つ着ける。
「早速なんだけど、最近学校というか、生活は、どうかな」
 溝呂木は夏人を応接間に案内し、くすんだ茶色のソファに座らせた途端、開口一番に言った。
「どうかな、ってなにがどう『どうかな』なんですか」
 溝呂木はこういった生徒と一対一で対話をするのに慣れていない様子だった。夏人がそう返答すると、はぁ、とため息のような、大事な決断をする前の深呼吸のような息を吐いた後、溝呂木は姿勢を直し、夏人の目を見た。
「いや、そこはどうでもいいんだ。君、いかがわしい店で働いているでしょう」
 コイツ、自分が働いていることを知っててあの店に客としてやってきたのか。夏人はより一層分厚い仮面を着けなおし、感情が表情に出ないようにする。
「まぁ、隠す必要もないので言いますけど、働いています」
「何故だ」
「何故? あなたに説明する義理も義務もありません」
「教えてくれないか」
 溝呂木の表情は真剣だった。夏人が店で見たときとは違う、何か別人のようなオーラを纏っている。
「生徒が働いていることを知ってて、それでなお客としてくるような人間に教えるというのですか」
 溝呂木の表情が少し崩れる。まさかバレていたのか、という顔。夏人は呆れた様子で続ける。
「あんなこと学校内に知れたら大問題ですからね」
 溝呂木はしばらく黙り込んだ後、ゆっくりと息を吸う。
「わかってる。だがそれでも君を助けたかった」
 助ける。そんな言葉を軽々と口にしないでほしい。自分がどんな経緯でこの仕事をして、どんな思いでこの仕事を初めて、どんな殺し方で自分の感情を隠して今まで続けてきたのか。他人の勝手な一時の感情で、痛みを感じる領域に引き戻されるのはごめんだ。
「おかしなことを言うんですね、溝呂木先生は」
 ふわり、と夏人の黒髪が窓からの風になびく。夏人は立ち上がり、おもむろに学生服を脱ぎだした。
「何を」
 溝呂木は立ち上がり、夏人の方へ手を伸ばした。
「僕を止めようとするなら、叫びます。この状況で不利なのはどちらか、わかっていますよね。状況もそうだし、先生は僕の店に来たという履歴があるんですから、こんなことで人生、めちゃくちゃにされたくないですよね」
 シャツのボタンが一つ、一つ。外されていく。淀みのない肌が露わになっていく。少年の肌は、女性のそれよりも綺麗なことがあるというが、高校生の夏人にとっても、それは有効なようだった。
「僕は、そういうことをこれまでしてきました。初めてあった人と身体を重ねたこともあれば、性別問わずそういうことをしてお金を稼いできました」
上半身裸になった夏人は、感情の起伏が失われた声色で喋り出す。光の無い夏人の表情がより一層、その素肌を綺麗に見せている。
「見かけは自分でも綺麗だと思います。顔もそれなりに整っていることも。でもこの中にある汚れはいくら拭おうとしても消えてくれないんです」
 夏人はまた一つ、自分の中の淀みが増えたのを感じた。自分はこれまで何度そう言って、自分を「助けて」くれようとした教師を追い払ってきたのだろうか。今までに見てきた教師の表情は、汚いものをみる表情そのものだった。
「そうか」
 夏人は溝呂木の表情を窺う。先ほどの来店していたことがばれていた時の表情ではなく、何か噛みしめているような表情。いや違う。溝呂木は奥歯を嚙みしめるほど笑っていた。
「独りなんだよ、俺も。自分の過去が醜いから、他人と関わるのが怖いから、もう痛みを感じたくないから。仮面を着け続けてきた」
 一つ、仮面がはがれていく。
 溝呂木は噛みしめた表情のまま、哀しみと同情が混在した声色で夏人の目を見る。
「隠して隠して隠して、人に理解されるようになった。でもその理解された俺は、俺じゃないんだ。偶像を自分の中に作り出してそれを振りまいていただけ」
「だからなんだっていうんです! 僕がアンタに助けられる理由にはならない!」
 一つ、仮面がはがれていく。
 夏人は興奮した様子で、ポリポリと頭を掻く。あり得ない、自分がこの世で一番不幸で、その不幸をうまく隠していたと思っていたのに。この人の内はこんなにも……。
「助ける、なんて言ったけど、俺は俺自身を木崎に重ねた、ただのマスターベーションかもしれない。助けられることが嫌いなのは俺もそうだった。大人に頼るってのは周りが思っているよりも俺らには、致命傷になることもある」
「なっ、何を言って……」
一つ、仮面がはがれていく。
溝呂木の眼は真っ黒だった。怖い。自分もそうなってしまうのだろうか。違う。怖いはずはない。自分がこのままいつも通り、隠して隠して隠していけばいいのだから。
「そう、その顔だよ。なにか汚いものをみる表情」
「ッ……」
 夏人は自分が一番忌み嫌っているその表情に、自分自身がなっていたことを自覚する。
「できません……」
「まあ、無理にとは言わない。今日はもう帰りなさい」
 溝呂木は普段の表情に戻っていた。夏人は逃げるようにシャツと学生服を着なおし、応接間を飛び出す。
分からない。これまで理解されないと思っていた自分の内が、理解されてしまいそうで分からない。夏人の表情はぐしゃぐしゃだった。感情の殺し方が分からない。校門を出て、早く家に帰ろう。アスファルトを蹴る自分の足を凝視する。他人から顔を見られないように、他人の顔を見ないように。
 
 おうじさまは そのようせいを おしろへはこびました
 はじめてひとに りかいしてもらったたようせいは よろこびました
 そして ようせいは じぶんのことをはなしました
 おうじさまは たくさんうなずいて たくさんかなしみました
 ようせいは どんどんきれいになっていきました
 きれいに きれいに きれいに なっていきました

 雨音で目を覚ますと、ソファに横たわっていた。木崎夏人は溝呂木に言われたことを反芻していた。家には誰もいない。唯一の家族である母親も、帰ってくることは無い。作り置きのご飯も、食事代も置いてない。母が残したのは、顔も知らない父親が貯めに貯めた多額の借金だけ。
「なんだ、また逃げたのか」
 居るはずのないものがそこにはいた。
「俺よりもあんなに淀んでいる奴がいるなんてなぁ。そろそろ涼くんも俺を受け入れる時期じゃないのかい」
「その名前で呼ぶなあッ!」
 目の前にいるそいつを手で払おうとする。だが触れることも出来ないし、感触すらない。昨晩、窓を閉め忘れていたのか、リビングのカーテンがはたはたとなびいている。
「おおん、怖い怖い。そんなに拒否されると、俺も悲しいなぁ」
「誰がお前なんか……」
「溝呂木にようになりたくはないだろ? あれはアイツのなかに居る俺を閉じ込め続けた結果だ。それにお前の俺はお前の事を一番理解してる。」
「やめろ……」
「怖かったよなぁ。気持ち悪かったよなぁ。寂しかったよなぁ。悲しかったよなぁ。辛かったよなぁ。なんでも俺は知ってるし、理解できる。なんたって俺はお前の一番で最初の友達なんだから」
 黒い影が夏人の中に入っていく。持つべきはずだった今までの感情が一気に夏人の中に流れ出す。でも不思議と恐怖はなかった。溝呂木という闇をみたからかは分からない。自分の感じないようにしていた闇は、思っていたよりも小さかった。その闇は夏人の身体にすぐに馴染んだ。いつか読んだおとぎ話を思い出しながら、夏人はぐっすりと眠った。
 その翌日から、アンドロメダに黒江が出勤することはなかった。

 ようせいのおはなしを たくさんきいたおうじさまは だんだんよごれていきました
 おうじさまは ようせいのことが だんだんだんだんこわくなりました
 ようせいのしゃべる よごれたことばは おうじさまをくろくよどませていきました
 おうじさまは じぶんがよごれていくのがわかりました 
 しっと けつぼう えきびょう ひたん つみ
 それらを ひろめてはいけないと おうじさまはおもいました
 でもだいじょうぶです おうじさまはそのようせいを——

江口尭はいつものように店内の内装を整え、花瓶の水を入れ替え、店を開ける。このアンドロメダは普段そんなに客足が多いわけでもない。しかし今日は特に、真冬の星空のように静かだった。
 午前一時、外は霧雨が降っていた。いつもの様に煙草の煙がアンドロメダの入り口を充たしている。
カラカラ、とその静寂を破るように入店のチャイムが鳴った。
「涼くん、いますか」
いつか見た男がそこにいた。以前来たときも涼の客として来ていたはずだ。
「いいえ、今日は来ていないのよ」
 涼は今日、非番だった。というのも、暫く店を休みたいという連絡を江口は受けていた。理由は詳しく聞かなかったが、電話口で聞く涼の声色とは違っていたので、おそらく体調不良か何かであろう、と江口は踏んでいた。
「じゃあ、お姉さん。あなたと少し飲んでもいいですか」
 江口はこの男の雰囲気が以前とは異なることを読み取った。座っていた目は何かを探すように懸命に開いているし、以前の様な緊張もしていない。しかし、江口が読み取ることができたのは、その違和感だけだった。溝呂木の内奥にある闇は、同質の闇を抱えているものにしか察知できないモノだった。
「ええ、かまわないけど……」
 今日は客も来ないし、酒を飲むついでに店の収益になるのならと、江口は笑顔で答えた。
「お姉さんはどんな子がタイプなんですか? やっぱり涼くんみたいな?」
「いいえ、リョウちゃんはまだ全然子供だし、相手をするならもう少し大人な方がいいかしらね」
 江口は当たり障りのない答をする。実際問題、江口の嗜好的に言うのであれば、可愛く若い男の子よりも、女の子の方が好みだった。
「そうですか、俺はあの子は特殊な感じがすると思っています。自分と同じようなものを秘めている気がするんです」
「そう、それはいいことなのかしら。最近の子のことはよくわからないけれど」
 溝呂木は、二杯ほど飲むとさっさと会計を済ませ、店を出た。溝呂木の見送りをした江口はやはりなにか、煮え切らない表情でいた。
 溝呂木はその翌日、木崎夏人の下へ向かうことにした。わざわざアンドロメダに足を運んだのは、教師として生徒の個人情報を無断で使用するということに、罪悪感を覚えたからだった。しかしそれはもう溝呂木の内から消え失せていた。
 先日取り逃した自己の心の拠り所をもう一度、確かめなくてはいけない。外は快晴、歩いていると少し汗ばむほどの天気の良さであった。

「ごめんくださーい、木崎君いますか」
 インターホンと男の声で目が覚める。今日はきちんとベッドで寝れていたようだった。冷蔵庫から麦茶を取り出し、乾いた喉を潤す。
「?」
 いつもの麦茶よりも味が薄い気がしたが、茶葉の量を間違えたのだろうか。寝巻のままだったので薄手の上着を羽織り、玄関を開ける。
「やぁ、元気してた?」
「……ぁ」
 木崎夏人は寝起きと驚きのあまり声が出せなかった。
 ——ようせいたちは むれをつくってくらしていました
 溝呂木は急いで玄関を閉めようとする木崎の腕をつかみ、身体をぐいと玄関にねじ込んだ。
「酷いじゃないか、これでも君の担任なんだぞ」
「あっ、いや」
「この前の話、考えてくれたかな」
「やめて、やめてください」
「やめて? 服を脱いでまで自分の穢れを証明しようとしたのに?」
——ようせいのなかにみすぼらしいようせいがうまれました
「あれ、今は涼くん? 夏人くん? どっちも見えるけど」
 溝呂木はずかずかと部屋に入ってきた。この前よりも一層溝呂木の内奥物が大きく見える。
 ——ようせいのしゃべることばは おうじさまをくろくよごしていきました
「やめてください、警察に通報しますよ」
「ん? 俺はただ君を助けにきたんだよ。僕と同じ、同じものを……」
——でもだいじょうぶです おうじさまはそのようせいを
溝呂木はしばらく夏人のことを見た後、ひどく落胆した表情になった。
「無い、無い。この前まで君が持ってた穴が無いよ…?」
「な、なにを言ってるんです……?」
「この前まで君は俺と同じだった! 同じように心を隠して、殺して、偶像を作ってきたじゃないか! 慰め合えると思ったのに! 見せ合いっこできると思ってたのに!」
「や、嫌……」
 夏人は後ずさりし続ける。ざりざり。しかし、溝呂木はおなじように、真似をするように夏人の元へ近づいてくる。
 ガタっ、と踵が壁にぶつかる。夏人はキッチンスペースにたどり着いていた。決して広くはないこの賃貸の狭い狭いキッチン。洗っていない食器と、コンロの上に置きっぱなしのフライパンが横目に移る。
 キラリ、何かが光った。それは料理をするための道具。食材を切るための道具。これを使えば今自分がされようとしていることから、身を守れるかもしれない。
 
「あれ、また新しい穴が出来ちゃったなぁ……」
溝呂木は嬉しそうに自分の身体を弄り、笑っている。
——おうじさまは そのようせいを ころすことにしたのです

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