カメレオンはかわれない

 仰々しく覆われたビニールを剥いで、クリーニングされた背広を取り出す。紙製の名札が着いたままになっていないか確認して、袖を通す。家を出る前に、鏡の中にいる冴えない自分の顔を確認してから、いつ買ったか貰ったかも分からないキーホルダーの着いた鍵を鞄に突っ込む。きぃ、と玄関の軋む音と共に社会人の一日が始まる。息を吐くと、白く濁る。それほどまでに今朝は冷え切っていた。会社は電車とバスを乗り継いで一時間程。最初は新鮮だった車窓から見える景色も、つまらなくなってしまった。
「おはようございます」
 始業十分前、もう既にパソコンの音がするオフィスに形式だけの挨拶をして、自分の机に鞄を置く。自分の腕時計を一瞥してから、俺は鞄から煙草を取り出して喫煙所に向かった。
「やぁ、おはよう」
「おはようございます」
 今日は珍しく先客がいた。
「古賀、最近調子どう? ノルマの締め切りまであと二週間もないけど」
「ええ、まだノルマは満たしていませんが、おそらく今週中には」
「そうか、頑張れよ」
 上司の山崎は、半分も吸っていない煙草をもみ消してから、喫煙所を出ていった。
 山崎の銘柄の匂いを上書きするように、自分のマルボロに火を着けた。

「お疲れ様です」
 未だカタカタとキーボードを鳴らしている新人社員の顔を見ないようにして、私は会社を出た。腕時計は二十時を示している。いつも通り、何も変わらない帰路を辿り、自宅の前に着く。鍵を取り出そうと、鞄の中に手を入れる。
「あの、ちょっといいですか」
 中々鍵が見つからない。いつもはすぐに取り出せるはずなのに。
「隣に住んでる森崎と言うんですが」
 あったあった。帰ったら買いだめしてある缶チューハイが、部屋の冷蔵庫に入っている筈だ。
「あの! 聞こえてますか?」
 声が大きくなった方へ視線を向けると、髪の長い若い女性が立っていた。
「あっ、ごめんなさい、ぼーっとしていて」
 まさか自分に話しかけてるとは思ってなかった。とりあえず無視し続けてしまった無礼を詫びる。
「ちょっと、ご相談が有りまして。少しお話だけでも聞いていただけませんか」
 まさか自分が勤める保険会社が話しかけるときの常套句でもある、「お話だけでも」が自分に向けられるとは。なんだろう、話って。お隣さんだって言ってたし無下に断るのもと思い、
「あ、まあ少しだけなら」
と、まんまと玄関先で宗教勧誘を受ける情けない人間のような受け答えをしてしまった。

「すいません、今お茶を出しますね」
 森崎と名乗ったその女性は、私をなんの疑いもせずに家に招き入れた。間取りは私と変わりない。同じマンションで、隣なのだから当たり前だが。
「どうぞ」
 差し出されたティーカップには、アールグレイの紅茶が淹れられていた。ベルガモットの香りが部屋中に漂う。
「それで、あの、お話って……」
 慣れない雰囲気に、気圧されそうになりながらも、要件を早く済ませたい一心で話を切り出す。
「そうなんです。古賀さんにお願いしたいことがあって」
 名乗ってはいないが、隣なのだから名前ぐらいは知っているのだろう。私は覚えてなかったが。
「お願い、とは?」
「はい、これを預かってほしいのです」
 森崎は寝室らしい部屋の押し入れを開け、暗幕が掛かった大きな箱のようなものを取り出してきた。ホームセンターにある大きめのカラーボックス一個半はありそうな大きさだった。
「なんですか、これ」
「カメレオン、です」
 わが子を見るような眼でそう言うと、森崎は掛かっていた暗幕を引っぺがした。箱のようなものは、おおきなケージだった。中には小さめの木のようなものと、ペット用のエサ皿、ケージに取り付ける形で自動給水装置が着いている。そして、彼女が言った通りカメレオンはそこに居た。私が想像していたカメレオンより、はるかにトサカが大きく、それが特徴的だった。
「いや、私にはちょっと……」
「二週間だけでいいんです。どうかお願いします」
 森崎がケージを机の上に置いてから、頭を下げた。件のカメレオンは、目をぎょろぎょろと動かして私を値踏みしているようだった。
「私、サラリーマンでして、夜帰ってくるのもこのくらいの時間ですし……」
「餌代も水も、体温調節の為に着けるエアコン代もこちらで負担しますから」
 カメレオンは相変わらずぎょろぎょろとした目で、こちらを見つめている。
「いやぁ……」
 自然と自分の手は頭を搔いていた。餌だってやらないといけないだろうし、そもそもこのマンションペット可能だっただろうか。
「やはり、無理……ですよね。こんなお願い」
「まぁ」
 ぎょろぎょろぎょろ。カメレオンは獲物を捕らえたかのように、私を見ている。
「本当にダメですか? 私知り合いもあまりいなくって……」
「そう言われましても……」
 自分自身でも、断り切れないダメなところが出ているなと思う。
「実家に帰省する少しの間だけでいいんです、どうか」
「まあ、それなら……」
「ほっ、ほんとですか」
 はあ、またやってしまった。断れない、自分の意見を言えず他人に流される。カメレオンの方を見ると、今度は目の代わりに長い舌が、チロチロと見え隠れしている。
 ぎょろぎょろぎょろぎょろ。本当にそういう擬音が出ているのではと錯覚するほど、カメレオンの目力が強くなっていく。
 ほんの出来心。カメレオンの表情は、自分の心の中を見透かされているような気がして、変な対抗心のようなものだった。
「ありがとうございます!」
 森崎はさっきまでしていた、縋るような表情をコロッと変えてから、私に媚びるような声でそう言った。私は何か失った感覚を覚えながらも、妙な安心感が身体に走った。

「じゃあよろしくお願いしますね、こっちに帰ってくるときは連絡します」
 昨日まで顔見知りなだけだった彼女は、翌朝私に様々な荷物を渡したあと顔の横で小さく手を振った。
「さて、どうするかな」
 自分以外に人間はいないが、やる気を自己催眠するように奮い立てる。とりあえず部屋の掃除から始めることにしよう。幸いなことに、今日は会社側から勝手に設定された有休の日だった。あまり物が入っていない押し入れにケージを置くことにし、そのあまりない物をゴミとしてまとめることにした。
「ふう、こんなものか」
 実家から持ってきた卒業アルバムだの、部活の賞状などがビニール製の紐で括られていく。一休みしようと、コーヒーメーカーに手を掛ける。
「なあ、兄ちゃん。これ取ってくれんか、さっきから真っ暗でしょうがない」
 不意な人の声に身体が固まる。隣人のテレビから流れてくる音声かとも一瞬思ったが、今日は平日だし、この物件は遮音性があると何年も住んだ私が知っている。
「あれ、居れへんの? おーい」
 不安ながらも、声の出どころを探す。と言っても、この自分の部屋に変化が訪れたとするならば、この持ち込まれた暗幕のかかったケージだけだ。恐る恐る、暗幕をゆっくりめくる。
「やっぱり、居ったやんか。いやー、俺も体内時計狂うところやったわ、あんがとな」
 中のカメレオンがぎょろぎょろと目を回しながら、私の方にミトンみたいな前足を上げた。
「なんや、兄ちゃん、喋るカメレオンは初めてか?」
 喋るカメレオンも何も、そんなエセ関西弁みたいな口調も、そんな質問をされるのも、私は初めてである。
「それはそうですけど、しゃ、喋れるんですかあなた」
 カメレオンに対して敬語なのもおかしいと思いながらも、浸透してしまったその口調を直すことはできず、代わりに高圧的な喋り方になってしまう。
「あんた、じゃなくて〝だいなさん〟な」
「だいなさん?」
「俺の名前や。ダイナソーから取ったって言うてたな」
 このカメレオンはだいなさん、という名前を付けられているらしい。ネーミングセンスにも、喋るカメレオンという意味不明なこの状況に対しても、頭が痛くなってくる。
「なんや、そんなに眉間に皺を寄せて。真由美ちゃんに聞いてないんかいな。っつても無理か」
「まゆみ……?」
「兄ちゃんの隣の女の子や、俺が住んでるとこや」
 森崎の下の名前なんて聞く機会が無いだろ、と思いつつも口には出さないでおいた。
「二週間ぐらいやったな、世話になるで」
 だいなさんは、またミトンのような右前足を私の方に向けた。
「あの、カメレオンって喋るんですか。それに真由……森崎さんは、だいなさんが喋ることも知ってると?」
 とりあえず気になった事。なんだか自分がアホになったような質問で、自分で恥ずかしくなった。
「え? ああ、まあ普通ではないわな。でも俺も兄ちゃんに言葉が通じて驚いとるんよ」
「驚いてる?」
「真由美ちゃんは俺がいくら話しかけても、会話にならんねん」
「それは、通じないということですか?」
「いや、たぶん俺の声が聞こえてへんのやろうな。だから兄ちゃんと喋れてめっちゃ嬉しいねん」
「はあ」
 だめだ、ますます頭が痛くなってきた。これじゃ彼女に「カメレオンが喋るなんて聞いてないんですけど」なんてクレームを言っても、私が頭のおかしい人間だと思われるだけだ。
「なんで兄ちゃんにだけ聞こえるんやろな、他の人間にも話しかけたことあるねんけど」
「さあ、私にはさっぱり……」
 私にとってはこの状況すべてが意味不明である。
「やっぱり、似たもん同士やからかな」
「似たもの?」
 人間である私と、人語を喋るバケモンカメレオンの間になんの類似点があるというのだ。
「兄ちゃん、人に合わせるの上手いやろ。意見とか合わせるの。場の空気みたいなのもすぐ読める。違うか?」
「なっ……」
 自分自身の嫌いなところを全て言い当てられた気がして、怒りと悲しみのようなものが湧き上がる。それと同時に、典型的な図星を突かれた時の情けなさと驚きが混じった、みっともない表情になってしまう。
「やっぱりやんな。俺も上手いねん、合わせるの。そこの紙袋持ってきてみてや」
 だいなさんは、さっき私の方に向けた方とは逆の鍋掴みのような前足で、押し入れを整理するときに出てきた百貨店の紙袋を指した。
「これ、ですか。何に使うんです」
 私はその紙袋をケージ前へ持っていき、だいなさんに見せる。
「見てみい、その紙袋。赤と緑、黄色のチェック柄になっとるやろ」
「ええ、まあそうですけど」
 だいなさんの言う通り、その有名百貨店の紙袋は三色が複雑に絡まったチェック柄をしている。こんな紙袋で何をするというのだろう。この柄で服でも作れと言うのだろうか。
「おっしゃ、できたで。見てみ、俺の身体」
「うわっ……」
 赤、緑、黄色。その紙袋と全く同じように、だいなさんの身体はその柄の通りになっていた。この状態のまま、紙袋を背後に置いたのなら、一目でカメレオンが居るとは分からないだろう。
「な? すごいやろ」
「確かに、そっくりそのままですね……」
 だいなさんはそのぎょろぎょろと喧しい眼を半目にして、ドヤ顔のような表情でこちらを見つめてくる。不覚にも可愛いと思ってしまった。
「カメレオン見たことないんか? つっても俺のこの擬態の精度はなかなかのもんやろ」
 カメレオン自体の現物を見たこと事体初めてなのだが、こんなにも、それこそ忍者の隠れ蓑のような精度で、溶け込むことができるとは思っていなかった。
「まあ、初めてと言えばそうですね……」
「せや、今度兄ちゃんの擬態も見してくれや」
「そんなの、どうやって……」
「今見せたやないの。俺の擬態」
「まさか……」
「流石や。察しがええなあ」

「ひえーっ、こんな人が居るとは思わんかったわ。毎日こんな鮨詰めにされてたら、いつかシャリになってまうで」
 翌日、いつもの電車で、いつもの風景。だがそこには私の背広に張り付いている、一匹のカメレオン。得意の魔法とも呼べる精度の擬態で、周りの人間には気づかれていないようだ。
「兄ちゃん、これ大丈夫なんか? 俺潰れへん?」
 だいなさんは自分の声が私以外に聞こえないのを良い事に、一方的に私に喋り続けている。いちいち会話を返していると、ダイヤが乱れる一件に繋がりかねない。
「ま、暫く待ちまっせ。じっとしとるんも得意分野や」
 はあ、とため息をふたつ吐く。一つはもちろん、こんなカメレオンを連れて会社に出勤していること。二つ目は、そのカメレオンの要望を断れずまんまと連れてきてしまった自分に対して。
「おっ、ここが兄ちゃんの職場か。はあ、保険会社っぽいなとは思ってたんやけど、ここまで予想が当たると逆につまらんくなってくるな」
 ビル街のなかに仰々しく建つ、名は有名な保険会社。普段見慣れたエントランスも、カメレオンを連れて入るのは初めてである。
「なんなんですかさっきから。もう会社に入るので、その無駄なお喋りは抑えてくださいよ」
「堪忍な。外に出るの初めてで興奮してもうてるねん」
 はあ。未だ就業時間は始まっていないというのに、疲れが出始めている。

「おはようございます」
「おはよう、古賀、有休は楽しめたか?」
 自分の部署の机に着くと、上司の山崎が相変わらず悪い顔で出迎えてきた。
「ええ、少しはリフレッシュできたと思います」
 なんて心の中で一ミリも思っていない言葉を返す。
「ぎゃはは、まったく思っとらんやろそんなこと! 上手いなあ兄ちゃん」
 原因の九割を占めている張本人が何を言っているのだ。だいなさんは私の机に擬態して、そこには何もないような空間が出来ていた。頭痛がして、少し眉間に皺が寄る。
「なんだ、険しい顔をして。そんな顔じゃ契約もとれんぞ」
 最悪だ。余計な上司の小言を招いてしまった。まったく今日はどうなることやらと、親指と人差し指で自分の眉間を揉んでから、鞄から煙草を取り出した。
「なんや、どこ行くねん」
 だいなさんは顔の部分だけ擬態を解き、目をぎょろぎょろとさせて私をみつめる。私はマルボロの箱をだいなさんに見せつけるようにして、喫煙所の方向を親指で指した。
「煙草ってやつかいな。面白そうやな」
 だいなさんは私の是非も問わずに、スーツに飛び移った。カメレオンという生き物はこんなにも身体能力が高い生物だったのだろうか。飛び移っただいなさんは、すぐさまスーツの色に擬態し、ぱっと見ではどこいるのか分からなくなった。
 喫煙所の扉を開けると、誰も居なかった。私は少し安堵して、マルボロに火を着けた。自分が吐いた煙だけが、喫煙所を満たしていく。換気扇の音だけが耳に入って、数分間だけの休息が始まった。
「なんやこれ、煙いわ、臭いわでなんもいいことあらへん。そりゃ体に毒やわ」
「勝手についてきておいて、そりゃないですよ」
「なはは、それもそうやな」
「それにさっきの。おかげで余計な小言言われましたからね」
「堪忍堪忍、俺口軽いねん、思った事すぐ言ってしまうんや」
 だいなさんは、ぱくぱくと口を開閉して見せつけるように長い舌を伸ばした。
「もう、勘弁してくださいよ」

 ぴんぽんぽーん、ぽんぽんぴーん。社員たちが自分たちのデスクでキーボードをばたばたと叩いているのをあざ笑うかのように、間延びしたチャイムが鳴る。昼休憩の合図だった。
「お、なんや。なんか始まるんか」
 私は無言のまま椅子の上で背伸びをしてから、弁当箱を取り出した。
「昼飯の合図かいな、ええな、兄ちゃん今日は何喰うねん」
 そう言われるまま、弁当の蓋を開けようとする。
「おい! 古賀! 古賀はいるか!」
 少し空いていた筈の胃がグッと縮まる。上司の山崎の声だった。
「古賀! お前契約した客から電話があってな、クレーム来てるぞ!」
 どたどたと大きな足音を立てながら近づいてきた山崎は、私の机にある電話を指さした。どうやらそのクレーム主からの電話が繋いであるようだった。
「ひえ、なんやねん。今昼休憩やろがい」
「はい、すぐに対応します」
 のんきな声色のカメレオンをよそに、私は受話器を取った。
「あの、先日そちらの保険を契約したものなんですがね。値段設定が間違っているんじゃないかと思ったもので」
「わざわざお電話ありがとうございます、お名前の確認をさせてもらってもよろしいでしょうか」
「はーっ、プロやなあ兄ちゃん」
 だいなさんは口角を上げている。
「角田と言いますが、その料金プランの値段が間違っていると思うんですよ」
「大変申し上げにくいのですが、その件につきましては、契約書を交わす前に何回か説明させていただいていると思いますが……」
「いや、されてないね。第一、この料金でこの保険料はおかしいんだよ」
 うわあ、と言いそうになる口をつぐんで、頭を回転させる。ふとだいなさんの方を見ると、この状況を面白そうにしているのが、擬態越しにも伝わってきた。
「ですから、その料金説明は何度もさせていただきました。角田さんともご一緒に確認したと思われます」
「私の記憶にないんだ、いいからいますぐ解約してくれ!」
「申し訳ございませんが、契約後三か月は料金を支払っていただく形になっておりまして」
「はあ⁉ そんなの通るかよ、上のモンを出せ、上のモンを!」
 なんでこういう客は、保険の説明もまともに聞かずに契約書を書いてしまうのだろう。社員の話に流されるにしても、お金のことなんだからもう少し慎重になるべきなのに、と思ったが、ここ数日流されまくっている自分と重なる気がして無性に腹が立ってきた。
 上の者をだせ、と言われてしまったので目を上げて上司の山崎の方を一瞥すると、どうやら状況を理解しているようで、テイクアウトしてきた牛丼を頬張りながら、人差し指で顔の前にバツを作っている。
「申し訳ありません、ただいま出払っておりまして、お繋ぎすることができません」
「なんだと? ああもういい、こんな保険会社二度と契約しないからな!」
 周りの社員にも聞こえるような声量で、電話の向こうで怒鳴る中年男性らしき人の声。
「なんやそれ、自分のした契約内容も覚えてられん痴呆老人が何言うとん」
 だいなさんは、声色を少しイラつかせて、そう言葉にした。その言葉が何故だか、私の中の何かのトリガーを引いてしまった。
「お言葉を返すようですが、角田様と契約したのはここ一か月以内の事。先ほども何度か申し上げてますが、説明をさせていただいております。そのうえでご確認させていただきたいのですが、角田様自自身はご自分の確認不足だった、と思う事はないのでしょうか?」
「なっ……」
「それに契約書にサインしている以上、角田様の同意を得られた状態での契約となっておりますので、先ほど申し上げていた即刻契約解除はできかねます。ので、また三か月ほどたちましたら、是非解約のお電話を寄越してください」
ガタン! と受話器を叩きつける音が電話口から響く。どうやら切られてしまったようだ。ふと我に返ってあたりを見回すと、社員たちがこそこそと話している。やってしまった。このカメレオンの憤怒に中てられて、ここ数年出したことのない声量でクレームに対応してしまった。上司の山崎も、自分の部下のことなので居心地が悪そうにしている。
「よう言ったな、兄ちゃん。かっこよかったで」
 私のこの行動に同意してくれたのは、机の上で灰色に同化している一匹のカメレオンだけだった。

「はあ、どうしたものか」
「元気出しいな、そんなんやと、上手くいくことも上手くいかんで」
「事実、上手くいってないんですよ」
 私はあの後、上司にこっぴどく叱られる、ということは無く、話があるとだけ言われ会議室に連れていかれた。その話というのは勿論昼時にあった電話対応のこと。それから、先月と先々月のノルマ未達成のこと。そして、私をクビにするかどうかの話が出ていたこと。
 人事と上司の話はもっともだった。私は会社から見れば仕事のできない人間で、人付き合いも悪い。遅刻はしないものの、結果が伴っていない。結局、その会議室で出された答えは私をクビにすることが正式に決まった、という事だった。そのとき未だにクレームの件で憤慨していたのが収まっていなかった私は、「有休が残っているのでそれだけ消化させてください」とだけ言ってみた。予想外なことに、みたこともない私の表情に驚いたのか、労基に突き出されるのが怖かったのかは分からないが、承諾してもらった。
 寒い寒い十二月の冬。私は肩に乗せている擬態魔術師のカメレオンと共に、使い捨てカイロを揉みながら、帰路に着いていた。
「残ってる有休は三週間分くらいって言うとったな、年明けまで休めるっちゅーことや」
「そんな嬉々として話さないでください。他人事だからって」
 会議室にいる最中も私の身体で擬態をしていただいなさんは、面白そうに笑う。
「ええやないの、休みながら金がもらえる。言うなれば不労所得というやつか」
 はあ、と長く白いため息が夜空に消えていく。事実としては不安なことしかないのだが、いつもより何故か晴れ晴れとした気分になっていた。
「しかしこのカイロってのはええもんやなあ、夜んなったら寒くて冬眠するかと思っとったけど、兄ちゃんのおかげで助かったわ」
「そうですか、それはなにより」
 肩に爬虫類を乗せたまま、自宅の玄関を開ける。
「ただいま」
 誰にも返されない帰宅の合図を口にして、鞄を下ろす。冷え切った部屋の温度を上げるためにエアコンの電源を入れた。
「お疲れさん。いやー、ぎょうさん楽しませてもらいましたわ」
 スッと、だいなさんは私の肩から降りると、開けっ放しになっていたケージの中へ入っていく。あれだけ人間世界を堪能しておいて、ケージの中に戻っていくのか。結局家が一番安心するのかもしれない。
「そういや、何か食わんのかいな。兄ちゃん、昼も食うタイミング失って食ってなかったやろ」
 そう言われると、無性に腹が空いてきた。何を隠そう、あの騒ぎのあと、引継ぎやら書類作成やらで休む暇が無かったのだ。とりあえずジャケットを脱いでから、食べれなかった弁当箱を取り出した。白飯は冷え切ってしまっていて固まっているが、おかず類ならなんとか食べれるだろう。
 冷蔵庫から、ゼロだのストロングだのと書かれた缶チューハイを取り出して、ソファに座る。プルトップを開ける音が部屋にこだまするのを聞いてから、テレビの電源を入れた。
「おっ、それがアルコールっちゅーやつか。煙草にお酒、あとギャンブルか闇金にでも手ぇ出したら兄ちゃん役満やで」
 このカメレオンは人間界のどこまでを知っているのだろう。外に出るのが初めてだったという割に、雑多な知識がどんどん溢れてくる。
「だいなさんは、どういう生活してたんですか」
「なんや急に、まあええか、今日の恩もあるし話したる」
 ふと気になっただけ。一人孤独に飯と酒を流し込むのが哀しくなっただけ。
「そうやなあ、特になんもないというか、真由美ちゃんに飼われるようになってからは少々窮屈やな」
「真由美さん……は話せないんですもんね」
「そうなんよ、だから俺の要望も意見も流れてまう。まあ、餌くれとか水がないとかは伝わるときあるけども」
「私と似たもの同士っていうのは?」
「まあ、同化、擬態できるっていう点やな。これは前にも話したか分からんけど、同じ匂いがしたねん。兄ちゃんとな」
「まあ、そうですね。他の人に合わせて生きてきましたよ。仕事も、プライベートも」
「せやせや、そこに共通項があったんや」
 ふふ、と少し笑いがこぼれる。仕事を失って、アルコールを煽りながら、カメレオンと喋る。こんな摩訶不思議な事は私の人生で初めてだった。流されていなければ、だいなさんとの出会いもなかったかもしれない。
「だから、今日めっちゃ楽しかったんや。人間の暮らしというか、悪い所とかそういうのしっかり見れてな」
「それは良かったです。私の仕事に関しては何も良くないんですけど」
「いや、あれはかっこよかったでえ。あのアホにバシッと言う事言った兄ちゃんは痺れたわぁ」
「そうですか、褒めてくれる人が一人でもいれば救われるってもんです」
「誰が人やねん、俺はカメレオンやで」
「そうでした」
 普段物音が全くしないマンションの一室から、この日はやけに笑い声が響いていた。私は缶チューハイを三缶程空にしてから、ソファでいつの間にか眠っていた。

 平日に目覚まし無しで起きたのは、何年ぶりだろう。携帯の時刻を確認すると、十時半だった。
「お、やっと起きたかいな。ささっと顔でも洗ってこうへんか」
 だいなさんは、机に置かれたケージの中で、ソファに寝転がっている私に呼びかけた。ソファで寝てしまっていたせいか、身体のあちこちが痛い。
 がらがらがら、と自分のうがいの音が洗面所に響く。エアコンをつけっぱなしにして寝た日の後悔する事の一つとして存在する、喉の痛みを少しでも和らげるためだ。
「今日は何するん、無職になったから仕事探しでもするんか」
 相変わらず楽観的な声がする、よく寝たおかげか頭痛はしないみたいだ。
「まあ数日はゆっくりしますよ。散歩でも行きますか」
「お、気が利くなあ」
 未だワイシャツ姿の私に引っ付こうとしただいなさんを手で制してから、寒くないようにしっかりと着込む。
「じゃあいきますか」
 だいなさんは、待ってましたと言わんばかりに私のセーターの上に飛び移る。ブラウンカラーにみるみると染まっていくだいなさんを見て、使い捨てカイロを開封した。
 皮膚を裂くような冷たい風が吹き荒れる。散歩ルートは、普段降りない駅まで歩いてみることにしようか。
「やっぱりこの時間になると人もまばらやな」
 街中を歩いている人たちは主婦のような人や、休憩中のタクシー運転手、ベビーカーを引いている人もいた。人の量は、出勤時の五分の一程度。ゆるやかで余裕のある時間が流れている。
「あ、あそこ入ってみてや」
「ここって……」
 だいなさんが指示した場所は、ペットショップとでかでかと書かれた看板が乗っかている店。しかも犬や猫を扱う、所謂普通のペットショップではなく、蛇や蛙、それこそカメレオンのような動物を扱う、奇抜な色合いでカラーリングされた店舗だった。
「いいんですか、ここで」
「ええねん、他のカメレオンがどんな感じかみたいんや」
 カラカラ、と店のドアのチャイムが音を立てる。
「いらっしゃいませー、こんにちはー」
 某古本屋店が頭をよぎったが、そんなことはどうでもいい。少しだけ見て帰るだけだ。とりあえず、カメレオンなどの爬虫類が展示されているブースへ足を運んだ。
「おっ、蛇もおるやんか。牙もかっこええな」
「そういう認識あるんですね、別種でも」
「あたりまえやんか、人間でもイケメンや美女に嫉妬するやろ」
「そういう類のものなんですか……」
 幸い、店内は聞いたことないジャンルの音楽が鳴っていて、私たちの会話は少し離れていれば聞こえないようだった。
「あ、いましたよ、カメレオン」
「お、血を分けた兄弟でも居ればええんやけど」
「居たら居たでめんどくさくないですか……」
 私のツッコミを聞いているのか聞いていないのか、だいなさんは外の仲間たちを凝視していた。この店舗にいるカメレオンたちから見れば、だいなさんこそが外の仲間なのだが。
「もうええで、帰ろか」
「あれ、もういいんですか」
 だいなさんは黙ってうなずいた。私自身もこの店に何か用事があるわけではないので、そそくさと店を出て帰ることにした。
 ぴろり、と携帯の通知音がなる。普段会社からのメールや電話の知らせしか飛ばしてこない私の携帯が鳴ったので、少し肝を冷やしたが、通知画面を見ると見慣れない名前が表示されていた。
「森崎……」
「なんや、真由美ちゃんからかいな」
 だいなさんの主人、森崎真由美からのメールだった。なにかあったのだろうかとメールを開く。
『お疲れさまです、私のカメレオンの調子はどうですか? 私の方は予定よりも早く用事が片付いたので、明日にはそちらに帰ろうと思います。昼頃伺うので、そのときにお礼さしあげたいと思います。よろしくお願いします』
「だいなさん、明日帰れますって」
「なんや、この生活ももうおしまいかいな。期間が短くなったとはいえ早かったわあ」
 だいなさんは心底残念そうな声で、この数日間の思い出を語り始めた。私と喋れてうれしかったこと。私が隣人の名前すら憶えてなくておかしかったこと。煙草と酒は体によくないこと。そして、私がモンスタークレーマーに対してバシッと言えたこと。
「せやから、俺はな……」
「だいなさん、ありがとう」
「なんや急に。気持ち悪い」
「いや、楽しかったなって私も思いまして」
「そがいなこと面と向かって言うなや、こっちまで恥ずかしゅうなる」
 なはは、と一人と一匹の笑い声が街中に響いていた。

「ありがとうございました。こんな無理なお願いを受けてもらって」
「いや、おもったより楽しかったです。次もよかったら私に任せてください」
 森崎真由美は、少し不思議そうな顔をして私の言葉を受け取った。今日の昼までの時間はあっという間だった。だいなさんとお別れ会と称して、普段やらない飲み会みたいなものを自宅で行った。
 だいなさんは自分の主人の良い所から悪いところ、下着の色まで喋りだした。私は面白可笑しくその話を聞いていた。

「せやから、俺は黒の方が良いって真由美ちゃんに言うとんのに、全然聞いてくれへんねん」
「そんなカメレオンの趣向に合わせるくらいなら、自分で選んだ方が何倍もマシですよ。そもそも、彼女とは喋れないじゃないですか」
「それもそうやったな、だっははは!」
 すごく楽しい時間だった。こんなにも馬鹿らしい話で笑ったのは何年ぶりだったろう。
「兄ちゃん、俺は最初似たもの同士やと思ってたけど、変わったな」
「え?」
「人に合わせて、流されて、自分の意見が無い。人と擬態するのが得意やって思ったんや」
「はあ」
「でも、兄ちゃんは変わった。ちゃんと自分の意見を相手さんにぶつけて、それで納得しとる」
 事実、あの電話の一件で何か洗われるような気がした。ゆっくり過ごすなんてだいなさんには言ったが、転職の件も考えていた。同じような職場を探していたが、それでもいい。今の自分なら、何か変わったように見える気がしたからだ。
「だからたぶん、そろそろ俺と喋れんくなる」
「どうして……」
「言ったやろ、似たもの同士やったからや」
「あ……」
「でも悔いはないで。俺も楽しかったし、色々考えたわ。ペットショップで他の仲間たちとかも見れたしな」
「今後どうするんです?」
「あの時、他のカメレオンに喋りかけたんや。でも何一つ返事は帰ってこなかったんや」
「それは……どういう」
「結局独りなんやなあ、って思ったで。最近まで元居た環境に戻りたいなあ、なんて思っとったんやけど、それはそれで間違いなのかもしれへんってな」
「間違い、ですか」
「とか言ってても埒があかんから、俺はもう少し真由美ちゃんのとこに居ると思うわ。そもそもこのマンション事体ペット禁止なはずやから、いつまで居られるかわからんけども」
 あ、やっぱりここペット禁止だったんだ。
「兄ちゃんこそ、どうするん」
「私は、仕事探しですかね……」
「まあ、働かざるもの食うべからずなんていうしなあ。やっぱりそこに落ち着くもんやね」
「でも大丈夫です、私、変われたような気がするんで」
「俺は飼われたまんまやけどな」
「まあ、お互い頑張りましょう」
 今まで吐いたことない台詞。
 流される自分が嫌いなのは事実。だからその為に変えた、変わった。でも、だからこそこんなよくわからないカメレオンと喋れたと考えるなら、自分自身を少し赦せる気がした。

「最後に、顔見ていいですか」
「えっ、いいですよ。カメレオンの可愛さわかっちゃいました?」
「まあ、そんなとこです」
 森崎は不思議そうな顔をしながらも、同士が見つかったようで嬉しそうな声色だった。私は掛かっていた暗幕を少しだけ捲って、トサカのおおきいカメレオンを見た。
「じゃあ、また」
 森崎ではなく、だいなさんにそう告げる。振り向く彼はもう喋ることはなかった。最後に口をパクパクさせて、ミトンのような前足で私の方に挨拶した。「達者でな」という言葉が、その口からは発せられていた気がする。
 黒く覆われたケージが森崎と書かれた玄関の中へ入っていく。私はこの白昼夢のような数日間を振り返りながら、散歩へ向かうためゆっくりと歩きだした。

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