「かつて交わしたいつものを」

四限の終わりを告げるチャイムが校舎に鳴り響く。教室内が昼休憩モードに切り替わるのを少し待ち、藤間香賀音(かがね)はスクールバックから風呂敷に包まれた小さな弁当箱を取り出す。周りの生徒達は各々購買や事前に買ってきているのであろう、菓子パンやジャンクフードの袋を開け始めていた。
「……ます」
 誰が聞いているわけでも、この弁当を作った本人が見ているわけでもないが、一応手を合わせる。
 香賀音は弁当箱を開けようと、丁寧にまかれている輪ゴムに手を掛ける。そこには一枚の付箋のようなものが一緒に巻かれていた。
『無理してないか、何かあったら父さんに言いなさい』
 見慣れないがとても綺麗な字で付箋に一言書かれていた。
「やっほー、かがねん。今日もお父さんのお弁当?」
 その声を聞いた香賀音は、隠すようにその紙をくしゃりと自分のブレザーのポケットにしまい込んだ。
「まあね。ミサキこそ今日も手作り弁当なの?」
「いやー、今朝ハルが熱出しちゃってさ、それの所為で今日は購買のパンだよ」
 ハル、というのはミサキの姉弟の一人だろう。
「そうなんだ、大変だね」
「そんな眉一つ動かさずに言われてもなー」
 ミサキは「なんてね」と派手な金髪を揺らしながら、香賀音の無表情さを大げさに笑った。
「ね、なんかさっき紙みたいなのしまってなかった?」
 香賀音はぎくり、と自分の表情が固まる心地がした。もとから固まっているのだが。
「いや、なんでもないよ」
「あ、そう? もしかしたらラブレターでも受け取ったんじゃないかと思ったんだけど」
 ミサキは既に菓子パンをかじっていた。
「まさか。今どき直筆のラブレターなんて流行らないでしょ」
「たしかに。愛が重いってカンジ?」
 昼休憩で賑わう教室内に一際大きな笑い声が響いた。

「ただいま」
 香賀音の帰宅を告げる言葉は、昼食の時と同じように、誰も聞いていない。薄暗い部屋の電気を着けると、時計は十九時半を指していた。
 冷蔵庫にはいつもの様に夕飯が入っていた。今日は豚の生姜焼きが丁寧にラップに包まれている。夕飯の内容を確認してから着替えるのが、香賀音のいつもの動きだった。
「あ、そういや」
 ブレザーを脱ごうとして、昼間の手紙を思い出す。ポケットを探ると、小さくくしゃくしゃになった正方形の付箋だったものが出てきた。
「『何かあったら父さんに言いなさい』とか、娘とほとんど顔を合わせないヤツが何言ってるんだか」
 部屋着に着替え、生姜焼きをレンジにかける。ブーン、というレンジの駆動音だけが、部屋に響く。ふと、テレビ台横の写真が眼に入った。
 その写真は香賀音が小学校へ入った時の写真。まだ目の下に隈が着いていない若い父さんと、ランドセルを背負った小さな自分。そして、母さんが病人特有の幸薄そうな笑顔で写っている。この時はどんな生活だったっけな。学校から帰ったら「おかえり」が返ってきていただろうか。
 甲高い電子音が香賀音の思考を停止させる。生姜焼きの温めが終わったようだった。

「おっはよー、かがねん」
 昼休みになると、ミサキはいつも香賀音の教室に訪れる。今日はいつもの手作り弁当の様だった。
「おはようって、いま昼だけど」
「なんか『おはよう』って元気出る感じがしていいじゃん?」
「そういうもんかな」
 香賀音はしばらく「おはよう」という言葉を口にしていないことに気づいた。
「じゃじゃーん、今日は唐揚げをつくっちゃいましたー」
 ミサキは香賀音に見せつけるようにして、自分の弁当箱の中身を向けた。
「私も唐揚げ入ってるよ。冷凍だけど」
「いいじゃん冷凍。時短で美味しくて安いもんね。まあうちは量を作らないといけないから、あんまりつかわないんだけどさ」
 ミサキはそういうと、「ちょうだい」というアイコンタクトを香賀音にした後、自分の唐揚げと香賀音の唐揚げをひとつ交換した。
「そういやさ、この前の紙って結局なんだったの」
 白米を頬張りながら、ミサキは思い出したように香賀音に聞いた。
「え、父さんからの手紙……みたいなものかな」
 香賀音は自分でもあっさり言ってしまったことに驚いた。ミサキは五人姉弟の長女なこともあってか、包容力というかとにかくそうさせる魔力のようなものがあった。
「えー! いいじゃん、なんて書いてあったの?」
 ミサキは目を大きく見開いて、左手で大きく開いた口を隠した。
「いや、何か困った事は無いかって。いつでも言えって書いてあった」
「頼りになるお父さんだね」
「どうだか。もう何週間も顔合わせてないし」
 香賀音は皮肉っぽく笑みをこぼした。ミサキには父子家庭であることを話している。
「で、なんて返したの」
「いや、まだ何も」
「えー? なんでよ」
「今どき手紙ってなんかその、くすぐったいじゃん」
「そうかな、うちはたまに弟たちから手紙貰うこと有るけど、うれしいもんだよ」
 ミサキは笑った後、少し寂しそうな顔をした。
「でも、なんて返したらいいか……」
「なんでも言えって書いてあるんだから、なんでもいいんじゃない? たまには早く帰ってこいとかさ」
「そう……だね」
 ミサキは手で作ったグーサインを香賀音に見せた。ミサキの作った唐揚げはどこか懐かしい味がした。

 父さんの運転する車からは、海が見えていた。毎年来てはいるが、今回は香賀音から言い出したことだった。
「おどろいたよ、香賀音から誘うなんて」
 運転をし始めて一時間は既に経っているだろうか。仏頂面の父さんがようやく口をひらいた。
「なんとなく、行きたくなった」
「そうか。もう十年になるもんな」
 ここも変わってしまったなあ、とお決まりの台詞を父さんは口にした。
「そりゃ、変わるよ。十年だもん」
 父と娘を乗せた中古の軽自動車は、母さんがいる場所までスムーズに進んだ。今日は平日な事もあってか、道は混んでいなかった。
「そういや、よく休みとれたね」
「何でも言えって書いたのは俺だからな」
 父さんは自慢げに鼻を鳴らした。十年経ってその無表情さの角が取れてきたのかと思うと、なんとなくおかしかった。
「でもなんで手紙だったわけ? スマホのメッセージアプリでもなんでもあるでしょ」
「お前の母さんはな、何かとつけて手紙を書く人だったんだ」
 初耳だった。というのも、小学生低学年までしか母親と一緒に居られなかった香賀音にとって知らないことの方が多い。
「着いたぞ」
 毎年来ている墓地は、またその墓石の数を増やしているように感じられた。
「これ、供えてやってくれ」
 香賀音に向かって仏花を差し出した。
「ん」
 とだけ返事をしてから、藤間家と書かれた墓石の前に供える。
「「ただいま」」
 偶然、父と娘は同じ言葉を口にした。一瞬お互いに固まったあと、見合って笑いあった。人前で笑ったのは何時ぶりだろう、と香賀音は思考を巡らせたが考えないことにした。
 そしてお互いにその言葉を大事に受け取り、数年交わさなかったお決まりの言葉を口にする。
「「おかえり」」

 あれから十年。変わっていくべきなのは、私たちのほうなのかもしれない。

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