慢性閉塞性心疾患

早期発見のはずだった。カルテの通りに、先輩医師の言うとおりに、決められた手段をとれば、成功する手術。はずだったのだ。四十路手前の女性の身体を開いたとき、堂島が見たのは想定されていた病気の進行具合とはかけ離れていた。至急オペを中断し、本人に事態を説明する。女性は一瞬、驚いた顔をした後、すぐに母親の顔へもどった。
「私には娘がいますから。最期まであきらめずあの子と過ごします」
顔は笑っていた。いや、顔だけが笑っていた。何かを諦めたかのような、それでいて悟っているかのような。あの時、あなたの所為だ、病院のせいだと喚き散らしてくれた方が良かったと気づいたのはいつだっただろうか。
 堂島はそれから五年間医師を続けた。言い換えれば、五年しか持たなかった。同僚や病院も、友人や家族も、あの当本人でさえも、「貴方の所為じゃない」と言った。そんな諦めた顔で言われても、悟った顔で言われても、堂島の心は治らなかった。ましてや、残された娘の顔を思い出す度に、どうして医師として従事してきたのか分からなくなってしまった。
 あの娘も母親と同じように、悟ったような顔をしていたのだ。
 午前八時半。ゆっくりと体を起こす。使い古された洗面台と所々が欠けている鏡で身だしなみを必要最低限に整えてから、店のシャッターを開ける。小さめの飲み物用リーチインに品を補充し、喫煙スペースの灰皿の中身をゴミ袋に移す。
「おう、半年もやれば手慣れたもんだな」
年季の入った声のする方とちらと見ると、居間で祖父がコーヒーを片手に新聞を読んでいた。
「まあね、さすがにこれくらいはできないと手伝いじゃなくて、ただの居候になるから」
 病院に勤めていた頃の起床時間は午前六時の時もあれば、午後の九時なんてときもある。一定ごとに生活リズムが破壊されるより、よっぽど仕事をルーチン化しやすく、身体の不調も出にくい。堂島はこの仕事を気に入っていた。
 午前九時の開店前に一服しようと、セブンスターを取り出す。胸を大きく膨らませ、ふはぁ、と白い息を吐き出す。綺麗になっている灰皿を最初に汚すのは何かと気持ちのいいものである。
「ケンちゃん、また眉間にしわがよってるよ、癖だねぇ」
「元々こういう顔! ばあちゃんもそれ言うの何回目だよ」
ふふ、そうだったかしら、と祖母は店前の掃き掃除を再開する。
 いつものように時間が過ぎる。こんなご時世にたばこ屋なんてそう繁盛するものではなく、昔からの常連や、近所の大学生等、顔見知りしかこの店にはやってこない。
 小学生たちの話し声が聞こえてくる。時計をみるとそろそろ小腹が空いてくる、くらいの針を刺していた。
「あら、サキちゃん。おかえりなさい」
近くに住んでいる小学生に挨拶をする祖母の声が聞こえてくる。可愛い子供の顔を見るのが元気の秘訣だそうだ。自分もよく近所のおばさんに「おかえりなさい」と声を掛けられたものだが、今になっても何と返すのが正解だったか分からない。
 ピンポーン、と午睡しかけの頭に突き刺さるように玄関のチャイムが鳴る。
「はいはい、今出ますよ……」
「今日からお世話になります、大林七星です」
ランドセルを背負った短髪の少女がそこにいた。その顔は可愛いというよりも綺麗が似合う、大人びた顔。
「はいはい、いらっしゃい、よろしくね」
後ろからどたどたと年に似合わない足取りで祖母が駆けてきた。
「え、どういうこと? お世話になりますって……」
「あら、言ってなかったっけ? 今日からうちで預かることになったななせちゃんよ」
「聞いてないし絶対に言ってない!」
記憶力は年相応のようであった。
「おばあさんから、話は伺っています。よろしくお願いします、堂島健斗さん」
「いや、あの、そのなんだ」
一瞬、自分に娘がいたらこのくらいの年になるだろうか、なんてよぎったせいか返答がしどろもどろになる。そんな脳裏と裏腹に小学生とは思えない丁寧な言葉遣いでしゃべりかけられ、さらに狼狽える。もうすぐ四十になるというのに情けなくなってきた。
「健斗さんは喫煙者のようですが、私の前では吸わないでくださいね。私、たばこ嫌いなので」
そしてこの言葉だ。はあ、なんてどっちつかずな返事をしながら家の二階へ上がっていく七星を見送る。
「うちの空き部屋を使うことになっているから、よろしくねケンちゃん」
春の暖かな風が一転して木々たちを激しく戦がせていた。
 八時には家を出る七星の為に、起床時間が八時半から七時になった。いつもよりも重い足取りで顔を洗って歯磨きをする。
「おはようございます、健斗さん」
「お、おう、おはよう」
紺色のワンピースに真っ白な靴下。十二歳にしては大人すぎると言われそうな、その服装は七星によく似合っていた。丁寧ではきはきと喋る七星の声に驚き、慣れない朝の挨拶をする。まったく、ようやくこの手伝いにも慣れてきたと思っていたところに、イレギュラーが紛れ込んでしまった。
「早いな、いつもそんなに早起きなのか」
「まあ、そうですね。以前は私が朝ごはんを作っていたので、この時間に慣れてしまってるんです」
「へえ、七星ちゃんが朝ごはんを? 小さいのに偉いね」
「小さいとか関係ないんです。父子家庭だったので、家事はほとんど私がやっていました」
「お父さんは今何を?」
「健斗さん、本当に何も聞いていないんですね」
はきはきとした声色が少し翳る。ふふっ、と笑ってはいるが表情には哀しさがにじみ出ていた。瞬間、少し胸が痛くなる。たばこの影響かと勘繰りつつ自分の胸をさする。
「ケンちゃん、ななせちゃん、ご飯できてるわよ!」
一階から味噌汁と焼き魚の匂いが漂ってくる。昨日祖母から言われた「朝ご飯を作ってほしい」とはなんだったのか。もう出来上がってしまっているではないか。これじゃあ何の為に起床時間を早めたかわからない。
「ななせちゃんと、朝ごはんを一緒に食べてほしい、って言ったのよ」
「そうですか、はいはい」
ズズッ、と反論する気の失せた顔で味噌汁を啜る。そういえば、朝ごはんを食べたのが久しぶりだ。忙しくて医者時代はろくに食べていなかった習慣が、最近までずっと続いてしまっていた。大根とわかめの味噌汁は塩味が薄いながらも、それがむしろ朝にちょうど良い。焼鮭はすこし塩辛く、白米を誘う。祖母の手作りであろうきゅうりと人参の糠漬けも、相性抜群だった。
「「ごちそうさま」」
七星と二人そろって食器を片付ける。
「私は学校で本を読むので先に失礼します」
スッとすました顔で似合わないランドセルを背負い、七星は出かけて行った。
いつものように開店準備を済ませ、たばこを吸う。時間が流れていく。昼食に居間でインスタントラーメンを食べていると、堂島の昼休憩を待っていたかのように、祖母は湯呑を持ちながらちゃぶ台の対面に腰かけた。
「亡くなったのよ、ななせちゃんのお父さん」
今朝の反応はそういう事だったのか。
「だから、ななせちゃんのお父さんの代わりになってあげてほしいの」
「わけのわからないことを」と言い返そうとしたが、いつにない祖母の真剣な眼差しを見て、咀嚼した縮れ麺と一緒に飲み込むことにした。
 父親。自分には到底縁のない言葉だ。医者という経験をしていなければ、普通のサラリーマンとして過ごしていれば、そういう未来もあったのかもしれない。ふと、今朝の七星の顔を思い出す。笑顔の裏側に見えた表情の翳り。ずきずきと胸が痛くなる。原因をたばこの所為にするように、何かから逃げるように堂島は店先の喫煙所で火をつけた。
「私の前でたばこは吸わないでください、って言ったじゃないですか」
自分の目の前を手で払いながら七星が言う。
「あ、おかえり。これは俺が吸っているとこに七星ちゃんが来たからノーカンってことで……」
「言い訳ですか、今回だけですよ」
「そりゃ、どうも……」
「でもその匂い、懐かしくて好きなんです。肺がんで死ぬなんて、もう二度と見たくないんでほどほどにしてくださいね」
七星は堂島の方を向き、ニカっと笑った。泣いているような、笑っているような。この子はこんな風に笑えるんだ。ランドセルによく似合う破顔だった。堂島はもう一度胸を膨らまし、言葉と一緒に吐き出した。
「これから、よろしくね」
 二人の翳りの無い笑顔を、夕焼けが眩しく照らしていた。

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