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セルフマネジメント事始め 1

<プロローグ>


中・高それぞれ、入学すると生徒手帳を渡された。自分だけの手帳。強い期待で開いたが頁をめくるごとに強い失望を抱いた。使えない。何かを書き込むにはあまりに小さくその中身は日常生活に必要な情報とかけ離れたものだった。

<知的生産の技術>


岩波新書に『知的生産の技術』(梅棹忠夫著、1969年)という古典的名著がある。研究や文書作成、思索などの知的活動を「知的生産」と捉えて、内面で行われる目に見えにくい活動を様々なツールで外部から支援していく手法について書かれたものである。様々な知的活動において、誰でも取り組みやすく効果の高い画期的な方法が多数紹介されており、電脳化が進んだ現在でもコンセプトとして実に多くのインスパイアに溢れている。この中での主張がワープロのアイデアにつながったことは有名で、現在でも多くの人が影響を受けている。

私自身も高校時代にこの著作に触れて熱狂した。今まで不確かな内面の活動であった作業が、形而下的な支援で質の高いものを産み出せるという氏の主張により大きく質が転換したからである。全体の構成まで一気に作り上げて完成させるのではなく、未完成段階のパーツを閃きに任せて順不同に作っていき、それを素材に構成していって全体を完成していくやり方だ。これなら自分の非力な知性でも知的作業ができる。


<手帳がほしい>


特に印象に残ったのは「発見の手帳」のくだり。ダビンチの例を引いて、発見したことや思いついたことを何でもかんでもすぐに書けるよう手帳を常に手元に持っておくことが大いに知的生産に資する、ということだ。これならすぐにでも自分にできる。今すぐそのような手帳を持とう。しかし、それは果たせなかった。適したものが手に入らなかったのだ。用途から考えて市販のノートでも十分なのだが、高校生特有のプライドがそれを可としなかった。どうせなら人目に触れても恥ずかしくないものがほしい。しかし市販の手帳は高校生にとっては、やはり高価だ。思いついたことを片っ端から殴り書きをするにはもったいない。綴じ手帳は初めからページ数が決まっており、書くスペースがなくなってしまったらもう使えない。その心理的な抵抗感は思考の自由さを大いに阻害する。その他、もろもろのことから高校時代、手帳を手にすることは遂になかった。

京大式カードなるものにも強い興味を持ったが、いかんせん当時の私の周辺にそのようなものは販売されておらず、ただ想像を膨らませるだけだった。


<B6カード>


地方から大学に進学し、初めてB6カードの実物に触れた。それから4年間、梅棹氏にならってB6カードを手帳代わりに使った。これならいくらでも補充ができるしストックもできる。メリットは大きかった。が、やはり市販のカードは高価だ。本だけは惜しむまいと心に誓っていたが、バイトをしないと腹一杯になれないという状況では、カードを湯水のように惜しげなく使うことはできなかった。

カードの支援によって完成した卒論を提出して大学を卒業、教員になってからもB6カードは私の知的生産を大いに支援してくれた。給料をもらい始めたのでカードも抵抗なく買えるようになったのだ。授業での板書事項やデータをすべてカード化し、単元をユニットとして進めていくやり方が可能となった。教卓でノートを見ながら板書するのはさすがに憚れるが、B6カードならさほどでもない。

その他の点でも、サイズを規格化して整理していくというカードの考え方は知的活動において様々に役だってくれた。(続く)

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