ざっかん/太宰治「右大臣実朝」

 ワタシハ、セイレンナ人間デス。
 どうだろうか。清廉な感じが、暑中この頃の湿った肌には調度良いのではないだろうか。もしくは、宇宙人の感じだろうか。
 「右大臣実朝」という歴史小説において太宰は、実朝の台詞を全て、漢字混じりのカタカナで書いている。神懸かりで品位ある人物とした実朝を描く技法である。
 太宰が他に漢字混じりカタカナの台詞を書いたのは、処女創作集『晩年』の冒頭を飾る「葉」の一断章に登場するロシア人の少女と支那蕎麦屋の主人である。彼女らは、ともに外国人であり、その日本語の巧みならざる様子を表現するのにそうしたという一面もあるだろう。だが同時に、彼女らは、実朝と同じように、清廉な存在でもある。
 この少女というのは、払い下げの屑花でもって商いを始めたが、殆ど売れない。買ってくれる者も僅かにはあるが、屑花を渡したにも関わらず少女は「咲キマス」と明言する。少女は毎晩、支那蕎麦屋で雲吞を食っていた。3晩目、同じように店に足を運ぶ。主人は、常連客である少女に「売レマシタカ」と尋ねる。少女は「イイエ。・・・・・・カエリマス」と答える。そこで主人は、叉焼雲吞をサービスする。帰路、少女は、萎れかけの屑花を数人に売ってしまったことに罪悪を覚え、「咲クヨウニ。咲クヨウニ」と小さく祈る。
 この小さな話において、「花」が芸術のメタファーであり、「咲キマス」の断言から「咲クヨウニ」の願いへ至る過程に、太宰の作家としての姿勢が真摯なものへ変化したことを見てとれるとされている(野口尚志「太宰治「葉」論 : 〈不安〉にたどり着くまで」)。この指摘からすると、カタカナは単なる清廉さよりも、芸術家としての真摯さのイメージへと限定されていく。実朝は、将軍でありながら、「金槐和歌集」を遺した歌人でもあった。
 少女に太宰を重ねるならば、実朝にも太宰を重ねることができるのだろうか。それに関しては、「右大臣実朝」を読み進める中で、北野武監督の映画を思い浮かべずにいられなかった。つまり、太宰治監督・脚本・出演の映画という印象があるのだ。
 太宰は、私小説家として知られるように、自己言及のとんでもなく多い作家である。それは、様々な形で行われ、一人称で「私」を使う以外にも、例えば「人間失格」の葉蔵のように作者の実像を匂わせるようなものから、「ダス・ゲマイネ」に至っては「太宰」という人物まで登場させるなど、あの手この手である。しかも、実際の出来事に微妙な脚色を加えていたり(薬物を海辺であおって心中したものを、海に飛び込んだと誇張したのが典型)、「ダス・ゲマイネ」の「太宰」は主人公と雑誌の同人になるが喧嘩の末に潰してしまうという点で、この場合は本人よりも、史実においては太宰と同人をやっていた中原中也の像と被るなど、とにかく拗れた自己言及である。
 「右大臣実朝」は、歴史小説ということもあり、直接的な自己言及は行われないが、個性的な登場人物たちに、太宰のパーソナリティを反映していると読むことができた。この点で、太宰治監督・脚本・出演の印象を持ったのであった。
 太宰の配役はどれだろうかと考えると、実朝と即答できるようで、できない。なぜなら、仮に太宰のパーソナリティが反映されているとしても、一人物に全部を与えるのではなく、複数人に分割されているからだ。
 世間では高い評判の歌人であり世捨て人だが、実物を目にすると俗人である鴨長明は、いかにも太宰が自らを客観的に卑下する時に書きそうなことであるし、同調ばかりではっきりとしない広元入道のまごまごとして滑稽な様子は、半エッセイのような小説、例えば「佳日」、に見られるような自己像と共通する。そして、仕事に秀でるがその厳格さ故に、暗い印象を周囲に与える相州を、太宰の畏怖するところであった長兄に重ね合わせる時、実朝を演じる太宰という一風変わった私小説的なるものを想像してしまう。


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