ざっかん/忌野清志郎「JUMP」

 どっぷりと太陽光が差して、僕の歩く並木通りは光がこぼれるほどだった。気持ちを象徴しているのではなかった。小説ではないから、単に景色が明るいだけだった。
 先日、極私的な失敗、それも殆ど自爆のようなことがあった。そのために、ダウナー沼に足を絡めとられ、ここ数日、起きていても、夢を見ても、妄念を頭から振り落とすことができなかった。妄念に従ってはいけないと考え、その誤謬を理性に示せば示すほど、現実の行動や思念は妄念の方を好むように選び取った。その様子は、ポスト・トゥルース的とも言えるし、フロイトならニルヴァーナ原則と言うかもしれない。
 段々とそれは、言葉の不信という症状を呈した。世界は、人間の能力に対して過剰なまでに複雑で、八百万の要素の集合であるから、適当に仕分をして、理解可能なサイズかつフォルムに変換する必要がある。僕の場合、その変換装置は文章で、頭で何かを考える時も、ワードプロセッサーの画面のようなものが眼前に薄もやとして浮かび、心に思うことを綴るような感じだ。僕の他にも、そういう人はあるのではないか。とにかく、コンピュータが0と1でアナログという完全さを読み替えるのに近く、世界を言語という不完全なもので再現しようとしている。
 しかし、ダウナーで漂白された言葉のことが、無機質な記号にしか見えなくなってしまった。学生新聞の構成をやっていた時、紙面の全てを「あ」のひらがなで仮埋めしていた。現実の言葉が、すべからく「あ」。先月から始めたnoteに投稿した記事も、全て非公開にした。まあ、ほとんど誰も読んでいないような、透明なものだったけれど。
 今は、もう一度やってみようと思える。
 僕が、その街路樹を歩き続けていたら、シャッフル再生を命じられたスポティファイが忌野清志郎の「JUMP」を選んだ。夜と朝のはざま、グラデーションの時間に清志郎は、悲しいニュースと嘘に溢れた世界について考える。そして、「何が起こってるのか 誰にもわからない いい事が起こるように ただ願うだけさ」と歌った。
 ただ願うだけだ。変な積極性で、正しい世界の読み替え方を探ったりするのは、止してくれ。僕は、傲慢だった。選択肢ではなく、何を選ぶことも意味のないような場所で、それでも言葉を選ばざるをえない感情なら、僕は願うように言葉を使うことができると思った。透明な文章でも、とりあえず書いてみよう。
 「Oh くたばっちまう前に旅に出よう Oh もしかしたら君にも会えるね」そして、ジャンプ。着地点の見当も付いていない不明瞭な動きで、なかなか恥ずかしいのだけれど、落ちた場所にいい事があればうれしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?