「敗北と死に至る道が生活ならば あなたのやさしさをオレは何に例えよう」

 「敗北と死に至る道が生活ならば あなたのやさしさをオレは何に例えよう」エレファントカシマシが2002年に発表した「あなたのやさしさをオレは何に例えよう」の一節だ。
 エレファントカシマシ、もしくはヴォーカルである宮本浩次の詞、が扱ってきたテーマは1つに絞ることができないが、通史として眺めると、そのまま1つの人生におけるテーマの変遷のように見える。これは、同学年(1966-67年生まれ)で組まれたバンドであるからかもしれない。2007年の「俺たちの明日」は、そうした流れを自ら振り返るように、10代、20代、30代それぞれの時期における内心を順番に歌っている。「愛する人のためのこの命だってことに あぁ 気づいたな」が、「あなたのやさしさ…」の頃、30代についてだ。
 2001年の「暑中見舞―憂鬱な午後―」と「普通の日々」、そして「あなたのやさしさ…」の3枚のシングルが至る、バンド12枚目のアルバムが「ライフ」の題を得たことからも分かるように、この時期におけるエレファントカシマシのテーマは生活であった。そして、生活を「敗北と死に至る道」と歌うところに、単なる呑気なポップスとは実際を異にする、生活への真摯さがある。宮本の詞は、「敗北と死に至る道」のニヒリズムを、「あなたのやさしさ」で乗り越えようとする。
 大正時代にも、愛を求め続けることを生きるエネルギーの源泉とした男がいた。ダタイストの辻潤だ。辻は、随筆「浮浪漫語」の中で、「自分の真に求めている幸福」が「一人の女性の全部の愛である。そして自分もその一人の女性を自分の全部をあげて愛すること」だと打ち明ける。そして、この幸福が果たされるという「妄想の執着が損する限り僕は生きる力がその執着から湧き出してくることと信じている」。つまり、「新しい愛をいつでも探し歩いている」。
 宮本と辻の意識は、ニーチェにおける「超人」の発想に遡る。人間はいつか死ぬという、生活の全てを無に帰す命題に対して、受動的であればニヒリズムの荒野を彷徨うだけになる。何のために日々喜んだり、不快になったりして生活しているのか、80年かそこらすれば全てなくなるというのに。「超人」とは、「何のため」を能動的に、自らの意思に見出していく態度である。
 しかし、人間が死ぬという前提すら、現代では覆い隠される。その事は、ニヒリズムを歪な形に成型してしまうことがある。実際、ニーチェの思想は、ナチズムに吸収された過去がある。それは、近代主権国家における政教分離の裏面で、そのような人間として当然の死の不安を癒すものが社会の表層から排除されてしまったためかもしれない(大田俊寛「オウム真理教の精神史」)。超人志向や存在論的不全感は、全体主義やカルト宗教の温床と表裏一体になっている。しかし、ロックバンドは、非現実と現実を構造的に行き来することで、カルトを跳ね飛ばし、将来へ前進する。
 祭りやシャーマンのセレモニーなどハレの空間において、音楽は非現実を創出する。この非現実と現実の間を橋渡しするのが、ロックのもつ性格である。ロックは、60年代の政治性を経て、70年代から消費社会に組み込まれていった。それの良し悪しは別にしても、また60年代型であろうと70年代以降型であろうと、ロックは現実に根ざしてきた。
 非現実の領域から、現実社会の虚無に生活するリスナーに訴える。同時に、エレファントカシマシの扱ってきたテーマの第二は、生活との闘争である。またそれは、カルトのように「ここではないどこか」へ行ってしまうのではなくて、むしろ生活の虚空を直視するための應援歌である。そして應援歌と言っても、成型された美辞麗句ではない。それは前述したように実感を伴うからで、背中を押す男たちもまた闘争の渦中にある。
 「暑中見舞 -憂鬱な午後-」は、普通の生活という「俺たちの」憂鬱を歌う。往来に人の出る晴れた日の午後、という外部の状況設定に対して、「勝利」や「あなた」について考える「俺」を描く詩は、普通に生活していることを憂鬱に思う孤独な営みを表現する。しかし、この歌詞は聴衆を求心する。普通の生活のすばらしさは、個々人がどう思うかをごった煮した、集合的・平均的に導かれた社会表層における産物で、個人それぞれの内奥における生活の闘争感覚とは別次元の問題であるからだ。また、物質・健康的な充足が心を一向に満たし得ないことは、現代の先進国にある僕たちの身に知るところだ。
 自分の心情という空を引っ掻くような孤独な闘い、そこにおける勝利とは、何なのだろうか。前述した観点に続けて、仮にそれをニヒリズムの超越、つまり自己の価値観の問題としてみる。すると、この勝利は、辻がその妄念に突き動かされて生きていたように、ニヒリズムを超越するエネルギー源である「あなた」に繋がる。
 社会の競争に身を置く事は、生活の無意味さに気が付いた上では不安に転化する。この事は、宮台真司の論じてきた、社会システムにおける「入れ替え可能性」の問題だ。
 「入れ替え可能性」とは、社会への適応を目標とした時に生じてしまう、僕が僕でなければならない理由の消失である。社会に適応するという目的を設定した時、それが達成できるなら、手段である自分が他の誰かであっても構わないのではないだろうか。社会の側からすれば、そこにいるのが僕でも彼女でも彼でも、システムに適応してさえくれれば誰でも同じで、そこにいる役割などは何時でも誰かと交換出来てしまうのではないだろうか。社会システムへの適応は、このような実存の不安を個人に呼び起こす。宮台は、「入れ替え可能性」の克服には、社会の外部を導入する事だとしている(「歴史を忘却する装置としての象徴天皇制」)。
 エレファントカシマシの音楽によって創出される非現実=外部、その外部がロックのコードで照射するのは現実=社会システムである。この事を考えると、宮本の詩がロックという形態で表現されることは、合理的ですらある。
 さいごに、2001-2002年という「ライフ」の時代を考える。現在のポスト・トゥルースにおいて、それを加速させる装置であるSNSが普及し始めるのが、この周辺の時期だ。社会変化の急速さと激烈さによって、これまでの普通の生活ができなくなった人々の一部が、排外主義的な思想に傾斜している。真実よりも、存在論的な不安を癒してくれる言説を信じる。SNSによって開かれた匿名の往来は、いくつものエコーチャンバーへ細分化されていく。「ライフ」の1枚は、人生の要請であると同時に、振り返ってみると時代への抵抗だったのかもしれない。今日こそ、「あなたのやさしさ」を求め続けなければならない。


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