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おばあちゃんへのラブコール

「いや~、久しぶりにいっぱい話したよ~」

週明けの月曜日の午前、祖母の温かい声がスマホから響いた。

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ここんとこずっと祖母に電話してないことに気付いたのは3週間前。

ほったらかしにしていた自分にダメ出しをする。


私は昔からおばあちゃんっこだった。

初めて海水浴に行った時、怖くて母にしがみついて大泣きしていた私を、祖母はおんぶであやしながら海に入れてくれた。

幼稚園児の頃だったか、台所にあった輪ゴムをたくさん繋げてゴム飛びを教えてくれた。

体育の評価は万年「がんばりましょう」だったのに、担任の先生からゴム飛びのお手本をみせてと頼まれた私は嬉しくて誇らしくて仕方がなかった。

夏休みには戦時中の話をしてくれた。野菜を作って物々交換していたこと、お芋ばっかり食べていたこと。祖母の話し方があっけらかんとていたからか、不思議と怖くはなかった。


寝れなかった時、祖母の布団に入れてもらって深夜のラジオ放送を聴いたこと。

「小学一年生」の付録を組み立てる時、厚紙の部品をハサミで綺麗に切ってくれて嬉しかったこと。

封筒を閉じようと糊を探していたら、ご飯粒を一つくれたこと。


ここ十数年、結婚に出産にと好き勝手していたが、故郷に帰ってきた今、なんてことない祖母とのエピソードをよく思い出すようになった。

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私と祖母の思い出は心温まるものばかりだが、変わり者である祖母は周りの人達には結構迷惑をかけている。

昔から会話は常に一方通行だし、掃除は最大限に手を抜くし、捨てられないから物を溜め込むし…。

今はケアハウスで暮らしているけれど、同居していた頃、両親は折り合いをつけるのに苦労していた。

大人になるに連れ祖母の困った性格に気付いた私も、次第に少し距離を保つようになった。

それでも幼少期の良い思い出は色濃く、今でも私は祖母が大好きなのだ。

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2020年。コロナ感染症が全世界に襲来し、祖母がお世話になっているケアハウスも例に漏れず訪問NGになった。

最後に会ったのは、恐らく同年のお正月だろうか。

訪問できないことを疎ましく思いつつ、電話すれば話せるのに、自分の仕事に囚われすぎて祖母の声を聴くことは後回しになっていた。

そうしている間に2021年。

何度も発令する緊急事態宣言や、自分の40回目の誕生日を間近に控えたある日、ここ数年間抱いていた仕事への違和感がもう無視できないほど表面化してきた。

面白いもので、どんなに固執した対象でも一度違和感を認めてしまうと、一気に視界が開けてきて、カサカサのゆで卵みたいな自分の殻にヒビが入り、つるんとした真っ白な白身になれた。

それまでぼんやりと見ていた青空や、黄緑色の若竹や、色とりどりの紫陽花の色彩が目に染みて眩しかった。

スーパーで買った塩豆大福がいつもよりずっと甘く感じ、昔、祖母が小麦粉と餡子のお焼きをよく作ってくれていたのを思い出した。

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半年振りに聴いた祖母の声は、全く変わりなかった。

相変わらず口が達者で、通話時間は25分足らずだったが、そのうち22分は祖母の独壇場だった。

この人のDNAを多めに受け継いでいたら、私も売れっ子の営業マンになっていたかもしれないと思ったが、正直どうでもよかった。

「あんただけだよ、こうやってばあちゃんの話を聴いてくれるのは。ありがとうねぇ」と大喜びする祖母に、ごにょごにょと籠りながら「またちょこちょこ電話するね」と言った。

「気い遣わんでえぇよ~。今、10日分くらい話したけんねぇ」

というので、じゃあ10日後に電話しよか?と聞くと、

「いや、もっと早めでもいいよ…( ´艸`)」

という祖母。


「じゃあ、またね」と電話を切った後、これからは「月曜日はばんちゃと話す日」と自分自身に宣言した。

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おばあちゃん。

引っ込み思案で、怖がりで、心配性だった小さな私を可愛がってくれてありがとう。

目に入れても痛くない、っていうくらい可愛がってくれてありがとう。

これからもいっぱい話せるよう長生きしてね。来年のお正月は会いに行くからね。

私も、娘のこと、もしかしたら会える未来の孫のこと、おばあちゃんに負けないくらい溺愛するけんね!





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