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ハワイの暮らしが教えてくれたもの-2-

 小学5年生で終戦を迎えた父にとって、日系アメリカ兵ほど嫌な存在はなかったと聞いたことがある。見かけは日本人なのに、アメリカ兵と同じ格好をして敗戦国、日本にいる。お前は一体何者なんだ?という、子どもながらに複雑な思いが湧いてきたという。

 30年も前のことだが、私は単身ハワイに3年間ほど滞在していた。前回に引き続き、ハワイの暮らしの中で考えたことを紹介してみたい。

 ハワイに到着してすぐに気が付いたのは、現地の住人にアジア系の割合が多いことだった。言葉は微妙にそれぞれの国の独特のアクセントがあって、文化が入り混じっている。日系人はもちろん多いが、中国やフィリピン、ベトナム、韓国、ポルトガルなどの混血も多い。サトウキビの植民地時代の、労働者として移住してきた人々の末裔だ。先住民のほとんどは、白人宣教師の持ち込んだ疫病で死に、生き残ったハワイの人々はアジア人などとの混血で今に至る。現在観光地で装飾品などを売ったり、ハワイアンダンスをしたりしているのは、近年サモアなどから渡って来たポリネシア系の人々なんだそうだ。
 アメリカの奴隷制度が廃止された後、アメリカはアジアから大量に労働者を移住させ、プランテーションを始めた。ハワイにも、この時期に大勢のアジア人が夢を抱いて入植してきた。ポルトガル人もこのころ入植したが、白人であるという理由で農場長として労働者の監視役を担った。移民たちは働けど働けど、帰りの渡航費さえ貯金できない。多くのアジア人は、労働条件の悪さに早めにけりをつけ、商売を始め、農場から離れていった。日系労働者は最後まで残った。故郷に錦を飾るまではと、夢を捨てなかった。そんなわけで、今でもわずかに残っているサトウキビ畑は、日系人が守り続けてきた農園なのだ。
 私も、ハワイに滞在して多くの日系人にお世話になった。ホームステイ先の夫人は日系3世だった。日本から移住してきた女性と結婚した、という日系2世の知り合いもいた。アルバイト先の上司も、友達になった気功師も日系3世だった。私は日系人と付き合ううちに、アメリカナイズされた日本文化を垣間見ることができた。家の中の装飾や靴を脱ぐ習慣、天皇陛下万歳、それから、言葉の中にも奇妙な日本語が残っていた。どこか、時代遅れな日本の匂いがするのだ。

 日系2世というのは、親の世代でアメリカに移住し、アメリカ人として育った世代だ。故郷に錦を飾るまで、という日本人魂で必死になって頑張ってきた1世にとって、この2世のアメリカナイズされた子どもたちがなんとも頼りない存在だったらしい。
 そんな時代に起きたのが第二次世界大戦、日本軍による真珠湾攻撃である。ハワイに住む日系人たち、とくに組織の代表、学校や武道場などの指導者であった1世たちは、ことごとくアメリカ本土の収容所へ送られた。ハワイに残っている2世たちは焦った。自分たちは同じアメリカ人であることを実証しなければ、ここで生き残れない。そうして日系2世たちの多くが志願兵となった。日系人で構成された第442連隊は、アメリカ軍最強の部隊だったそうだ。彼らは命がけで戦った。しかし最後は、アメリカ軍の捨て駒として使われたのだ。フランスの山奥に進攻して行ったのがハワイの日系人が所属していた第100歩兵隊である。ここで多くの日系兵たちが命を落とすことになる。(参照:『ブリエアの解放者たち』ドウス昌代)

 第100歩兵隊は、ハワイの言葉を交えて100(ワンプカプカ;プカは穴という意味)と呼ばれている。ワンプカプカは、後に英雄として語られ、アメリカにおける日系人の位置を確立させた。戦後、日系兵に嫌悪感を抱いていた父は、この話を本で読み、つぶやいていた。
「進駐軍の日系兵たちも、複雑だったろうな。」

 アメリカの日系2世たちも、私の父も他界した。歴史の中で翻弄された人々は、それぞれの立場で一生懸命生きていた。
 ワンプカプカ、ワンプカプカ・・・。フランスの山奥でアメリカ兵の格好をした日系兵たちが、決死の覚悟で前進している。それは異国で懸命に生きようとしている日本人魂の表れだった。できることなら戦場のプカ(穴)にもぐりこんで、生き延びたかっただろう。そして、一世の親たちに伝えたかったろう。
「ぼくたちは本物のアメリカ人だ。そして強い日本人なんだよ。」