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蛆虫の歌 8

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 時刻は午前十時半、目覚ましは十一時半にセットされていたが遠足前日の独特の緊張感にも似た胸の高鳴りが予定していた時刻よりも一時間早く僕の目を覚まさせることとなった。こうしてアイリ先輩との約束の土曜日を迎えた。
 とりあえずシャワーを浴びて歯を磨くという朝のルーティーンをこなし、普段は全く言っていいほど食べることのない朝食を食べる。食パンをトーストしてジャムを塗って食べるというなんの変哲もない朝食も恐らく小学生以来であったが、たまにはこんな風に健康に朝を迎えるのも悪くはないだろう。
何の変哲もない朝のモーニングルーティ―ンでも、限りなく夜型人間である僕にとっては普段経験することのない特別な下準備である。あくまで下準備の域を出ることは無いが、それでも普段全くしないような時間に準備をすると、不思議と胸の奥はソワソワしだす。まだ自分の中でそれを完全に認知出来ているわけではないが、少し恋情にも似た種が僕の心にある土壌に一つ植わっているようなそんな感覚があった。
二人で待ち合わせとした時刻は午後一時、そして現在は午前十一時半となっていた。一時間も早く起きれば他に何か出来ることもあったはずだが、童心にも似た胸のざわめきが時間があることは認識していながらもそれを有効的に使うことを許さなかったからである。こうしている間にも時間凄まじい速さで過ぎ去り、時刻は十二時を迎えようとしていた。
自由が丘に一時集合というデートプランの始まりはアイリ先輩が主導して決めてくれた今日という一日の始まりであるが、僕自身自由が丘に遊びの目的で行くのは初めてのことであった。高校受験の際に乗り換えで一回経由するのに利用したくらいで、自由が丘という街を目的地にするのは人生で初めてのことであった。今までの人生で全く縁があった土地ではなく、イメージとして「おしゃれ、大人が遊びに行く街」と言った漠然としたイメージが僕の中で強くあり今まで行くことが無かった。
自由が丘でカフェでお話をするという初めての経験をこれからする訳だが、それだけで胸が高鳴る。その胸の高鳴りを抑えきれぬと言わんばかりに服を着て身支度を整え家を飛び出すようにして出た。
普段全く利用することのない東急線のホームは僕にとって新鮮に感じられた。普段地下鉄を利用していることもあり、陽の光に照らされながら待つ電車というのは僕にとってあまりない人生経験であったからだ。今日は快晴の空模様となっているが、雨が降った日には傘をさして電車を待たなければならない雨よけのないホームで自由が丘に向かう電車を待つ。すると僕が電車を待ち始めて三分後に、ホームに間もなく電車がやってくるというアナウンスが響き渡った。全く電車が来る時間を確認せずに家を飛び出したが、ほとんど待つことなく電車がやってくるのは何かの吉兆のようにも感じられた。自分でもこのタイミングで初めて知ることになったが、どうやら乗り換えをする必要もなく一本で自由が丘の辿り着くことが出来るらしい。よく考えれば、僕が普段利用するこの駅もいつも電車を待つ自分は反対側のホームにいた。自分が出不精であることと普段向かう先もあまり変わりがないことを、普段見ることがない反対側のホームの景色が教えてくれた。 
電車がやってきて少し新鮮な気持ちで電車に乗り込んだ。車内は五,六人が座席に座るばかりで時間帯と快晴の空模様も相まってどこかのんびりとした空気が流れていた。座席に座る五,六人の人間もお年寄りばかりで、新聞を読んでいたり車内から見える景色を楽しんでいたりと、各々が自分の世界に入って目的地へと向かう移動時間を楽しんでいた。友人二人同士で仲良く談笑している年老いた女性二人を眺めていると、なんだか時間の流れが遅くなったような、そんな落ち着く雰囲気を感じることが出来た。
僕もそんな車内の空気と同化するように車窓から眺めることの出来る風景を楽しんだ。普段全く利用することのない方向に向かう電車から見ることの出来る車窓からの眺めの全てが僕の目に新鮮に映る。自分の家から見ることが出来るビル、小学校の頃仲が良かった友人の家、たまに散歩をする時に通ることがある公園、それら全てを普段全く見ることが無い角度から一瞬ではあるが見下ろすことが出来る。自分が見ている自分が住む街の景色と、車窓から眺める景色のギャップに感銘さえ受ける。
その景色を眺めているとたった三十秒ほどで、景色は自分の生活圏の外へと移り変わった。自分が普段見ている視点でもあまり見ることのない街を車窓から眺めるのもまた乙である。自分が幽霊になったらこんな視点から町を除くことが出来るのであろうか、と思い耽っていると鈍行電車は隣の駅に停車した。最寄駅から隣の駅であるのにも関わらず、アナウンスされる駅名からはどこか新鮮な印象を受ける。実際、普段全く耳にすることが無い駅名ではなかったが駅員のアナウンスを通してその駅名が耳に入り、自分がその駅に停車中とはいえ存在していることを認識するとどこか不思議な気持ちにならずにはいられなかった。
自由が丘までは三十分ほどではあったが景色を眺め各駅に停車するということを繰り返しているうちに、電車の扉が開いて自由が丘に停車するアナウンスが聞こえた。もう目的地に着いたのかと自分の中で少し驚きつつも席を立ってホームに降り立つ。そういえば高校受験の際に利用した電車はあっちだったなと思いつつその時とは正反対に、当時乗った電車の方から目線を切るようにして改札へと向かう。改札を出るとすぐに開けた場所に出た。全く調べず且つ何の確認もせずに改札を出たが、集合場所とされた北口に運よく出ることが出来たらしい。
時刻は十二時四十分過ぎと言ったところで、待ち合わせの時間までは二十分ほど余裕があった。しかし、どこか店に入って時間を潰す必要もないため、目の前にあるロータリーにあるベンチに腰掛けアイリ先輩を待つことにした。どこからアイリ先輩はやってくるのであろうか。僕が出た同じ東急線の出口からであろうか。はたまた目の前にあるバスから降りてやってくるのであろうか。ここでようやく事前に確認しておけばよかったと後悔したが、このベンチの辺りで待っておけばお互い見つけやすいであろう。
これから始まる先輩とのデートに胸を高鳴らせ待っていると、予定していた時刻の十分前になって「もうすぐ着くよ」という連絡が僕のもとに届いた。別に紳士面をするために早く目的地に着いたわけではなく、自分の落ち着きのなさのせいでこんなにも早く目的地へと僕を運んだわけだが、それが結局いい結果をもたらすこととなった。
すると僕が見ていた東急線のホームとは真逆の繁華街の方面から声をかけられた。
「お待たせ!久しぶりだね。」
全く予想をしていなかった方向からの呼びかけに少しびっくりすると、そこには高校生の当時よりも綺麗になって大人びたアイリ先輩の姿があった。
「久しぶりです!早いですね。」
そう僕が謙遜するように言うと
「いや、私も方が早く着いて待ってようと思ったのに雪成くんの方が先についてるなんて。」
と謙遜を返された。
 こうしてお互いの集合時間から十分ほど早く待ち合わせに成功することとなった。ここでは一旦お互いの身の上話をすることはせずに早くお店に行きましょうと先輩は言って、当初先輩が話していたカフェに向かうこととなった。
 そこは話によると駅から五分ほど歩いたところにあるようで、少し目のつきにくいところにある「隠れ家的カフェ」であるらしい。僕はそう説明を受け、先輩に身を委ねるようにしてそのカフェに向かった。どうやら先輩の行きつけの店であるようで、
「ここを真っ直ぐ行って、何回か道を曲がれば着くよ。」
と言って僕の左隣を歩きながら案内をする。確かに繁華街の大きな道からはもう既に逸れており、何回も右に左に道を曲がるためいつの間にか人通りの少ない場所まで来ていた。
「ここを右に曲がったところにあるんだ。」
と上機嫌に話す先輩の言うがままに右に曲がると、木と住宅街の影に隠れたカフェが姿を現した。なるほど、確かにこれは「隠れ家的カフェ」と言えるような雰囲気を醸し出している。駅から少し離れた住宅街の中にあるという点や、その中でも木や建物の陰に隠れているという点、そして木造の少しアンティーク調の店構えが僕だけではなく誰しもに「隠れ家的」な印象を抱かせる。
 僕がそのような印象を受けているのが顔に現れていたようで、
「ね、言ったでしょう?ここ雰囲気良くて好きなんだよね。」
と先輩がニコニコしながら僕に言った。
 そんな上機嫌の先輩を先頭に店の扉を開ける。そうすると「カランコロン」と少し懐かしさを思い起こさせるような入店音が鳴り響き、間もなく店の奥から「いらっしゃいませ」という店員の声が近づいて来た。
「二名様でよろしいでしょうか?」
と店員が確認し、それではこちらへと言って店の奥へと僕らを案内した。用意された席は木造のローテーブルとレンガ色の長いソファーが二つ向き合っていて3,4人でも使えそうなほど広い席であった。僕が気になって
「え、こんな広い席使っていいんですか?」
と店員に尋ねると
「現在、店内空席が多いので大丈夫ですよ。」
と優しく返してくれた。
「今日はいい日だね。」
と上機嫌に先輩は続けて
「このお店普段結構人気でお客さんが沢山いることもあるんだけど運が良いね。」
とこの店を少し見渡しながらそう呟いた。
 あまり来たことのない雰囲気のお店に僕は緊張を少し隠せずにいた。このようなお店ではどんな振る舞いをしているのがいいのだろう、何を頼んでどんなことを話せば良いのだろう。と、ソワソワしていると店員がお冷とメニュー表を運んできた。
「私はもう頼むもの決まってるから、雪成くん好きにメニュー見て決めなよ。」
と先輩は言って、僕にメニュー表を手渡した。どうやらこのお店はカフェがメインであるものの洋食も提供しているようでパスタやカレーなどの商品もメニュー表には記載されていた。僕は鮮やかで品揃えも豊富なメニュー表に目移りしてしまい、なにを注文したらいいのか決めあぐねた。
「ちなみに先輩は何を頼むんですか?」
と尋ねると飲み物が記載されているページを開き
「私はこの『深煎りキリマンジャロのカフェモカ』にするよ。」
と指をさした。どうやらこのカフェモカがこのお店の看板メニューのようで、他の商品よりも大きく写真付きで掲載されていた。僕はこれ以上目移りすると時間がかかってしまうし、これ以上自分で考えても決められないと思い、
「じゃあ僕も先輩と同じやつがいいです。」
と言って同じものを注文することにした。そうすると先輩は慣れたように店員を呼び「深煎りキリマンジャロのカフェモカ」を二つ注文した。注文したのちに、こういったカフェを巡るのが趣味だと先輩は言った。どうやらこのお店は先輩が巡ったカフェの中のお気に入りの一つであるらしい。
 僕が普段全く関わらない趣味であるためその話を食い入るように聞いていると注文したカフェモカがテーブルに二つ運ばれてきた。「卓上にあるコーヒーシュガーで甘さを調節してください」という店員からの言葉と共に、白い陶器のカップに淹れられたカフェモカと同じく白い陶器の皿がそれぞれ僕と先輩の手元に置かれた。
 頂きますと言ってお互い一口啜った。確かに普段僕が口にしているコンビニのカフェモカとは大違いであるのがすぐさま理解出来た。深い味わいや香りについての感想を述べようと試みたが、自分のあまりに少ないカフェモカ経験では味の違いや香りの違い、どの様な味や香りであるか、キリマンジャロの豆であるとどのように味や香りが違うのかと言ったことを全く言葉にして言い表すことが出来なかった。それでも感想をひねり出そうとあざ祝いながら考えていると
「どう?美味しいでしょ。」
と先輩が僕の顔を見て言った。その瞬間僕が何とかして言葉に表そうとする思考回路が全て吹き飛んだ。小難しいことを考えても僕にはこのカフェモカについて人を納得させられる感想を生み出すことは出来ない。ならば先輩の言う通り「美味しい」という感想さえあればそれで充分であり、僕の感想を伝えるのに最も適しているだろうと思い、「美味しいです!」と返すと、先輩は特に何も返すこともなくただ僕に微笑みを投げかけた。
 店内は外の世界と隔絶されているかと思うほど時間がゆっくりと流れていた。ゆっくりと回る間接照明がどうやらこの空間の時間軸を支配しているらしく、この間接照明を中心にゆっくりと店内の時間が進むように感じられた。
「ここ本当に落ち着きますね。また一人でも行こうかな。」
と僕が呟くと
「じゃあまた一緒に来ようね。」
と先輩が微笑んで返した。この会話が今日の僕ら二人のデートの幕を上げることとなった。
「そういえば雪成くんなんか悩んでることがあるって言ってなかったっけ。最近どうしてるの?」
「どこから話しましょうかね。」
と悩むフリをして言葉を続けた。
「もう一年弱前になるんですけど大学を中退して、最近はフリーターやってます。」
と僕の最近の身の上話を話した。流石にこの前自殺未遂をしたことや、自堕落な生活を送っていることは話し辛かったため、それらのことは隠しながら自分自身の説明をした。途中、何故大学を退学したか聞かれたが「少し病気をしてしまって」と言葉を濁して返した。
「逆に先輩はどうしてるんですか?」
僕が最近の身の上話を終えて聞き返すようにして先輩に尋ねた。
「実は私今インスタグラマーやってるんだよね。」
と僕があまり予想していなかった回答をして、またこう続けた。
「今別のアカウントがあってそれをインスタグラマーのアカウントにして使ってるんだけど、一万人くらいまでフォロワーが伸びちゃってさ。凄いありがたい話ではあるんだけど、それに伴って変なファンみたいなのが付き始めちゃってさ。どうしようか困ってるのよ。」
と先輩の自らの悩みを僕に打ち明けた。
 まさか、僕が出会ってきた人間の中からそのようなインフルエンサーが生まれていたなんて予想もしていなかった。中々信じることが出来ないが、どうやら僕の目の前にいるのは本当に一万人のフォロワーがいるインスタグラマーらしく、その一万人のフォロワーがいるアカウントを僕に見せてくれた。
「え、凄いじゃないですか!」
というとその画面に写っている人間と僕の知っているアイリ先輩を僕は交互に眺めた。どうやら画面上に写る人物と目の前にいる人物は同一人物であるようで、その実感を得られた瞬間にやっと「アイリ先輩は現在インスタグラマーある」という事実を飲み込むことが出来た。
「え、じゃあ僕今有名人と一緒にお茶させて頂いてるんですか!」
と僕が純粋な嬉しさを顔の表しながら先輩に言うと、照れくさそうにしながら「まあね!」と最後はどや顔を僕に見せてくれた。

 お互い小さな悩みはあるものの、別に今すぐ解決しなければならないような悩みは抱えていなかった。しかし、そのような小さな悩みが話の種になってくれたおかげか、僕らはお互い谷志位雰囲気の時間を過ごすことが出来た。お互いの悩みを話してそれを聞き合い、時に同情しながらカフェモカを一口啜る。この連続を繰り返しているうちに時刻は午後三時を迎えようとしていた。「もう三時か」と僕が呟くと、
「ごめん私この後用事があるの。言ってなくてごめんね。」
と言い最後の一口を啜った。今日はもう終わりかと声に出さずに僕が少し肩を落とすと
「次またいつ会える?」
と少し寂しそうに僕に尋ねた。どうやらこれからも関係を続けてくるそうで僕はそのことを心の底から嬉しく感じた。
 こうしてお互い二週間後の同じ曜日にまた会いましょうと言って約束を立てた。今日が早く終わってしまう寂しさと、これからもまたアイリ先輩と会うことが出来るという嬉しさが僕の中で今日飲んだカフェモカのように混じり合った。

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