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蛆虫の歌 6

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 こうして二曲目の歌詞も無事完成した。一曲目の初期衝動と二曲目の静かな情熱が結果的に僕の人間的な成長を表していて、その対極ともいえる情熱が心地よいバランスとなっているような気がする。早速この歌詞を康太郎に送り、曲のイメージ像や影響を受けている音楽なんかについても話し合った。
「オアシスみたいなバンドやりたいって言ってたの覚えてる?送った歌詞のイメージとは少し違うかもしれないけど、ああいう曲作ってよ。」
「俺がノエルになるのか(笑)中々荷が重いけど頑張ってみるよ。」
「売れてえな。」
「そうだな。今の時代媚びた音楽が多すぎるよ。全員ぶっ潰してやろうぜ。」
僕らは決起した。何の根拠も何のレガシーもないが、凄まじい火力で燃え滾る太陽のような初期衝動が僕らの人生に革命を起こそうとしていた。どこか有名な音楽の大学を出た訳でもなければ、何か特別なコネがあるわけでもない。しかし、マインドだけに限ればグラミー賞間違いなしと言えるほどに僕らは燃え滾っているのは明白であった。

 そして、康太郎と約束していた作曲の日を迎えた。本日は月曜日であるが、康太郎を普段古着屋に勤めていて固定の休みがない不定休であり、一方僕は退院後、バイト先のコンビニのオーナーと店長に事の顛末を相談した結果、一ヶ月間の休職をすることとなっていた。退職も考えたが、全く収入がなくなる問題と、バイト自体はさほどストレスとなっていないことから、一週間に一回の通院機関が終了するまでは休職ということで双方合意と至った。
 そのため、世の中は憂鬱な空気を孕みながら再び動き出したが、僕らは真逆に自由な休日を始めようとしていた。時刻はちょうど正午といったところで、康太郎がうちにやってきた。
「何気に久しぶりだな。一ヶ月弱ぶりくらいか?」
「確かにそんくらいだな。どうよ、調子の方は?」
康太郎が何気なく僕にそう尋ねてきて少し困ってしまった。ついこの前に自殺未遂してしまったことは黙っていようかと考えていたが、これから人生の長い時間を過ごすであろう親友に隠し事はしたくなかった。
「いや、元気とは真逆のところにいたよ。信じられないかもしれないけど、ついこの前死にかけて二,三日入院してたんだ(笑)」
「いやいや、何があったんだよ。確かにさっき部屋入った時にやつれたなとは思ったけどさ。」
僕は自殺未遂したあの時のこと全てを康太郎に説明した。康太郎は寝耳に水を刺されたように驚いていたが、僕の身を案じて「何かあったら相談してくれよ」と言ってくれた。
 そして。今回僕が書いた歌詞についても説明した。とりわけ二曲目の歌詞にも含まれている「青い光」というものについて説明すると、康太郎は食い入るように話を聞いてくれた。
この一週間何があったか、そして僕が書いた二曲の歌詞について説明したところで、康太郎から一つの提案を受けた。
「なあ、俺ら二人でバンドをやるのもいいけど、佑介誘って三人でやらないか?ギャラガー兄弟は1+1で100を作ったけれど、やっぱり俺らにはいろいろ経験と知恵が足りないように思うんだ。佑介は今ライブハウスで働いてるし、そこら辺の伝手みたいなのも頼れるんじゃないかと思うんだけど、どうかな?」
その提案を断る理由はなかった。すぐさま佑介に連絡をしたところ興味を持ってくれた。そして、直近の休みを佑介に尋ねたところ「今日」と一言帰ってきたため、急いで佑介に電話を掛けた。
「もしもし?今日暇?今、康太郎と俺んちいるんだけど来ない?」
「いいよ、何か持ってくモンとかある?」
「ベース持ってきてよ、出来ればプレベがいいな。」
「あいよ、一時間くらいで着くと思うわ。」
「じゃあ待ってるわ~」
あまりにトントン拍子に話が進んだが、確か学生時代もこんな感じで行き当たりばったりであったような気がする。授業をサボるのも飲みに行くのも誰かの家に泊まりに行くのも、全部当日のやりたいと思った瞬間に予定を決めていた。学生生活が終わると、やはりそのような予定決めが不可能となったのと同時に、三人とも不定休であるせいで中々予定を合わせるのにも苦心していたところであった。
 このまま予定の合わない生活をしていたら、三人で会うことは叶わずに友情が空中分解してしまうのだろうかとも恐れていたが、これから音楽を始めようと言う時に何の運命の悪戯か、短期間で休みを合わせて再会することが出来る。まさしく運命であり、漠然とはしているが何か凄いことが起こりそうな予感がしてならなかった。
「三人で集まれるのなんていつ以来だ?」
「卒業式の時以来じゃないか?しかも佑介あの日休み取れなくてほんのちょっとしか会えなかったし、がっつり一日遊べるのなんていつあったかもう覚えてないな(笑)」
「康太郎明日仕事?」
「明日仕事あるけど夕方からだな。」
「じゃあうちんち泊っていきなよ。佑介も明日仕事あっても昼以降だろうし、曲作りした後はいい感じにパーティしよう。」
「それ、最高。」
一時間弱して佑介も合流し、明日の予定を確認したところ僕の目論見通り午後三時からの出勤であり、夜通し遊ぼうと誘うと佑介も嬉しそうに快諾した。
 こうして僕らの最高の一日が幕を開けた。作曲をしながら、学生時代の懐かしい記憶を取り戻しつつあった。僕は酒を飲まなかったが、あの頃と同じように楽しむことが出来た。あの時と今では楽しい時間に限りがあることなんて分かっていた。学生の頃は無限にこの時間を楽しむことが出来たのに、今では時間に限りがあることのギャップがある種グロテスクなようにも感じられた。大人たちがこぞって「昔は時間がたくさんあって楽しかった」とうんざりするほど説教のように垂れていた愚痴も、今ではその気持ちをほんの少し理解してあげられるかもしれない。それほどにこの時間に終わりが来るのを惜しんだ。
 友達とする作曲作業がこれほどまでに楽しいとは思わなかった。「時間が溶ける感覚」はこの作業が語源となったのではないかと思えるくらいには、作曲作業に没頭した。各々がリファレンスとなる曲を持ち寄ってそのことについて議論を交わしたり、どのように曲を作って歌詞を重ね、どのようにブラッシュアップしていくかについての議論を重ねていくうちに、各々が持つ初期衝動が交わってバンドとして一体感を持つ感覚に僕らは溺れていった。
 僕らは時間も忘れて作曲に熱中した。僕が作った歌詞と康太郎が作った曲、そこに佑介の知恵や技術を詰め込んで、当初康太郎と打ち立てた二曲完成させるという目標を達成することとなった。
 今と違って昔ではスタジオが作曲をする上でのメッカであったが、時代が移り変わり、どんなジャンルの音楽も六畳ほどのベッドルームから作られることが多くなった。僕らはスタジオに篭って音楽を醸成する楽しさを知ることは中々出来ない時代に生まれてしまい、それらに夢を見ることもあったが、今こうして六畳ほどの寝室から世界中に向けて自分たちが作った音楽が発信されていくと考えると、それもまた大きなロマンを感じずにはいられない。
 そういえば、昔父親と作ったジオラマもこの部屋から生まれた。僕が生まれる以前は僕の寝室ではなく父親の書斎であったこの部屋は、僕が生まれてから父親の書斎の名残を残した僕の寝室となっていたため、しばしば父親の作業部屋として使われることもあった。この部屋は数年の時を超えて、また人間のクリエイティブの権化とも言える部屋へと返り咲いた。幼かった頃はこの様な光景を自分が主導して作るとは考えもしなかったが、やはり血には逆らうことは出来なかったようで、ジオラマと音楽という違いはあれ、「0から1を生み出す創造」というクリエイティブにおいて全く同じことを父親も僕もしていると思うと、感慨深い気持ちにならずにはいられなかった。 
完成した荒削りの曲をパソコン上にデモとして残した。完成した曲からはどこか生物としての美しさを感じ取ることができ、僕らはそのデモを聴きながら康太郎がジョイントにして持ってきたマリファナを吸い、一晩中踊り狂った。僕らが作った音楽と、僕らを作り上げてくれた音楽を交互に聴いて力尽きるまでパーティをした。最後の最後は何をして何を聴いていたか覚えていないが、目が覚めようという時にChampagne Supernovaが流れていたことに気が付いた。
時刻は曜日が変わって火曜日の午前九時を過ぎた辺りであった。いつ寝たのかも誰が一番先に寝たのかも覚えてはいないが、どうやら一番最初に目覚めたのは僕らしい。そういえば、学生時代も朝早く起きることだけで言えば僕が一番優秀であったような気もする。こんな覚えていなくても何も困ることもなければ、何の得にもならないようなことまで覚えているのは、僕らはそれだけ長い時間を過ごしていたことを証明しているからに他ならなかった。
朝起きるともう昨日吸ったマリファナは抜けきっていた。踊り狂った夜中とこの朝の静けさのギャップに少し寂しさを覚えるのと同時に、最高の一日が終わってしまった寂しさも襲ってきた。今度はいつ集まることが出来るのであろうか。僕はしばらくまた社会と隔絶されたこの部屋にしばらく籠るだけであるが、彼らは僕と違ってまた社会という戦場に戻らなければならない。果てしなく遊んだ日の次の日の朝は静かな孤独と虚無感に襲われて如何ともしがたい気持ちにさせられるが、この孤独と虚無感があるからこそ友人とまた再び会えることの楽しみに繋がるのだと、いつひっくり返って寝てしまったのか分からない彼らの知性をどこかに置いてきてしまったような寝顔を見て陣割と実感させられた。
彼らは夕方から仕事があると言っていたためまだしばらくは起きないであろう。昼頃早めに彼らのことを叩き起こして、どこかにご飯でも食べに行くことが出来たら最高の休日はこれまた最高のフィナーレを迎えて完成するであろう。最後の楽しみについて考えながら、シャワーを浴びて歯を磨いた。そのような身支度を整える時間を経て部屋に戻っても、彼ら二人は全く起きる様子がない。康太郎は何やら寝言を言っているし、佑介は爆音のいびきを轟かせている。そんなだらしない朝の人間が奏でる音楽を聴きながら、吸うタバコはなんとも格別である。
二時間ほどチェーンスモークを繰り替えしているとタバコを切らしてしまったため、コンビニにタバコを買いに行くことにした。途轍もなくだらしのない休日を送った次の日の朝に、休職中であるバイト先に顔を出すのは少々忍びなく思ったため、もう一つ離れたコンビニに行ってハイライトメンソールを買いに行くことにした。
外は雨模様であった。傘をさして外に出ることが面倒にも思われたが、自分は英国紳士でもなければ、傘が無いとさすがに外を出歩くことを躊躇してしまうほどの土砂降りの雨であったためおとなしく傘をさしてコンビニへと向かった。外に出て気が付いたが、ここ一ヶ月ほどはあまり雨が降っていないように思われて、天気予報確認してみると先を見ても過去を見ても雨マークがついているのは今日だけであった。梅雨の時期にうんざりしてしまうほどにこの国には雨が降るのにしばらく雨が降らないとなると、今日この都会を覆う厚い雨雲のことも許してやれるような気がした。
タバコの買い出しから家に戻ると康太郎が目を覚ましていた。
「雪成朝起きるの早いな。今何時?」
時刻は正午前といったところであった。現在時刻を康太郎に伝えたのと同時に、僕らの休日が始まってから約二十四時間経とうとしていたことに僕らは気づかされた。
「もう十二時だね。そろそろ佑介起こしてメシでも行こうよ。」
康太郎もいいよと言って佑介を起こそうと声をかけたが、佑介は一向に起きる気配がない。学生時代も現在も、佑介は朝寝起きが悪いことは何も変わってはいなかった。そのことに懐かしさを覚えるも、どうやっても起きない佑介にだんだんイライラも募ってきた。
「マジで起きないな。引っ叩いてみる?」
「いや、多分そんなことしたらめちゃくちゃキレられるよ。とりあえず佑介起きる前にシャワー借りていい?」
「いいよ。タオルと洗顔取ってくるわ。歯ブラシは持ってきた?」
「歯ブラシは持ってきたから、タオルと洗顔とあと歯磨き粉貸して欲しいかな。ドライヤーは洗面所?」
僕は「そう」と返して、シャワーセットを取ってきた。学生時代はこれが逆の立場で、よく康太郎に家に泊まってはタオルなどをよく借りていたことを思い出した。それが現在では立場が逆転して僕が貸す側に回っていることが何故だか少し面白くて心の中でクスリと笑った。
 康太郎がシャワーから出るまでに佑介は起きるだろうか。佑介は起きても起きた直後は決まって異常なほど機嫌が悪いため、出来れば早めに起きてもらってご機嫌を整えて欲しいところではある。佑介も朝支度を整える時間があることを考えると、そろそろ起きて貰わなければ昼飯の時間が無くなってしまうと思い、若干強硬策ではあるが無理矢理体を揺すって起こすことにした。
「佑介起きろ!飯食いに行こうぜ!」
どうやら佑介は目を覚ましはしたらしい。すると丁度といったタイミングで佑介のケータイから目覚ましの音が鳴り響いた。どうやらあれだけ昨夜遊び尽くしたというのに、ちゃんと次の日の起きる時間の目覚ましだけは力尽きる前の置き土産と言わんばかりに設定しておいたようだ。
「ん…。今何時…?」
「十二時半だね。てか目覚ましセットしてたんだ、起きて飯食いに行こや。」
僕がそういうと、嫌々といった様子で佑介は体を起こした。とんでもなく不機嫌な顔をしつつも、一度止めた目覚ましがこれ以降鳴らないようにケータイの目覚ましをしっかりと切るあたり、昔よりはしっかりと朝起きることが出来る様には成長したことが伺えた。
「今康太郎がシャワー浴びてるから出たら佑介も入りなよ。俺もう早めに起きて先に入ったからさ。」
「お前何時に起きたの?あんだけ遊んだのに朝起きるの早すぎるだろ…。」
「九時過ぎくらいに起きたかな。俺別に寝起き悪くないからさ。」
僕が佑介の寝起きの悪さをイジるように言うと、「うざ」と鼻で笑って返した。きっとすぐに忘れてしまうであろう些細なやり取りでさえも、これほど久しぶりとなると愛おしく感じられた。こう感じるのも、僕も康太郎も佑介も全員が不完全と言えど大人になったことということなのであろう。毎日凄まじい速さで流れゆく日々の中にあるこなさなければならないタスクやストレスが、僕らの人格や人間としての価値観を醸成していくと考えると大人になるのも悪くはないなとも思う。若きティーンの無限にあると思われていた時間と体力、それらが今となってはとてつもなく羨ましいが、学生生活を終えた今友人と遊ぶ時間も体力も有限となった今だからこそ、些細なことでも楽しいと思えるように、幸せだと思えるようになったのは人間としてこの上ない喜ばしいことなのではなかろうか。
 そんな感傷に浸っていると、康太郎も佑介もいつの間にか身支度を済ませていた。
「どこに飯食いに行く?」
と僕が彼らに尋ねる。と佑介は
「雪成の地元のおすすめは?」
また康太郎は
「いやラーメン食うでしょ。」
と言い、僕らも顔を見合わせ満場一致でラーメンを食べに行くことにした。
 自分の中では若干飽きが来ていたが、結局いつも一人で行く横浜家系ラーメン屋にみんなで行くことにした。他に選択肢が無いわけではなかったが、他の店行くのも気乗りはしなかった。何よりみんなと揃ってご飯を食べることが出来れば何でもよかった。
 ほとんど会話を交わすこともなく三人並んでラーメンを啜り店を出た。ラーメンを食べているときは勿論のこと、ラーメンが着丼するまでの時間も各々ケータイをいじって待っていたため、周りから見たら仲が悪いようにも見えただろう。とりわけ僕なんかはイヤホンをして音楽を聴いていたため余計そのように見えたかもしれないが、僕らは互いにどんな事をしていても気にも留めていなかった。三人の中で僕が一番マイペースな人間である自覚はあるが、かといって康太郎も佑介も隣に座っている人間を気にするほど過敏な人間ではない。何年もこのような付き合い方で接してきたため、変にお互いに干渉しない方が心地が良かったりするのも、今も昔も変わってはいなかった。
 昼食から我が家に戻り時刻は午後一時半を回っていた。この時間になって改めて昨日作ったデモを聴き直した。シラフで聴くと不思議なことに少し間延びするようにも感じられた。
「イントロ長くね?」
と僕が二人に尋ねると、二人も
「確かに。」
と口を揃えて同意した。どうやらしっくり来ていなかったのは自分だけではなかったらしく、三人とも口を揃えて「フレーズはいいけどそれぞれのセクションが長すぎる」と口にした。しかし、その修正をする時間は気がついた時には残されていなかった。
 午後二時前になって、二人ともそろそろ出勤をしなければならない時間帯を迎えていた。「次いつ集まる?」
と僕が尋ねると、二人ともしばらく休みが無いらしく、また追って連絡するということで落ち着いた。
 こうして、出勤がたまたま同じタイミングであった二人のことを見送り最高の一日は幕を下すこととなった。

 どうやら二人とも繁忙期とやらであるようで中々忙しくしているらしく、もう少し月末にならなければ予定が分からないとのことであった。どうやら二人の職場は人が足りていないらしくそれが原因で中々休みが取り辛いとのことであった。
 そうなると、僕はまたしばらく手が空いて暇になってしまう。休職期間であるこの一か月何もしないのも退屈でつまらないし勿体ない。歌詞を書くにしろ、何か情動を突き動かされるような出来事もこんな生活をしていたら期待は出来ない。
 決まって僕の心を突き動かす何かは外の世界に存在した。それが僕をマイナスに引っ張ろうとプラスに引っ張ろうと、外の世界にはこの部屋には無い、漠然と言葉にはし難い何かがある。康太郎も佑介もしばらくこの部屋に来ることは見込めない。ならばこの部屋を埋めるものは、僕という自堕落とその空間を満たす孤独だけである。数年前も今も変わらずこの部屋の大部分を占める孤独との付き合い方も昔よりは上手くなった。部屋に一人ならば音楽を聴けばいい。それに飽きたら歌詞を書けばいい。それすらも飽きたら次は本でも読もうか。
孤独は強敵だ。立ち向かおうものなら、すぐにでも僕の心に入り込んで僕の脳内を支配しようとする。しかし今は孤独と踊る。昨日の…とはいかなかったが、数年前の敵は今日の友とでも言えるくらいには僕は今孤独を愛することが出来るように思う。孤独との共存が出来るようになったのも、友人が一時でも孤独から僕を遠ざけてくれたからであろう。きっと孤独は酸素のようなもので、少しでも濃度を間違うと人を死に追いやるが、適切な濃度であれば逆にたちまち人にとって必要不可欠なものへと変わる。それと同じように孤独は僕を生かす猛毒であるのだ。
しかし、一ヶ月の孤独は僕にとって致死量のように思えた。現在は一人の時間を上手く乗りこなすことが出来ているが、いつかはまた酸素中毒に陥るように孤独の中毒症状に悩まされる瞬間はやってくる。それは一週間後かもしれないし、明日になるかも分からない。僕には孤独から逃れる術が必要に思えた。康太郎や佑介に頼ることなく、他の誰かを頼ることが必要に思えてならなかった。
僕の心の中に眠る欲情が愛を渇望して目を覚ましたのかもしれない。しばらくこの「女性に対する欲望」というものから目を背けていたが、この部屋に住まう孤独がこの欲望を起こしてしまったようだ。 
ここ数年、というより鬱を発症してから女性に対して抱く欲望が自分の中でグロテスクなもののように感じられてしまい、それ以来女性関係を限りなく断っていた。自分が「不快」という感情と隣り合わせになって以降、人を不快にさせてしまうことに恐怖心を抱くようになってしまい、とりわけ仲のいい友人関係以外は人と接することさえ遠ざけていた。
高校生の頃の様な性欲が少し懐かしく思えた。前ばかり見ていたあの頃の年相応の底無しの性欲がある方が今ではまともであるように思える。そのことを懐かしく思って、いつぶりか分からない自慰行為をした。本来こんな感傷に浸ってするものではなく、暇潰しの要領でする人間の生理現象もついこの前までは気持ち悪く思えていた。人を、とりわけ女性を不快にさせたくないという思いが強すぎるあまり、僕以外の人間が当たり前にするであろう性処理の行動も、自分が性処理をしていると女性に知られると思うと途端に怖くなってしまい、自慰行為もしばらく忌避していた。
数年ぶりの自慰行為は僕に快感を思い出させた。あまりに疎かにしていたためなくなっていたと思われていた自分の男としての能力は、死んでいた訳ではなく眠っていただけのようだ。あまりの快感に溜め息が出て、しばらく動くことが出来なくなっていた。自分の腹の上に出した精液を放ったらかしにしたまま数十分が経過したところで、途端に虚しさが押し寄せてきて、また孤独との距離が縮まった。

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