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蛆虫の歌 9

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 この一ヶ月は僕の人生史上の最低到達点と最高到達点を同時に記録する稀有な一ヶ月となった。もう少しもすれば長い冬を抜けて春一番が訪れる。これを僕に例えるなら、春一番という冬の置き土産は自殺未遂であり、それを抜けた先にある暖かな春の陽気は僕の人間関係の好転を表しているのかもしれない。
 現実の季節よりいち早く訪れたら僕にとっての春、人生史にも四季が反映されるのであればこの後にやがて夏が訪れ人生の最高潮を迎えることとなる。
 ありきたりにも冬の季節に生まれたが故にこの名を名付けられたが名は体を表すというのはあながち間違いでもないようで、僕の人生は冬の寒さとも比喩出来る冷遇から始まっていたようだ。学生時代の記憶には温かな記憶が点々とあるように思えるが、それはきっと春とも勘違い出来る冬が気まぐれに寒さを緩めたいくつかの日でしかなかった。
 季節というのは決して一直線ではなく、天の気紛れとも思えるような乱高下によって織り成される。冬の猛吹雪もあれば、北風の吹かない乾いた暖かさのある朝もある。春の桜が咲くようなゆっくりと時間が流れゆく昼もあれば、花冷えとも呼ぶべき花が散るような雪の日もある。夏の肌を刺すような太陽の日差しもあれば、嵐によって何もかもが吹き飛ばされてしまう日もある。秋の冬の寒さの到来を告げる突風もあれば、夏を恋しく思ったかのような湿った生温い居心地の日もある。
 きっと僕にとっての冬はこれで終わりを迎えたのだ。人生80年だとして、僕にとっての冬は他人より3年ほど長かっただけである。今まで冬の季節の乱高下に踊らされてきたが、これからは春の乱高下と僕は踊るのだ。
 そう春の訪れを告げるが如く、康太郎から一件の連絡があった。
「シフト出たわ!二人の空いてる日と俺の空いてる日合わせよ!」
春一番を抜けて暖かな陽だまりを感じさせるような連絡であった。何か良いことがあった後だとすぐに悪いことが起きるのではないか、と勝手に感じてしまうのは僕が冬の季節に生まれ天の気紛れの乱高下に踊らされ続けてきたという二十三年間の経験のせいであろう。
 しかし、季節は変わったらしい。
「最近新しいバイト入って少しゆとり出来たから先月より休み多く取れたわ〜。雪成はまだ休職中期間だろうから康太郎が都合良さそうな日に合わせて雪成の家行くのが良さそうかな。」
恐ろしく感じられるほどに滞りなく三人で集まるための日程が取り決められた。普段各々がマイペースであるために返信の速度などの都合によって中々先の予定がスムーズに取り決められることはあまり多くはなかった。音楽に対する熱量かはたまた学生時代の頃の記憶を取り戻し、三人で集まり遊ぶことの快感にどこか懐かしさを思い出しているからなのか。
 こうして二日後の水曜日に三人の集まりは予定されることとなった。自殺未遂をしてからの一ヶ月間、僕は孤独と上手く付き合いながらも孤独に苛まれる板挟みの生活を続けているが、遠くない未来に孤独を忘れさせてくれる日が予定されるのは有難いことであり、僕の心の中に同居している虚無感ともスペースを保つことが出来るのだ。体の健康を食事や睡眠で補うのであれば、心の健康は親しい人や愛する人との時間で補うのが最善策なのだ。
 今週の水曜日は康太郎と佑介と、来週の土曜日にはアイリ先輩と。毎週のように友人などと遊ぶ生活をしていてもいいのだろうか。世間の人々は毎週誰かと遊ぶことが普通なのだろうか。未来に誰かと予定を組むことで孤独から心を救うことが出来るのであれば、きっと僕が感じている孤独の正体は「暇」や「退屈」で構成された「怠惰」であり、決して自室に巣食う「虚無感」ばかりが心を蝕むわけではないらしい。

 孤独と踊る術は無数に存在した。音楽を聴くことや本を読むことは勿論のこと、歌詞を書き溜めたり世の中に対して思いを馳せたりする時間もまた、心を真の意味の幸福で満たすための、「暇」と「退屈」で構成された「怠惰」で出来た孤独から逃れるための人類の叡智とも呼べる術であり手段なのである。
 そう思って一人自室で歌詞を作ろうとしたが一口に僕の手に握ったペンが紙の上を走ることがない。何故だろうか。一作目は完全な初期衝動、二作目は生きる活力といった具合にテーマが存在した。ならば、テーマがあればまたこの手は進むのだろうか。いや、今まではテーマよりも先に言葉が出た。今までは己の内側に存在する言葉の数々が行き場を求めるようにして外へと出てきた。何やら胸の内でつっかえているものがある。きっとちょっと散歩したところではこの胸の内につっかえているものの正体を掴むことは出来ない。あの時、外を少し出歩いて言葉が出たのは、言葉が言葉を詰まらせていたからに過ぎなかったのであろう。じゃあ今僕の脳から身体にかけて繋がる部分に栓をしているものの正体とは一体…。
 この様な「何かをしているが何も生み出さない」時間を繰り返した。気休めに外へ出て街中を眺めたり空を見上げて雲の流れを追ってみたりしたものの、どうやらこの行為は付け焼き刃の気休めであったようで、胸の内につっかえる栓の正体を暴くことはいよいよ叶うことなく時刻は水曜日の午前零時を迎えた。
 もしや音楽に対する情熱が無くなってしまったのだろうか。しかし、何も生み出せないと分かっている行為をひたすら繰り返してはいる。どこか言葉にならない胸の内を焦がす様な情熱は失われてはいないようで、「音楽に飽きる」という僕が一番の危惧としていたことは起きていないようであった。
 喜ぶことも悲しむことも出来ない自分自身の状況に惑わされながらも、自らの健康のためにベッドに入って寝ることとした。どこかハッキリとしない、自分自身でもどのようにすれば現状を打破することが出来るのか分からない、どこか混沌とした煮えたぎらず混ざりきらないような感情が僕の隣に並んで横たわっている。何の確証もない漠然とした「寝れば時間が解決してくれるだろう」ということを考えているうちにいつの間にか僕は眠ってしまい、九時間の睡眠の後に清々しい朝を迎えることとなった。
 康太郎と佑介は十二時過ぎを目安に向かうと先程連絡が来ていた。現在時刻は午前十時、少し早いが朝の身支度を整えることとした。
 浴室に入って小窓から差し込む日光の彩度を見て、今日は快晴であることを確認する。天気はこんなにも気持ちよく晴れているのに、僕の心はどこかパッとしない。もはや歌詞を書いていることは天職だと思っていた矢先、たった三作目にして行き詰まるとは思いもしなかったが故そのことに少し肩を落とした。
 しかし、少しもすれば康太郎と佑介がやってくる。彼ら二人さえいればきっとこの根源の正体が分からない胸の奥でつかえている悩みもいずれ晴れる。僕はそれほどに彼ら二人を心の底から信頼していた。最早これは信頼というより依存と喩える方が適切か。

 連絡通り、十二時すぎになって二人がやってきた。どうやら今回は前回と違い二人とも明日は早い時間から出勤する様で、タイムリミットは終電までと制限された。前回より十二時間ほど早い解散になるだろうが、彼ら二人と時間を過ごせるだけで満足出来る。
「雪成歌詞出来た?今回その連絡なかったけど。」
康太郎が僕に問い詰める様に言った。
「考えてはいたんだけどさ。こうテーマとかも決まらなければ一つも言葉が出てこなくて。
申し訳ない。」
と僕は二人の顔を見て謝罪した。
 ここ二日間の僕の制作に対する葛藤を二人に語った。決して熱意を失った訳ではなく、正体不明の何かが胸の内でつかえていることを二人に話すと佑介はこう口を開いた。
「雪成もその時期が来たか。何かを作っている人間にとってそういった時期が来るのは仕方がないことではあるんだよ。いずれまた言葉が出てくるようになって歌詞を書けるようになる。時間が解決してくれると思うから、その期間は焦らず本を読んだり沢山曲を聴いたりして自分の中にインプットを貯めておくと、きっとまた今までの自分には無かった言葉が出てきたりして、今よりもいい歌詞が書けるようになっていると思うよ。」
と、佑介は僕を慰めるようにしてそう言った。すると次は康太郎が口を開いた。
「この前まで苦しい思いをしていた雪成にこんなことを言うのは酷かもしれないけど、もしかしたら雪成は『クリエイティヴに必要なストレス』みたいなものが足りてないのかもね。確かに今雪成はそう言ったものから離れるべき状況ではあるんだろうけど、何か芸術と言えるような作品を生み出すときの背景にはネガティヴな感情がつきものだと思うんだ。これは俺もそうだったんだけど、どんだけいいフレーズを思いついても、どれだけいい曲展開を作ることが出来たとしても、それを作った本人に宿る何か熱い思いみたいなものが無ければ全部陳腐なもののように聴こえてしまうことがあるんだ。」
と康太郎は作曲をする人間からのクリエイティヴについての考えも踏まえた上で僕に助言を伝えた。どうやら歌詞もデモとなる曲も「何かを作り出す」という意味においては何一つ変わらないようで、僕はその助言に対してただただ納得するばかりであった。そして、康太郎はこう僕に助言を伝えた後、更にこう付け加えた。
「確かに佑介の言う通りインプットを沢山して自分の中に貯えたり言葉とか作曲に関する勉強をすることも絶対必要だとは思う。これは俺も雪成も間違いなく足りてないからもっと沢山努力しなくちゃならない。けどクリエイティヴに必要な一番大切なものって言うのは怒りにも似た、煮えたぎるような何かに対するストレスだと思うんだ。その矛先は人間だって世の中だってなんだって人それぞれなんだって構わない。何か自分を衝動的にさせるストレスっていうものがきっと自分のクリエイティヴに対する活力になると思うんだ。」
 確かに僕が貸しを生み出す直前には何かしらの強いストレスがあった。一作目はそれまで長らく続いた鬱との闘いから本当の意味で解放されたいという強い欲望が、二作目の頃は自殺未遂をしてしまうほどの爆発的なネガティヴな感情がそれぞれ基となって歌詞に繋がった。自分が抱えたネガティヴな感情を踏まえた上でそれをただ怒りとして表現する訳ではなく、自らの形の芸術として表現するべきだと康太郎の発言を聞いて気づかされた。
 陰と陽、影と光。数え上げればキリが無いが、対を為す様な二つが真っ向から対立するときに爆発的なイノベーションが生まれ人は突き動かされる。僕はこれまで暗い経験や記憶を基に言葉を並べ、何か明るい気持ちになれる未来を見た時にそれがトリガーとなって僕にイノベーションをもたらし、感情と言葉の全てがリンクしてその結果が歌詞に繋がった。
 恐らく、僕の胸の内につかえているものの正体は「幸福」であるような気がした。本来人々から歓迎されるべきこの幸福の感情こそが僕の言葉を殺しているのだ。僕は幸せな時間を基盤にしていないのだ。常に僕を突き動かしてきたのは、自分自身から世の中まで全てに対して抱えてきた幸福とは正反対の昏い感情なのだ。これは歌詞を生み出す時だけではなく、そもそもの生活に根付いた一種の習慣であり、ここまで二十三年間僕を苦しめながらも寄り添ってくれた僕にとってなくてはならない「闇」なのだ。
 かといって、これ以上不幸になるのも嫌だった。今この三人でいる時間はたまらなく愛おしい。時間に限りがあるとは知っておきながらも、命尽きるまでこの三人とは踊っていたい。僕ら三人の空間に余計なしがらみや理不尽は一切存在しない。これまでもこれからも僕ら三人の空間は何にも侵されがたい絶対の不可侵領域であるべきなのだ。

 三人で話し合った結果、今日は終電までしか時間が無いためひたすら遊ぶことに決めた。ここで無理にストレスを思い出したところで良いアウトプットは出来ないだろうと考え、それであるならばひたすらにいい音楽を聴いて踊る方が遥かに有意義である。
 僕らは三人でマリファナをひたすらに吸いまくり、三人がそれぞれ持ち寄った曲を聴いては踊り狂った。ああ、なんだ。つい先月まで幸福とは縁遠かった存在である僕が、定期的に幸福を摂取している。不幸やストレスに苛まれ、負の感情と混ざり合った存在である僕がこれほどに闇を恋しく思うだなんて。これほどに苦しい感情が遠く感じるのは生まれてこのかた初めてのことではなかろうか。今では何が辛くて、何が苦しかったのか思い出せないほどにいる。神と呼ばれる目に見えぬ存在に僕は問いたい。
「私はこんなに幸福でいいのでしょうか。」

 目が覚め気がついた頃には二人はどうやら家に帰っていた。時計を見ると時刻は午前二時を回っていた。踊り狂っていたはずの時間の記憶の一切が存在しない。本当に彼らは帰ったのだろうかと部屋の隅々まで見渡したが、どこにも彼らの影は見えなかった。
 記憶の一切は無いが、体はまだ熱く先程までの幸福の余韻が余熱として残っているのを感じる。推測するに僕は相当楽しかった時間を過ごしたようで、これほどに記憶が残っていないことを惜しいと思ったことはなかった。
 どうやら彼らも相当に狂ってしまったようで、テーブルの上には彼らのものと思われるラッキーストライクとメビウスがどちらとも相当な本数を残して置き忘れられていた。普段吸っているハイライトメンソールを吸うのもいいが、折角愛すべきバカたちが自分たちのタバコを忘れて行ってくれたのだからたまには違うタバコも吸ってみるか、と僕の中の愛煙家精神がそう囁いた。
 僕らは大学一年生警音サークルで出会ったが、入学当時僕だけはタバコを吸っていなかった。しかし、彼ら二人は既に喫煙者であったため、よく二人がタバコを吸いに喫煙所へ行くのに僕もついて行っていたのが僕が喫煙者になるきっかけであった。その当時康太郎からよく貰いタバコをしていたが、その時康太郎が吸っていたタバコがハイライトメンソールであった。僕はタバコを吸い始めた大学一年生の冬から一回も銘柄を変えてはいないが、康太郎は僕と出会ってから何回も銘柄を変えているようで、このテーブルにある康太郎のものと思われるメビウスは康太郎が初めて口にしたタバコらしく、「色々なタバコを吸って飽きてを繰り返しても結局はメビウスに戻ってきてしまうんだよな」と何故か誇らしげに、メビウスを吸う度に康太郎はそう言っている。
 タバコは体に悪いというが少なくとも僕はこれに命を救われてきた。決してタバコを一本吸ったところで人生が変わるといったことは無かったが、本当にごく小さな悩みの種とも言えない小さなストレスは、いい音楽を聴いてタバコを吸えばどうでもよくなる。塵も積もれば山となるとはよく言ったもので、決して普段気にしない様な小さなストレスでも溜まってしまえばたちまち自分一人では対処することが出来ない化け物と化してしまう。タバコを吸って煙を吐くタイミングでその煙と一緒に小さなストレスは吹いて飛んで行ってるのかもしれない。
 それが今では小さなストレスすら溜めることが難しくなっている。他人から見ればちっぽけに見えるかもしれないが、つい一か月前までの数年間僕は自分の中に巣食う大きな「虚無感」という目に見えない化け物と常に戦っていた。中学校の頃に少しの期間いじめられていたことを思い出した。あの頃でさえ、僕を脅かしていたのは僕をいじめていたやつではなく、いじめてきたやつに対して何の返す力も持っていない自分自身の「無気力」だ。それが今ではどうだろうか。「暇」や「退屈」と言った「怠惰」から来る孤独もここ数週間は一切の鳴りを潜めている。何なら今僕の胸につかえているのは幸福という素材でできたフィルターであり、これからの未来に起こりうる「予測できる幸せ」が一切の不幸をそのフィルターが濾し取ってしまうのだ。
 このことの何が恐ろしいか。僕自身、世の中や人に目を向け、大小問わず様々な理不尽や負の感情を目にしてきてはいるのだ。それらが今までは自分の中のフィルターというものを一切介さずに直接心に繋げて自らの負の感情として、自らの行動原理や活力と言ったものにしてきたのに、今ではそれらを目にしてもフィルターが作動してしまい、一切の負の感情が湧かぬよう制御されていることが心底恐ろしくて堪らない。
 忌憚のない言い方をすれば、僕は真の意味でポジティヴに生きることを強制されているのだ。刑務所で長年生きてきた人間が、いきなり社会の出されても息苦しいという話と一緒な気がした。僕はついに自分が本来真にネガティヴな人間であることを自覚した。性格が明るいからポジティヴなのではない。逆に暗いからネガティヴというのも間違っている。これは「視点」の問題なのだ。自分が見ている世界が明るいのか暗いのか。先に見ているものが光ならば苦難という形で差してくる闇に対して立ち向かい、先に見ているものが闇ならば救済という形で差してくる光に対して手を伸ばすだろう。ただ、僕は後者の人間であるだけだった。しかし、今僕に差している光というのはきっと僕の手に余るほどには大きい。
 二週間に一回のペースで康太郎と佑介に会っているが、このまままた予定を決めたら僕はいつまでも幸福の奴隷からは抜け出せない。僕はもっと孤独と踊らねばならない、僕の胸に巣食う虚無感をもっと肥やさねばならない。そうでもしなければもう二度といい歌詞は書けないような気がしてならなかった。
 僕がそう考えていることを伝えると
「じゃあ二ケ月待つわ!」「俺も曲沢山溜めとくから雪成も歌詞溜めとけよ!」
と、佑介と康太郎からそれぞれ返信が来た。僕はそれに「了解!」とだけ返した。きっと佑介は「二ヶ月待つ」と言ってくれたので待ってくれるだろうし、康太郎も「曲を沢山溜めとく」と言っていたのだから沢山の曲作って溜めておいてくれるのだろう。かと言って別に約束を反故にされたところで僕は怒らない。また、集まることが出来ればそれでいいのだ。

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