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蛆虫の歌 3

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 創造と破壊、入力と消去の暴走の果てに何とか基となるプロットを完成させるに至ったが、どうやら僕が目指していたオアシスのような気高いリリックとはかけ離れてしまったらしい。それまでの経験やその人間から出る人間性といったものが自分とは何もかも違って、言葉が力を帯びるからこそ、僕だけでなく世界中の人間に感銘を与えるのだなと強く実感する。しかし、取り繕った気高さを表現できるほど僕に人間としての力は無いし、嘘はつきたくなかった。ありのままでいることこそ自分を最大限に表現できると自分自身を信じてやまなかった。

 それにしても、なんと幸福な時間であったことか。ここまで一つのことに没頭できた時間が僕の人生において存在したのだろうか。時計は午後五時半を回ろうとしていた。その間、一切の余計なインプットもアウトプットもなく一つのことをクリエイトしていたが、さながらタイムスリップのように時間を飛ばして没頭した。この約三時間、人生におけるたった三時間が僕の人生史上の最高を軽々と更新し、最も濃密な時間とさせた。そうだ、この後には夕夏と会う時間もある。今日ほど僕という存在のために作られた一日というのは存在しえただろうか。

 この約三時間ケータイを一切触っていなかったため、待ち受け画面にはアプリの通知なんかがびっしりと溜まっていた。その中に、夕夏からの連絡の通知が一時間前に届いていた。「ごめん、仕事の都合で一時間遅くなりそうなんだけど大丈夫?」

 元の時間が六時からであったから、一時間遅くなったところで何も問題はない。

「いいよ!ならどこかお店予約しとくよ」

そう返事を残すと、すぐに返信が来た。

「ありがとう~できるかぎりはやく仕事終わらせるように頑張るね!」

小さなことでも人に感謝できる人間は心地がいい。きっと夕夏は職場や友人関係などで重宝されるような人間であることが想像に易い。

 以前、康太郎を含め数人で行ったホルモン焼肉屋の予約を取ることにした。電話で直接お店に連絡をしたのだが、日曜日で混雑が予想されるため二時間までの制限付きという条件となった。お店の場所と時間、二時間の制限があることを夕夏に連絡を残して現在ちょうど午後六時。少し早いタイミングとはなるが、下北沢に向かうこととした。

 少しゆったりとした足取りで最寄りから一つ離れた駅へ向かう。このビル街の中の唯一空が開けた場所から差し込む夕暮れの朱とそれを飲み込まんとばかりの夜の昏さが、全面ガラス張りの摩天楼のように聳え立つビルという都会のキャンバスに朱色と黒のグラデーションを描いている。コンクリートジャングルのビルに包まれたこの街に差し込む刹那の芸術が網膜に焼き付いて脳の奥に刺激的な熱さが流れ込む。歩いていてわずか二,三分しか僕はこの芸術を観ることはできない。また少し歩くと夕暮れの光の射線を遮るように、ビルやマンションが僕と空を切り離す。お天道様というものがいるかは分からないが、陽の光が僕に届くうちは歩きタバコをすると悪い気がしてくる。陽の光の射線即ち人の目が届くところともなると、僕を隠してくれる高層ビルやマンションの数々にも頭を下げて感謝したくもなる。ここは街灯も少なく、陽の光もあまり差し込まなければ人の視線を気にするほど人通りも多くない。このように湿った陰に包まれた場所に休息を感じる度に、自分が日陰者であることを実感する。

 吸い終わるのと同時にまた少し拓けた場所に出る。しかし、ここには夕暮れの揺蕩うような明るさを通すような隙は無い。街灯が多く立ち並び、それを道なりに沿って進むと目的の駅に辿り着くが、この道こそが、この街に歩く人間を形成する。人間もまた人間が創り出した存在であることの再認識、自然を排他した人工物の領域が人々の足取りと呼吸を早くさせる。従順に街並みに従う度に僕の中の矮小な反骨精神が世の中の流れに逆らおうとするも、あえなく敗北し、先ほどよりも駅に向かう足取りは早くなる。こうして、目的の電車の一本前の電車に乗ることが出来る時間に駅に辿り着いた。少し早くはなるが、早めに行って先に席について待っているのも悪くはないだろう。そう考えながら改札を通り抜け、足早にホームに向かう。扉の前の並ぶ場所にベビーカーを押した三人家族が並んでいた。僕は右の列に、その家族は左側の列に並んでいた。電車が到着し、降車する人々を待ったのち、僕と三人家族のどちらが先に乗車するかでお見合いになった。一応の親切心で三人家族に先を譲ると、ベビーカーに乗った赤ちゃんが僕にそっと微笑んでくれた。僕の親切がこの小さな赤ちゃんにも伝わったのであろうか。この世の何にも染められていない純白の笑顔が脳に鮮明に焼き付いて離れない。その笑顔に対して返した僕の笑顔は何色だっただろうか。

 渋谷で乗り換え、井の頭線へ向かう。この僅かな乗り換えの道でさえも渋谷の人混みというのは困難にさせる。ハチ公口を出て、井の頭線の改札に向かう途中のエスカレーターというのは、人生の中で最も時間が遅く感じられる瞬間の一つであろう。人混みと大して遅くはないエスカレーターの鈍足さに苛立ちながら、改札階に上がるのを耐える。そこに待ち受けていたのは一駅で辿り着く急行ではなく鈍行電車であったが、少し早く家を出たお陰で、目の前にある電車に乗れば、少なくとも紳士面をすることが出来る時間に下北沢に辿り着く。自分の用意周到さと混雑する時間帯の人混みの煩わしさに板挟みにされながらも、本日の精神状態の良好さが後押しをしてくれるお陰か、前向きな気持ちを保っていられる。

 気がつけば夜の昏さが僕らの活動の終わりを示すが如く、夕暮れの朱色を飲み込んでしまっていた。もっと自然と癒着して生活していた人々からしたら、家に籠ってまた来る新鮮な朝に向かうための準備をして、床に入る時間である。しかし、僕らは現代人。特に都心なんかはまだまだその日の延長戦を望んでいるのか、街灯で街を眩いばかりに照らし出し、自分の体から絞り出すものが無くなるまで夜と遊ぶ。

 渋谷から電車に乗って、自分のプレイリストを再生して5曲目に変わったところで下北沢が近づいてきた。いや近寄っているのは僕の方だが、お気に入りの曲が流れた瞬間ともなれば少し拍子抜けしてしまうのも無理はない。

 時刻は午後六時四十分を回った辺りで下北沢に辿り着いた。以前、康太郎と食べて飲んだ店を忘れる筈もなく、頭の中にある鮮明な記憶の地図を辿って店に向かう。

「すみません、七時から予約していたのですが…」

「はい!お待ちしておりました!午後七時から2名様でご予約のキジマ様ですね。こちらの席へご案内致します!」

偶然にも空いていたのか、もしくは人気がないのか、隠れた名店とやらなのか。一秒たりとも待つことなく、予約していた席に案内された。そして、これもまた偶然と言うやつなのか、康太郎と以前来た時と全く同じ席に案内された。

「お連れ様はこの後いらっしゃる感じですか?」

そう言われて、わざとらしくケータイからの通知を確認する。そこには夕夏からの連絡もあり、そこには滞りなく仕事が終わり、七時にお店に間に合いそうという由が伝えられた文言が確認出来た。

「はい。多分七時には着くかと…。少ししたら注文します。すみません、先に灰皿を頂けますか?」

「かしこまりました!お一つで宜しいでしょうか?」

僕は小声ではいと発声しながら会釈をした。行きの電車や道中で貯めたチリのように積もった小山の様な鬱憤を吹き飛ばしてしまうようにタバコを吸った。「今日はいい日になる」という漠然とした、しかし強固な確証が待たされる時間も愛おしくさせる。LINEのやりとりという現代的な文通のみでしか、ここしばらく話し合うことが無かった幼馴染と久しぶりに会って話すというだけで胸が高鳴る。一体いつになったらやってくるのか、最初の一言目は何と話そうか。長らく感じていなかった緊張にも似た胸の騒めきと、これから先の数時間のことを考える楽しみにも似た胸の騒めきが、僕の中で融けて混じって脳や体に作用する。僕ら人間はこの類いの目に見ることの出来ないドラッグを定期的に摂取することで健康を得られるのかもしれない。一本のハイライトメンソールを吸い終わるうちに、緊張の楽しみの権化であり、実体そのものである夕夏がやってきた。

「おまたせ〜。遅くなっちゃってごめんね。」

夕夏は真っ先に席めがけて、迷うことなく席に辿り着いた。店員に席の場所を聞いたのか。はたまた、久しぶりであるのにも関わらず、今の僕の顔に昔の僕の面影を見つけることが出来たのか。聞くにはあまりにもせんのないこと詮無いことと思ったため聞かなかったが、後者であれば少し嬉しい思いが出来たのにと、数秒後に僕は少し後悔した。

「久しぶり〜、とりあえず一旦何か頼もうか。」

文字通り久しぶりに会うせいか、早く話がしたいという欲求がビートアップして加速する。

「とりあえず生ビールと豚タンと上ミノとハラミがいいかな。もしかしてもう先に頼んであったりする?」

「いや俺もさっき来たからメニュー見てなかったんだ。メニュー見て決めたいな。」

先に頼んでおく方が良いのか、はたまた来てから一緒に頼んだ方が良いのか。どちらの方が紳士ぶることが出来るのかと自分の中で考えた結果、後者を僕は選んだ。この結果が夕夏にとって好印象か悪印象かは分からない。これが自分なりの「紳士」の答えだ。

「じゃあ、俺も生ビールと…。夕夏が食べたいって言ってたやつ2人前にして貰おうかな。」

「同じってことね(笑)店員さん呼んで〜」

顎で使われることに気味悪くも小気味良さを覚えながら、たまたま近くを通りかかった店員に声をかけ注文した。

「ちょっとさっきまで仕事してたやつを上司に報告しなきゃいけないから少し待っててね。」

夕夏はそう言うと、いつも通りという慣れた調子で上司への報告文を作成して飛ばした。その頃見計らったかのようなタイミングで先にビールが二杯テーブルの上に置かれた。

「よし終わった!乾杯しよ!」

こうして僕の今日の最後の予定が始まりの合図を告げた。乾杯をして一口ビールを飲んだ後に、改めてじっくりと夕夏の顔を眺めた。というのも、メニューを頼んでいる間や飲み物が届くまでにいくらでも見る暇はあったものの、自分の中のタイミングで「久しぶりだね」と言ってからちゃんと顔を合わせようと決めていたのだ。

 その一言を言い終わって、最近のことなんかを話しながら昔の夕夏の面影を拾うように顔を眺めた。

「四、五年ぶり?元気にしてた?」

僕がそう言って、改めて「久しぶり」であることを再確認してみると、まず昔より綺麗になっていることに感銘を受ける。目立つ程とはいかないものの、元々端正な顔立ちをしていた顔が化粧や大人に近づいたことによる進化を遂げていた。元々あったえくぼが夕夏の表情を増やす1つの武器であったが、十代を超えて二十代に差し掛かって浮かんできたほうれい線がまた1つ表情を増やす武器となっていた。人間老いることを恐れてしまうが、増えていく皺なんかもまた人間の表情に色彩をつける飛び道具となる絵の具なのだと思うと、老いることも悪くないと夕夏の顔を眺めて思える忌憚のない感想であった。

「とりあえず仕事ばっかだよ今は(笑)たまに友達と飲みに行くくらいで…」

久しぶりに会う人間に対するテンプレートのような言葉が返ってきた。しかし、声色からは元気にやっているよと読み取ることがホッとした。僕はその空気を読むように「まあまあまあ」と言って宥め、夕夏の苦労を労った。

 こうして緩やかに2人の小さな同窓会は始まった。ここ最近あった日常の出来事や仕事の話、そんな他愛もない話が七輪の周りを囲んで行き交う。こうして話していると、普段僕が如何に中身の無く味気ない生活をしていたのか身に染みて分かる。このまま堂々巡りの他愛もない話を続けるのも幸せだろうが、僕の日常の話のストックが尽きてしまう。そうこうしている内に、夕夏の話を聞いてそれに頷く時間が増えてきた。

「それにしてもユキちゃん痩せたね〜。昔はそれ以上太るの!?ってくらい食べてたし太ってたのに…背も伸びてカッコ良くなったじゃん!」

内角に150kmのストレートをドンズバで決めるように鋭い褒め言葉が夕夏から飛んできた。実際、幼少期の頃僕は太っていて、野球を始めようものなら真っ先にキャッチャーにされるであろう体格をしていた。今思えばあの頃の方が健康的であった気がしてならないが、確かに客観的に見たら今の見た目の方が女性が好意を向けてくれそうな見た目ではあると、自分でも自覚している。

「いや夕夏も綺麗になったじゃん!というかこの前話してたけど彼氏いんじゃん、イヤミじゃんか!」

僕も言われた分返して、気色が悪くならないように且つ笑ってくれるように一言添えて返した。しかし、夕夏の顔は口角が上がりながらも視線は左下に向かった。そうすると「いや〜…」と一言溢した後に卓上のビールを飲み干した。まるで、一言溢した分を酒で補うかのようにも見えたその仕草の後にこう口にした。

「別れちゃったんだよね〜…。ユキちゃんに話してた彼氏。」

完全に僕は地雷を踏んでしまったようだった。その言葉を聞いた後に僕の口から思わず「えっ」という言葉が漏れた。

「いやいつ何があったのよ。」

漏れてしまった言葉を助けるように夕夏に質問をした。その答えを待つ前に僕もビールを飲み干した。

「ちょっと待って!その先も話したいけど、先にお互い頼むもの頼んじゃってからにしよ!」

確かに気がつくと、頼んでいた飲み物も食べ物も全て無くなっていた。

「俺、緑茶割りとハラミと豚タンがいいな。あとキムチも食べたい。」

「じゃあ私レモンサワーとトントロとレバー、あとはユッケにしようかな。」

そう言って先ほどと同じように、近くを通りかかった店員に声をかけ注文をした。

「で、さっきの続きよ。夕夏が付き合ってた彼氏そこそこ長くなかった?記憶の限りだと、本当に前に会った時も付き合ってた気がするんだけど。」

「そうその人で合ってるよ。確かに4年付き合ってたから、その記憶も間違ってないよ(笑)」

そう答える夕夏の顔には切なさに笑顔が混じったような表情が見て取れた。僕なりに推察するに、別れたのは最近なのだろう。

「いやどうして別れちゃったのよ。」

僕も少し真面目な声色で聞き返すと、夕夏の顔には、純粋な切なさだけが顔に浮かび残り笑顔が鳴りを潜めた。

 そんな矢先に注文していた肉の数々が運び込まれてきた。お互い少し不意を突かれたように空いた皿を重ねて、それらを肉が乗った皿と入れ替えた。そして仕切り直しと言わんばかりに七輪の上に肉を並べ、焼きあがるのを待つと同時に夕夏が口を開いた。

「今でも結構悲しいんだけどさ、お互い別に嫌いになってしまったという訳ではなくて…。」

そう言って夕夏はレモンサワー一口飲んだ後に続けてこう述べた。

「学生の頃から付き合ってて、ちょっとマンネリ化してはいたのよ。それでもそこまで三年半とかかな?付き合って、お互い共依存じゃないけど『お互いがお互いのことを本当に好きなのか』っていう状態のまま半年経っちゃってさ。正直な話、学生の頃とかお互い本当にお金なかったから、お互いの実家でずっとダラダラ過ごして、親がいないときはずっとセックスして終わるっていうデートしかしたことが無かったの。それでいざ私は四月で就職するってなって、ある程度ではあるけどお金に余裕が出来たわけじゃん?けど一人暮らしを出来るほどの余裕はなくてさ、で、あっちは大学卒業できなくて留年してっていう調子でお互い時間とかお金とかのバランスが全然取れなくなっちゃって。ここまで付き合ったなら結婚とかも考えるし、なんなら私が元カレの大学卒業まではお金の方は工面するからっていう気持ちではあったんだけど、もう手遅れでって感じになってしまって、これじゃお互い幸せになれないねってことで私から言い出して別れちゃった。」

 全て喋り切った頃には夕夏の顔には今日の初めの乾杯の時のような笑顔の面影は無かった。疲れ切った顔でまだ一口しか手を付けていないレモンサワーを全て飲み干した。率直に可哀想に思えて、僕も一口しか手を付けていない緑茶割りを飲み干す。そうして、夕夏には何も言わず確認もせずにまたレモンサワーと緑茶割りを注文した。しかし、その間があっても僕の口からは夕夏を慰めてあげられるような言葉は出てこなかった。

「まだ夕夏はその元カレのことは好きなの?」

思わずあまりデリカシーのない発言をしてしまうくらいには言葉に詰まった。

「う~ん。」

と言って、夕夏は数秒前に来たレモンサワーを一口飲んだ。

「正直私にも分かんない。確かにマンネリ化はしてたし、本当に好きなのか分からなかったけど、別れた後になってちゃんとすごい泣いたから付き合ってた当時は好きだったんだと思う。けど、別れた理由が現実的な理由すぎてなんか、自分の中で受け入れられてないっていうか…。長く付き合ってた分嫌いなところとかももちろんあったから、仮に別れるならそれに耐えきれなくなって別れるんだろうなとしか付き合ってた当時は考えてなかったの。けどいざ環境とかが変わったらこれだもん。なんだか遣る瀬無いよね。」

そう言って夕夏は焼けた肉を一枚タレにつけて食べ、肉と悲しみを流し込むようにしてレモンサワーを飲んだ。この話をし始めてから夕夏のお酒を飲むスピードが速くなっている。独り身になって、何かが抜け落ちた分を埋めるためにお酒を飲んでいるようにも見える。本人もお酒なんかでは満たされないことぐらいは分かっているのだろう。ペースが速くなってから、夕夏の楽し気な表情は影をひそめてしまっている。

「このまままともなデートの仕方も知らないで二十代終わっちゃうのかな。」

そう憂いを吐いた夕夏の顔は本当に切なかった。きっと本人は「分からない」と濁しては言ったものの、元カレのことが未だに好きで忘れられずにいるのだろう。ここまでを通して夕夏はただの幼馴染ではなく、立派に女性になったんだと感じた。それと同時に、僕もこの先待ち受けているであろう数々の現実を憂いた。

「しばらく辛いかもしれないけど、この先良いことあると願って今日はとりあえず飲もうよ。」

自分にも言い聞かせるように夕夏を慰めた。なんだかそうでもしなければいつか自分がその様な現実に苦しめられた時に、逃げ場をなくしてしまう気がしてならなかった。結婚、就職、金、病気、人間関係、僕を苦しめるありとあらゆる現実が脳内のプロットを箇条書きで埋め尽くした。今日、僕を突き動かした空元気もいつまで続くか分からない。それが終わればまた低空を滑空飛行するかのような無気力が、僕をまた現実に引き戻すのだろう。

「二軒目行く?」

僕がそう誘うと、

「いいよ。そのつもりでお金も下ろしてきたし。」

と、夕夏も食い気味に了承してくれた。ここまで話して飲んで、辛い話もしたけれど久しぶりに会う幼馴染との時間は間違いなく楽しかったと言えた。二軒目でまた軽く飲んで、少しでも上機嫌に帰ることが出来ればそれ以上今日において幸せなこともないだろうと思いながら会計を済ませ、一軒目の居酒屋を後にすることにした。


 少しの情けなさを残して割り勘でホルモン焼肉屋を僕と夕夏は後にした。店を出て外の風に当たると先程より風が冷たく感じられた。これは恐らく、完全に日が沈んだことで寒くなった訳ではなく、酒を飲んだことで体が火照って相対的に肌がそう感じ取っているのだろう。夕夏もどうやら僕と同じ様子で、どちらかと言うと僕より酔いが回っているように見えた。思い返せば、先程の店で7〜8杯ほど飲んでおり、夕夏は酒にそれほど強くないのか店を出る直前なんかは呂律が回っているのか若干怪しい場面も見られたような気もする。

「二軒目どこに行こうか。」

「安いとこがいい。ユキちゃんもそんなに余裕ないでしょ?」

なんだか凄く馬鹿にされた気がしたが、実際僕の経済状況は不景気であり、そう言ってくれるのを心のどこかで期待していた。少し道中を歩いていると、有名チェーンの飲み屋があり、僕らは顔を合わせてここにしようと指を差して確認して、店に入った。

「ご注文お決まりになりましたら、お声がけください!」

ここも呼び出しボタンが無いのかと少しがっかりした。ホルモン焼肉屋でも呼び出しボタンが無く、夕夏に頼まれて店員を呼んではいたのものの、自分から声をかけて店員を呼ぶのが少し恥ずかしくて、次行く店は呼び出しボタンがあるといいなと期待していた分いつもよりショックが大きかった。

「夕夏決まった?俺決めたよ。」

「私も決まった。」

夕夏も、僕が店員を呼ぶのが当たり前になったようにメニュー表をパタリと綴じる。近くに店員がいなかったため、少し大きな声を出して店員を呼んだ。

「すみませーん!」

と、僕が一軒目の店よりも大きな声を出しても店員が来ない。実際店内は日曜日のピークタイムを過ぎたとは言え有名チェーン店なだけあって混雑しており、飲み代を安く済ませたいであろう大学生の集団が深酒したのか大声でコールをし合ってはしゃいでいる卓もあった。しかしそれも杞憂に終わったようで、少しすると大学生くらいであろう若い店員が小走りで駆け寄ってきた。

「すみません大変お待たせいたしました!ご注文の方、お伺い致します!」

「僕は緑茶割りで、夕夏は何にする?」

「私ウーロン茶で。」

「あれ、お酒じゃなくていいの?」

「いや少し飲み過ぎちゃったみたいで、一回休憩したいな。」

先程二軒目に行く前に、「そのつもりでお金下ろしてきたから」と言っていたのはなんだったのか。僕は内心少しむず痒さを覚えつつも、無理矢理飲ませて面倒くさいことになることは避けたかったため、何も言い返さずに店員に「一旦これで」と言って、注文を通すことにした。

「かしこまりました!緑茶ハイとウーロン茶ですね!暫くお待ちください!」

快活な若い店員の声が、大学生の煩い飲み会とラジオの有線の喧しさの中に混じっていく。少し待たされはしたものの、清々しい接客態度によって悪い気分にはならなかった。

「ごめん、一旦トイレ行ってくるね。」

夕夏が突然そう言ってケータイを持ってトイレに向かった。そう言われた途端自分にも尿意が押し寄せてきた。気がつけば、僕も夕夏も一軒目の時からトイレに行っていなかった。

夕夏がトイレに向かったのを確認した後、トイレが男女で分かれていることも確認出来たため、僕も用を足すことにした。飲酒をしている時に排尿をすると、アルコールも一緒に抜けていく感覚になって、一息大きな溜息が出てしまう。手を洗って席に戻ると、まだ夕夏は戻ってきていなかった。そのため、LINEで「喫煙所行ってくるね」と一言残して一服することにした。

 外に喫煙所がある店ばかりになってきたが、ご時世柄仕方ないものの、冬の時期は如何にしてタバコを長く吸うか、如何に寒さに耐えてタバコを吸うかという自分の中の戦争が勃発してしまうためあまり好きではない。夏の時期だと真反対に、如何に外の暑さに耐えるかという話に変わってくる。そんな冬の時期に勃発する僕の中の戦争を俯瞰的に裁くのもまた僕だと言わんばかりに、慣れた手付きでハイライトメンソールを軽く叩いて一本取り出し、火をつけた。どうやら現状は長く吸いたいという勢力が優勢のようで、悴むような寒さに耐えながら吸い始めた。しかし、二口目を吸ったタイミングで今日は夕夏という非喫煙者と飲みに来たことを思い出し、あまり長く待たせてはならないと僕の中で判決を下した。そのため、四口ほど吸ったところで火を消し、この戦争の決着は痛み分けという形で幕を下ろすことになった。

 少し待たせてしまっただろうか。そう思いながら卓に戻るも、夕夏はまだ戻ってきてはいなかった。僕がトイレから喫煙所に行って戻ってくるまで四~五分はかかっていたはずで、実際夕夏に連絡してから四分は経っていた。中々に酔っぱらっていた夕夏の回っていない呂律が頭によぎり、心配になって「大丈夫?」と連絡を送った。 

 心配ではあるものの、トイレに入られてしまった以上直接確認に行く術はない。それでも少しすれば戻ってくるだろうという謎の確信のもと、しばらく待っていることにした。とりあえず一人でケータイでもいじりながら手元にある緑茶割りを飲み干す。飲み干した後、先程気を遣ってしまい満足に吸えなかったタバコを吸いに喫煙所に向かった。寒さと飲み屋で一人待たされているという苛立ちとトイレで潰れてしまっていないだろうかという心配からか、タバコを一本吸い終わるまで貧乏ゆすりが止まらなかった。吸い終わってまた一人卓に戻ると、夕夏から一件の通知が来た。

「ごめん、大丈夫じゃないみたい。」

この返事が来るまでにもう二十分くらいは経とうとしていた。心配ではあるが、安易に店員を呼べばもしかしたら飲み屋特有の掃除代を請求されるかもしれないことを恐れた僕は、

「とりあえず落ち着いたら出てきてもらって、ここら辺でお開きにしようか。」

と一言添えて待つことしか出来なかった。

 折角、僕史上最高の日になるであろうと意気込んでいたのに、結末が若干お粗末になってしまった。しかし、今日したいことは全て達成できた。確かに、起承転結で言えば「結」の字は不格好になってしまったが、それまでの起、承、転の字は最高傑作であるといってもいいだろう。これ以上、今日という日に多くを求めすぎるのは大野雪弥というこの世の失敗作のような人間にとって罰当たりというほかないだろう。今日という日がこのような結果になってしまうのだとしたら、逆に早く家に帰ることが出来るということに感謝しなければならないだろう。神も運もあまり信じちゃいないが、こういう時に徳を積んでおいた方が良い気もしなくもない。僅かではあるが二軒目は僕の奢りとして解散して、また次に夕夏と飲みに行く口実にでもしよう。

 ほろ酔いで緩慢に融けた僕の脳みそで、この時点で今日という日にケリを付けた。今までの人生で自堕落且つ無気力に多くを求めすぎた結果、幾度となく後悔をしてきたことが今になってやっと実を結んだのかもしれない。待たされて少しネガティヴになってきたところを、フラットな態勢まで持ってくることが出来るのであれば、これもまた悪くない経験と言えるのではなかろうか。

「待たせてごめんね、もうすぐ戻るよ。」

そう夕夏から連絡が来て、安否を心配する緊張からほっと胸を撫で下ろした。先に帰り支度を済ませいつでも帰ることが出来るように待つ。

「すみません、お会計お願いします。」

そう店員に告げるとすぐさま伝票を持ってきてくれた。心配していた掃除代だが、どうやら混雑していたということもあって見逃してくれたらしく、伝票には僕と夕夏がそれぞれ一杯ずつ頼んだ飲み物の料金だけが記載されていた。

「すみません、これだけしか飲んでいかなくて…。ご迷惑おかけしました。」

悪い気がして店員に謝罪をすると、店員も爽やかな笑顔を向けて

「いえいえ、ありがとうございます!またいらしてくださいね!」

と僕に一切の悪意を向けることなくお会計をしてくれた。あのような人間が成功するのだなとしみじみと感じながら、卓での会計であったためそのまま夕夏を待つことにした。こうして、今日という日を振り返りながら待っていると、トイレの扉が開く音が聞こえた。そっとそちらの方へ眼をやると、どうやら女性トイレの扉が開いたようだった。実際に無事な夕夏の姿が確認出来て安心していると、夕夏は誰かと電話をしながら戻ってきた。

 僕が「仕事?」と声を出さずに口を開くだけの質問をすると、夕夏は手を横に振って否定のシグナルを僕に返した。確かに仕事関係では無いようで、うっすら目には涙を浮かべても見える。酒癖が原因なのか、はたまた僕の知らないところで何があったのかは分からないが、様子が落ち着くまで暫くまた待つことにした。

 どうやら様子を伺っていると夕夏はかなり泥酔しているようで、二軒目に入店した時より明らかに顔も赤く、呂律の回らなさも加速していた。ピーク時の混雑も薄れたのか、飲み屋特有の数センチ先にも声が届かないような喧騒も減り、目の前の人間との会話に集中出来る時間帯になってきた。浅ましいことに、夕夏の電話相手との会話内容も聞き耳を立てれば容易く聞き取ることが出来る。

「…うん、席戻った…。今目の前にいるよ。多分もうそろそろ出ると思う…。」

詮索している態度を出すのもがめついと思い、ケータイを触りながら我関せずと言った態度を取る。しかし、話している相手がどう思考を巡らしても僕の知人である気がしてならない。

「今誰と話してるの?」

僕が痺れを切らして夕夏に尋ねた。すると、夕夏はちょっと待ってねと僕に合図を送って、電話相手に「ユキちゃんと変わるね。」と言い、僕にケータイを手渡してきた。僕は怪訝な態度を取りつつも、現状何が起きているかという真相を知るべく電話を代わった。

「もしもし…?大野雪成ですが…。」

「おぉ、雪成か。久しぶり、誰だか分かる?」

「えっ?純介か…?」

そうすると、電話相手はクスクスと笑って

「当たり(笑)。どうやらそっちは大変なことになってるみたいで。」

特徴のある少しハスキーな高い喋り声を聞いた瞬間、頭が果てしなく混乱した。今日という一日を思い返しても、何故純介と夕夏がこのタイミングで電話をしているのか理解が出来なかった。確かに夕夏も僕も純介も小学校と中学校を共にした同級生であり幼馴染であるが、今日話すことを全く予想していなかった第三者でもあった。

「いや久しぶり。そんなことより何があった?俺、何が起きてるか全然分かんないんだけど。」

率直に状況が飲み込めていないことを純介に伝えた。

「あぁ、夕夏から何も話されてないのか。」

「うん、どのくらい電話してたんだ?たった今、夕夏が席に戻ってきてケータイ渡されたところなんだ。それまで話してる相手が純介なのも知らなかったんだよ。」

「多分二十分くらいかな、夕夏大分飲んだみたいだね(笑)こっちもあまり話にならなくて、困ってたところなんだ。」

「そうか、それで結局何を話してたんだ?」

「電話越しでそれを伝えるのはちょっと難しいな。今下北沢にいるんだろ?俺今下北沢に住んでるから直接話さないか?お前とも久しぶりに会いたいしな。」

「そうなのか。じゃあこっちもすぐ店出るよ。」

「オーケー。位置情報送るからその公園来てよ。申し訳ないんだけど、俺明日仕事あるから飲みに行くのはちょっとって感じなんだ。」

僕の知りたいことは何も分からないまま、こうして電話での会話が終わった。電話が切られると夕夏に電話を返す前にすぐさま落ち合う予定の公園の位置情報が送られてきた。

「結局よく分からないままなんだけど、純介と今位置情報が送られてきた公園で会うことになったから行こう。大丈夫?歩ける?」

いつの間にか酔いが酷く回った夕夏を心配しながら、ケータイを手渡す。夕夏は何も喋る余裕がないのか、頷くのみで俯いている。

 酔ってフラフラの夕夏を途中介抱しながら、送られてきた位置情報の公園に向かう。外の冷たい空気を吸ったからか、それとも自分より派手に酔っ払っている人間を介抱しているからなのか。はたまたどちらもなのかは分からないが、アルコールで紅潮していた僕の顔も今ではすっかり素面に戻っていた。

 道中、夕夏とは一言も会話を交わすことはなかった。途中、足取りの覚束ない夕夏を心配するのに一言二言声をかけるくらいで、先程純介と話していた内容に関する会話は一切なかった。僕の心中は「何があったのか」という疑問ばかりが、膨張するガスのように目的地に向かう道中で膨らんでいった。

 何があったかは定かではないが、純介は小中学校で仲の良かった友人の一人だ。今日全く予想していなかった友人との再会の期待と、自分の目に映らないところで何が起きていたのか分からない不安は1:1で混ざり合う。少し歩いていると、自分の全く知らない下北沢の住宅街に入り込んだようで、酔っ払った夕夏の代わりにケータイを借りて道案内している僕が道を間違えてしまったか少し不安になった。しかし、その心配は杞憂であったようで目的地の公園が見えてきた。道に迷っていないかという心配が杞憂であったように、先程何が起きていたのかという心配も杞憂であってほしいと思いながら、冬の寒さで冷え切った木製のベンチに腰を掛けた。時刻は午後九時半を回っていた。当初、夕夏と早めに帰ろうと話していたことは何だったのか。気が付いたら、全く知らない閑静な住宅街の真ん中にあるような小さな公園に泥酔した幼馴染の女と何も喋ることもなく、ただ冷え切ったベンチに腰掛け共通の幼馴染の男を待っている。

「ごめん、お待たせ。雪成久しぶり。」

待っている間にタバコでも吸おうと火をつけたタイミングで純介がやってきた。彼とはたまに連絡を取ることはあったものの、実際に会うのは中学校の卒業式以来である。明日は仕事がある、と言っていた通り髪は短く整えられており、サラリーマンの鑑とも言えるような清潔感を身に纏っていた純介を見て、時がとても速く流れていることを実感する。

 確認するまでもなく元気そうな純介と、泥酔した夕夏、そしてこの年にしてはあまりに活力が失われた自分。十年弱の間にも人間それぞれの人生があったことを表す風刺画を描くなら、きっと僕ら三人が相応しいだろう。

「予想通りの感じになってるみたいだね。夕夏は大丈夫?」

そう純介が夕夏の方を見て尋ねると、夕夏は純介の顔を見ずにコクリと頷いた。一時よりは夕夏も酔いが醒めたらしく、水を一口ゆっくりと飲んだ。

「結局さっきは何があったんだ?夕夏は戻ってきてこの状態だったから、何があったかも分からなったし、今なんで純介とこうして会うことになったのかもよくわかってないんだよ。」

「確かに、さっきの感じだと話にならないだろうね。夕夏は雪成にあとでちゃんと謝っておいた方がいいよ。」

かなり気まずそうに夕夏が肩と顔を落としながら「ごめん」と一言僕に謝罪をした。

「いやまあ、そんな謝るほどのことでもないよ。俺だってたまに潰れちゃってダメになっちゃうときあるし。そういう日もあるよ。」

横で申し訳なさそうにしている夕夏を励ますことで、いつもダメである自分もついでに許した気になっている。昔から信条としている「人に甘く、自分にもっと甘く」という自堕落の権化のような信条がここで発揮されることとなった。

「いや…雪成に同情するよ…。」

夕夏への慰めに横槍を刺すように、純介が僕の肩をポンポンと叩いてそう言った。

「端的に言うと、夕夏が雪成のことをまるで性犯罪者かのように言ってたよ。」

あまりに予想していなかったことを単純明快且つ一言で告げられた。二軒目の店を出てからこの小さな公園に来るまでに今日という日を思い返しながら、あの時間に何が起きていたのか自分で予想を立ててみたものの、そんな予想の遥か斜め上をいくことが目の前の二人の間で繰り広げられていたらしい。

「いや、何があってそうなったんだ?」

思わず吸っていたタバコの火を慌てて消してしまった。この瞬間、僕の脳がかつてないほどフルスロットルで思考を加速させた。血の巡る早さを超えて、僕の脳内が今日の僕の行動全ての記録を調査し始めた。どうやら僕の脳内の調査員によると、全ての項目においてオールクリア。更には、全ての行動においてS評価という好成績であった。つまり、今日の僕の行動の全てを思い返してみても、何一つ性犯罪に繋がるようなことは覚えがなかった。

「一応確認するけど、そんなこと雪成絶対しないよね?」

清潔感のある風貌をしているせいか、純介がまるで私服警官にも見えた。

「いや、断じてしていないです。何なら、今日体に触れたかどうかすら怪しいです。」

まさか小中学校を共にした幼馴染に畏まって敬語を使うことになるとは思ってもみない事であった。今なら、痴漢の冤罪にかけられてしまった人の気持ちが痛いほど分かる。どれだけ自分に自信があっても、いきなりあらぬ角度からそのような容疑をかけられてしまっては慌ててしまうのも無理はない。


 場所は下北沢付近の繁華街から少し逸れた場所にある閑静な住宅街の中心にある小さな公園。二人分のブランコと砂場と水道、あとはわずか4つほどしか街灯もない小さな公園である。公園の回りを、一軒家と小さくはあるが新築であろう綺麗なアパートが囲っていて、日中ならまだしも陽が落ちてしまえば殆ど人目がつかなくなる様な場所で、成人の男性と女性が「性犯罪が行われたか」という議論が開かれようものなら、一瞬でこの空間は地獄、または修羅場と名称を変更せざるを得ないであろう。

 仮に僕が物語の主人公であったとするならば、この神の悪戯とも呼ぶべき今日という日の最後の采配を悲観し、呪っていたことであろう。しかし、二十三年間少なくとも培ってきた僕の負の功績が、この状況を悲観してはならないと囁く。

 確かにここで怒りの声を上げたところで、何かが好転するような未来も望めはしないだろう。夕夏にとって何がそうさせたのか。半泣きになるほどの酩酊状態は夢と現実の境界線を緩慢に融かし行くように破壊するのは、自分自身もこれまで幾度となく経験してきたことである。きっと、そのような錯乱状態で限りなく現実に近い幻を見てしまい、夕夏自身でも理解できないような行動に及んでしまったに違いない。後にこの状況を思い返し、他人にこの事実を話そうとしたら、人々は皆僕に同情をするだろうが、僕は何よりも先に夕夏に同情する。時に幻に惑わされることも、人間が正常に作動するために必要な税金とも呼ぶべき代償なのだ。きっとこれは、LSDを初めとした違法ドラッグで見る幻も、泥酔してしまってみるそれと本質的には近いところにあるのではなかろうか。

 「二人の時間で何があったのか、詳しく聞かせてよ。具体的に何があったんだ?」

小学校教師がよく使う有名な言い回しで「怒ったりしないから」というものがあるが、成人して逆に問題に対して何があったのか尋ねる側になってみて、何故そのような言い回しを教師がしたがるのか、何故問われる側に安心や信頼を求めるのか分かった気がした。

「俺は全部話してもいいよ。夕夏、それでもいい?」

純介からの了承は得ることが出来た。しかし、純介が夕夏に確認を取ると彼女を首を振って

「恥ずかしい…。」

と一言力なく呟いた。

 この状況を察するに僕が真相を知ることになれば、夕夏の名誉を傷つけかねない趣旨のことなのであろう。

「じゃあ、純介。少し離れて夕夏に会話の内容が聞こえないようにこっそり教えて。」

「優しいなお前。」

そう言って、十メートルほど離れたところで「僕が見ても聞いてもいない空白の数十分」の全貌が静かに明かされることとなった。 


 「いや〜」

純介が滞りなく僕に何があったか説明出来るように、脳内で整理するように、会話の口火となる声を漏らす。

「雪成も分かる通り、俺と話してる時の夕夏は泥酔しててボロボロだったんだ。話してるこっちも何回か聞き返さないと会話にならない感じだったんだ。まぁ、そんな感じで言ってる内容も勿論めちゃくちゃで。」

僕の脳内でもどんな感じで会話が進んでいたかどうか想像することが出来た。確かに今では少し落ち着いたとは言え、純介と電話で話していた時なんかは会話にすらならないであろうことは容易に想像することが出来た。

「まぁ、それに関してはお疲れ様…。本来俺が最初から介抱するべきだった筈なのに、ご迷惑をおかけしたみたいで申し訳ない。」

僕も純介に同情するような形で小さく謝罪をする。

「で、何があったか話したいんだけど、多分雪成めっちゃ傷つくと思う。それだけ理解して聞いてほしい。」

「分かった。何があったのか教えてくれ。」

もう既に傷つくようなことを言われていることは察することが出来たため、そう忠告してくれるだけで心構えを万全にする余裕が僕にはあった。

「夕夏が飲み屋のトイレから電話をかけてきた時、泣きながら電話をしてきて俺も何があったのか理解出来ずに困ったんだ。だから、俺が『どうしたの?』って聞いたら、『ユキちゃんに無理矢理キスされた』とか『凄い体をベタベタ触ってくる』って言ってきて。俺もびっくりしたよ。だから、さっき俺は雪成に確認をしたんだ。」

僕はそう言われるとなるほどねと言って平静を装ったが、落胆と理解が出来ないことによる驚きを隠し切ることは出来ずにいた。「なにもしていないのに」その言葉と言葉通りの思いだけが僕の精神を支配しきってしまった。

「けど、なんでまた純介にそのことを連絡したんだ?」

夕夏が電話した時から思っていた疑問を率直に純介に投げかけた。

「じゃあ、その話は夕夏もいるところでしよう。」

そうして、夕夏の座るベンチに戻ることとなったが、純介のこの発言と口調から何やら裏があることは察することが出来た。

時刻は午後十時を回った。今日はこのくらいの時間で帰ろうと思っていたが、予測不能の事態によって延長戦へともつれた。この時間に夜勤をしている僕はあまり後先のことは考えなくても問題ないが、日中働いている彼らは大丈夫なのだろうか。世の中が再び動き出す月曜日が目前に差し迫っている中、それを考えなければならない彼らが同点ホームランを放ったせいでこの時間までもつれ込んだ。

「二人とも時間大丈夫なの?」

そう二人に尋ねると、二人は顔を見合わせて「まあ、大丈夫」と大丈夫ではなさそうに呟いた。時間に余裕がないであろう二人が延長戦を望むのであれば、こちらとしては早く帰る理由を並べるのも難しくなってしまう。とりあえず終電までに帰ることが出来ればいいかと自分の中で現状を飲み込むことにした。

「またなんで、純介に電話したんだ?」

確かに、僕と夕夏、僕と純介の間柄で仲が良いのはお互いに既知の事実であったが、夕夏と純介の関係について僕は深くは知らなかった。

「私が悪いの。」

夕夏が突然そう口を開いた。

「いや、今日のことに関しては怒ってないよ(笑)もう安心して。」

僕が夕夏を宥めるように言うと、夕夏は「いやそうじゃなくて」と言い、言葉を続けた。

「私が純介のことが好きだったの。それが全部悪いの。」

今日僕は何回驚けばいいのだろうか。またしても予想しなかった言葉が返ってきて、諺通り開いた口が塞がらなくなってしまった。

「そのことについては俺からも少し補足をさせてもらうよ。夕夏ばかりにこの話をさせるのは男として不平等だから。」

純介が夕夏の立場や今の状況を見て二人で説明出来るようにフォローに入った。

「このことを雪成に説明するのは恥ずかしいし、今更話すのも申し訳のないことなんだけど、夕夏がまだ前の彼氏と付き合ってた頃、俺が夕夏に好意を持ってたんだ。というより、夕夏が元カレと付き合う前から好きだった。だから、俺らがまだ同じ中学校にいた頃の話になるね。けど、雪成も知っての通り高校に入ってすぐに夕夏はその学校のやつと付き合った。今となっては、なんで中学校を卒業する前に告白しなかったんだろうって後悔してるよ。」

純介は顔を赤らめながら恥ずかしそうに僕に自白した。

「いや、なんで俺に言ってくれなかったんだよ。」

「雪成に相談しようかとも悩んだけど、今思い返せば雪成と夕夏は凄い仲が良かったからそのことに嫉妬して雪成に話せなかったのかもしれない。そんな昔のことを今更謝るのも筋が通ってないけど…。ごめん。」

想像の遥か上をいくスケールの話になってしまい、僕は何も飲み込めずにいた。そんな昔にまでさかのぼる話だとは思いもしなかった。今更過去に抱かれていた嫉妬の話をされたところで許さないはずもなければ、許さないことに意味もなかった。許す許さないなんてどうでもよかったが、「まあまあ」と言って純介を許す態度を取って、話を続けさせた。

「俺も高校に入って結局二,三人と付き合ったけど、結局夕夏のことは忘れられなかったんだ。それで結局成人式の時になって、久しぶりに夕夏と会えるってなって自分の気持ちをもう一度確かめたんだ。やっぱり顔を久しぶりに見ると、中学校の頃の好きだった時と同じ気持ちが蘇ってきて。雪成とも成人式の時会ったけど、内心ソワソワしてたまらなかったよ(笑)。」

純介は酔っ払った時よりも顔が赤くなっている。僕は成人式の日、式そのものには出たものの、その後の同窓会には気乗りしなかったため出席していなかった。そのため、会うことが出来た人も限られ、純介とは近況を報告出来るくらいには会話出来たものの、夕夏とは会話どころかその日は会うことすらなかった。

 成人式の時にそんなドラマがあっただなんて思ってもみなかった。次々明かされる事実に感心していると、純介はこう続けた。

「成人式が終わって同窓会に夕夏も俺も出たんだけど、他に話したい人も沢山いたし、みんなで集まってる場でそういう雰囲気になるのも変だし、夕夏にも夕夏の友達にも悪いかなって思って、その時も自分の思いを伝えることは出来なかったんだよ。凄い情けない話だよな。同窓会が終わった後、家にベロベロの状態で帰って来て死にたくなったもんなあ。」

純介の顔は相変わらず真っ赤であり、もう顔を見ないでくれと言わんばかりに、僕と夕夏の二人から視線をそらしている。どうやら、夕夏もこの話までは知らなかったようで「そうだったんだ(笑)」と約一時間ぶりに笑顔を見せた。

「けど、なんとなく純介が私のこと好きなんだろうなっていうのは感じてたよ。けど二人も知っての通り、その頃付き合ってた彼氏がいたから見て見ぬフリしてた。」

夕夏がそう言うと、夕夏も純介も恥ずかしそうに笑った。

「ユキちゃんにもさっき話したけど、成人式終わって少ししたあたりから所謂倦怠期が来ちゃって。それで困ったときによく純介にどうしたらいいか相談してたの。けど、相談しているうちに今度は私が純介のこと好きになっちゃって。けど、純介にはその時彼女がいて。みたいな感じで気持ちのすれ違いみたいになってたかな。」

その話を聞いて今日の夕夏の全ての行動に納得がいった。

「なるほどねえ。純介は今彼女いるの?」

「一応ね…。けど、夕夏とその元カレの話みたいな感じで俺の方は倦怠期かな。逆に今は俺が夕夏にそういう相談をしてるっていう。なんだかずっと合わないね、お互い。」

二人の赤裸々な思いを聞いているうちに、なんだか自分がとても情けなく思えてきてしまった。現状、お互いの思いはすれ違ってしまってはいるが、心の中に抱いている恋情を恥ずかしがりながらも惜しげもなく相手に伝えている姿と、何も行動を起こそうとせず、自堕落に無気力に生きている自分の姿を重ね合わせて、自分の無力さと人間としての情けなさがくっきりと浮かび上がってきて、今にも泣きだしてしまいそうになった。

 「自分はいつもこうだ」と悲劇のヒロインぶって、毎回何も上手くいかないことを他人や環境のせいにしていることをまざまざと実感させられた。気が付けばまた、過去の自分が何も積み上げてこなかったせいで辛い思いをしている。

「ごめん、俺もう帰るわ。」

そう一言だけ言い残し、逃げるようにその場を後にした。夕夏も純介も止めようとしてくれたものの、逆に僕がいなくなれば少なくとも夕夏の終電までは二人の時間を過ごせるだろうし、その後何かが起ころうというなら僕は邪魔者になるだけだろう。いや、それすら建前で本当は幼馴染二人と心の距離が開いてしまったようで情けなかっただけかもしれない。

 自分が情けなくて仕方がなかった。考えれば考えるほど自分が如何に人間として生きている価値のない存在か。そう考えると涙が溢れて止まなかった。今日の全てを忘れたくて、駅に向かうまでにあったコンビニで泣きながら9%のチューハイを買った。あの時から、やっぱり何も変わっちゃいなかったんだ。ベッドに沈んでばっかで泣くだけしか感情表現をすることが出来ず、涙で失った分の水分を酒で補充して飲んだ分だけ涙をまた垂れ流していたあの頃と何も変わっちゃいなかった。

 帰りの電車に乗るころには涙は出ずに涸れ果てていた。イヤホンから流れる音楽の全てが僕を笑っているみたいで気持ちが悪くなって、電車でゲロを吐いた。泥酔してしまっていたようで、その後のことは何も覚えていないが、朝、最寄り駅前の公衆便所の個室で目が覚めた。時刻は朝八時過ぎ。出社する会社員の流れに逆らって、うつむきながらふらふらと家路を歩く。気が付けばポケットに入っていたはずの財布がない。

 夜明けは平等にやってくる。一日前に気持ちがいいと感じていた朝日も今となっては消したくなるほどに気持ちが悪い。巨大なスポットライトが僕を見つけて嘲笑うかのように、意地悪に照らし続けているようだ。世の中は平等をとのたまっているが、まずは僕が人並みに生きられるようにしてくれ。それが出来ないのであれば、全員に平等に僕が受けた恥辱を与えてくれませんか。この時、僕は初めて神にそう縋った。

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