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初めての出産の立ち会いは、アメリカだった

子供が産まれた。
3206 g、50.5 cmだった。

妊娠したようだ、と判明したのは夏頃だった。
感染症の診断キットの開発に関わっていたので、同様の仕組みを持つ妊娠検査キットについても、少し研究室で触れたことがある。
妊娠すると体内で産生されるタンパク質を検出するものだが、lateral flow immunoassayと呼ばれる数ある検査キットの中でも、最も感度の良いものの一つだ。
妻が実際に使用し、線が出た時のことは今でも覚えている。
本当に子供ができたのだと、ほぼ確信した瞬間だった。
使用後のキットを写真に撮っている妻の姿を見ると、さらに幸福感が増した。

妊娠の記念撮影。嬉しそうな妻。

初めて超音波検査をした日も特別だった。
偶然にも、その日は妻の誕生日だった。プレゼントとしてこれ以上のものはあるだろうか。
コロナのパンデミックにより、検査に同伴できる回数がかなり制限されていたので、この日も僕は外の待合室で待機していた。
動画で観せてもらったそれには、5 cmくらいの人間が、頭を右手でポリポリ掻き、寝返りまで打っていた。

衝撃的だった。
ほとんど事前知識が無かったとはいえ、この大きさの胎児がまるで意思を持っているかのように動いていた。
いや、僕にとっては、既に意思を持った人間だった。
家に帰ってからも、その動画を妻と何回も観た。
アメリカでは日本と違い、超音波検査を行ってもらえる回数がかなり限られている。
それを考えても、最高の誕生日プレゼントになった。

超音波検査にて。右手で頭をポリポリ掻いている。

また、同じ日に採血し、NIPT(新型出生診断)もしてもらえた。
後日、ポータルサイトで結果を確認すると、「染色体異常がある可能性は極めて低い」と書かれていて安心した。
さらに読み進めると、「性別:男」とサラッと書いてあった。
どのタイミングで性別を知りたいかは人によって違い、もっと後の時期での性別確認を望む方もいるらしい。
僕は血液検査で知ることが出来るのなら早めに知りたい、と正直考えていたが、あまりにもあっさり判明したので笑った。
「今のタイミングで知りたくなければ、メールを開かなければ大丈夫です」と事前に伝えられていたが、ほぼ確実に目に入るようになっていた。
この性別の伝え方に関しては、病院によっても差があり、きちんと同意を得てから共有する場合ももちろんあるらしい。
さすがアメリカ、多様性があって面白い国だ。

それからも、お腹が大きくなるにつれて色々な変化があった。

悪阻らしい悪阻がほとんど無かったことは幸いだった。
お腹の上部や腰、背中が徐々に痛みだし、可能な限り夜寝る前にマッサージなどをした。
食べるものも気をつけ、妊娠高血圧症や糖尿病にならない程度によく食べた。
赤ちゃんの誕生を記念して、ピアノで曲も作った。この曲を聴いて、彼は将来どんな反応をするのだろう。

チートデイとして食べた、Super Duperのハンバーガー。

以前妻が働いていたサンフランシスコのオフィスに挨拶に行き、再びパートタイムで働かせてもらえるようになった。
妊娠のことも考慮し、極限までフレキシブルに対応してもらえるようだった。
二人の上司には、結婚式で動画を送って頂いたことはあるが、直接会うのは初めてだった。
本当に良い人たちで、彼らが取り組んでいるプロジェクトについて僕にも説明してくれた。
こんなに素晴らしい人たちと働けて、妻は本当に恵まれている。

「安定期」という言葉はよく聞くが、傍から見れば赤ちゃんの成長が安定しているだけで、妻は所々身体の痛みを訴え、歩行や階段の登り降りも大変そうで、想像していた安定期とは異なるものだった。
妊娠後期では、寝返りですら一苦労だ。
それでもお腹の中で元気よく動き回る赤ちゃんに優しく話しかけている姿をみて、母は偉大だと改めて感じた。

妊娠中期の頃、低置胎盤の疑いがあると診断された。
胎盤が内子宮口を塞いではいないものの、その近傍にある状態をいうが、妊娠後期になるにつれて改善されるケースがほとんどだと言われた。
もし状況が改善されない場合、"C-section"になると伝えられた。
知らない単語だったので聞き返すと、帝王切開のことだった。
それから毎日のように、赤ちゃんに「胎盤を上げてね」と妻とお願いしていた。

妊娠後期に入る頃、僕の転職に伴いスタンフォード大学の病院に転院した。
超音波検査の結果、低置胎盤の状態はあまり変化が見られなかった。
ちなみに以前通院していた病院では、超音波検査時に担当者とのコミュニケーションが上手くとれず不安を覚えていた。
アメリカでは、超音波検査は通常の検査とは別に予約を取り、担当者も医師ではなく検査技師であることがほとんどらしい。
以前通院していた病院では、その検査技師からは細かい検査結果は全くと言っていいほど伝えてもらえず、後日医師から伝えます、と言われるばかりだった。質問しても回答を拒否され、こちらの不安に共感してもらえず、まるで機械に対応されているかのようだった。
しかし、転院後は検査技師がはっきり状態を伝えてくれ、さらに検査後に医師が時間を設けて詳しく説明してくれた。妊娠後期で転院することに対して不安も感じていたが、結果的には転院して良かった面の一つだ。

そして臨月に入って少し経つ頃、今度は"breech"になっていると言われた。
逆子のことだ。
今までずっと頭位だったのでその場にいる全員が驚いていた。
すでに赤ちゃんの体は大きく、逆子になるにはかなり動かないといけない。
確かにめちゃくちゃ動くな、とは思っていたが、まさか逆子になっているとは想像もしていなかった。

低置胎盤+逆子という状況は、帝王切開を意味していた。
低置胎盤があまり改善されていないとわかった段階で、予定日より3日早めて帝王切開が計画されていたが、逆子と診断された結果、さらに3日早く手術の予定が組まれ、明々後日に産むと言われた。
破水時などに大量の出血がある可能性が高いからだそうだ。
手術後の腹部の痛さや回復の遅さを考えると本当に可哀想だったが、それでも緊急的に帝王切開が行われるよりは遥かに良い。
ただ明々後日と急に言われて、妻は不安になり、帝王切開についてのクラスを手術前日に受講するなど、慌ただしく準備をすることになった。
僕はどちらかと言うと、産む日時が決まっている方が安心できる面もあったが、この数日間で体調が急変することも同時に懸念していた。準備を粛々と進めると共に、あとは当日まで何も起こらないことを祈るばかりだった。

出産する病院にて、マタニティードレスで記念撮影。

手術当日は、早朝6時30分出発だった。
出発の準備を進めていると、少しではあるが出血が見られた。
妊娠してからこの量の出血はおそらく初めてだったので少し焦ったが、手術日を早めてもらって結果的に大正解だった。
医師の判断の素早さ、正確さに感謝している。

病院には妻と赤ちゃんと3人で一緒に泊まるので、宿泊のための着替えやソファーで使う寝袋など、かなり荷物が多くなった。
妻を車に乗せる前に荷物を運ぶために外に出た。
この時の空の色がとても綺麗で印象的だった。
まだ夜明け前で薄暗いが、濃い青色とその先にあるオレンジ色が、とても澄んでいた。
きっと僕たちのこの先の未来を暗示しているのだと、自然と感じた。

病院に着いた後のサポート体制は、安心して身を委ねられた。
手術室に入るために服装を着替え、複数のナースや麻酔科医から手術の説明を受けた。
一つ一つの項目についてどのようなリスクがあるか、またそのリスクがどの程度のものなのか、丁寧に教えてくれた。
以前の病院ではあまり感じられなかったが、患者に対して精神的に寄り添ってくれていると心から思えた。

手術の時間になった。
手術室まで先導され、妻と寄り添い歩きながら向かった。
中に入ると、ドラマや映画で見るような光景がそこにあった。
と同時に、担当してくれる医師やナースの数の多さに驚いた。
これも、緊急ではない計画的な帝王切開のメリットだったのだと思う。
どんなことが起きても対応できる、万全の状態だということがひしひしと伝わってきた。

妻が手術台に座り、僕はすぐそばの椅子に座らせてもらった。
いくつもの管や線に繋がれている妻を見て、強く感じたことがある。
今まで僕たちが健康だったことに、感謝しなければいけないということだ。
妻も僕も、手術の経験はなく、入院もしたことがない。
これまで当たり前のように健康で自由に行動できていたことは、本当はとても奇跡的なことだったのかもしれない、と思った。
僕たちの両親、兄弟姉妹、そして連綿と受け継がれてきた家族の努力の結晶なのだと感じた。

手術が始まる直前に、その場にいる全員が動きを止め、一人ずつ自己紹介を始めた。
この手術の為に集まった人たちが、チームとして一気に結束したように感じた。
頼もしく思うとともに、僕たちにとってはこれから手術が始まる合図となった。

僕は妻の上半身側に座り、ナースと共に妻に話しかけ続けた。
妻は麻酔で下半身は何も感じていないが、腕から頭までは動かせるし、意識もはっきりしている。
特に麻酔科医が頻繁に状態をチェックし、異変がないか聞き続けてくれた。
どうやら手術は順調で、妻の容態も安定している。

しばらくしてから、ついに赤ちゃんの泣き声が聞こえた。
赤ちゃんの泣き声なんて大体どれも同じだと思われるかもしれないが、それでも何か特別な響きのような、唯一無二の楽器のような、そんな音だった。
泣きそうになったが、あまりにも元気に泣き続けているので、思わず笑ってしまった。

一人のナースが近づいてきて、「赤ちゃんの写真を撮ってきてあげるわ」と言ってくれた。撮ってもらった写真を見ると、まさにお腹から出てきたばかりの様子が写っていた。これもなかなか無い経験だと思う。
この病院では、産まれた直後から手術室内での撮影を許可されていたので、その後も一眼レフで写真を、スマホで動画をとにかく撮り続けた。

産まれたてほやほやの赤ちゃん。

複数のナースが泣き続ける赤ちゃんの体重を測ったり、その他身体に異常がないかチェックしていた。あるナースは"he is strong!"と言っていた。散々お腹の中で暴れる赤ちゃんのことを見てきているので、そりゃそうだろうと思った。
一人のナースは、なんとお腹から取り出した胎盤まで見せてくれた。
想像より遥かに大きく、これが赤ちゃんと妻を繋いでいたと思うと感慨深いものがあった。位置は低かったが、見事に役割を果たしてくれた。
そして、ついに"skin-to-skin"で赤ちゃんが胸に乗った時の嬉しそうな妻の顔は、いつまでも忘れないだろう。

術後の処置が終わり、これから数日滞在する部屋に移動した。
一家族につき一部屋を与えられ、シャワーも一応ついていた。ご飯も頼み放題らしいので、後で試してみよう。
また、産まれてからの間、僕たちと赤ちゃんが離れる時間はほとんどなかった。
これも想像と異なり、素晴らしい体験だった。

赤ちゃんはアメリカで産まれたので、アメリカ国籍を持つ。
もちろん日本国籍も申請するが、日本は単一国籍が原則のため、現時点では約20年後に国籍を選択するタイミングが訪れることになる。
最近のニュースでは、アメリカ、中国、インドはもちろん、他の国にも経済的な差をつけられつつある、と耳にする。
経済的な指標が全てではないが、客観的には元気が無くなってきている国だと映る。
20年後はそれがもっと顕著になっているかもしれない。
それでも赤ちゃんには、日本国籍を選択したいと思ってもらえるようにしたい。
美しい自然や文化に触れ、日本を好きになって欲しい。
日々を大切に過ごすことしかできないけれど、小さな積み重ねが、そんな未来に繋がっていることを願う。

赤ちゃんと妻が落ち着いたのは昼過ぎだった。
早朝の澄んだ空を見てから、長かったような、あっという間だったような、不思議な感覚だった。
車にはまだ大量の荷物が残っているので、一人で部屋を出た。
ふと窓の外に目を向けると、中庭にはとても綺麗な桜が咲き溢れ、雲ひとつない青空が僕たちを迎えてくれた。

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後日、完成した曲と共にミュージックビデオを作成した。
純粋で、逞しく、自律した人生を歩めますように。

Hello, Baby (Music Video)

ミュージックビデオのワンシーン。背中をトントン。

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