TENETについて(上)EMITについて


 
 
 TENETについて少し書いてみたいと思う。書くといっても大したことではなくて、ちょっと思いつきを整理する程度のことにしかならないだろうが、恐らくは他の人が持っていない切り口でしゃべるだろうから(少なくともググった限りでは出てこなかった)ゼロよりは意味があるものだと思われる。
 
 今こうして書いている僕の家はエレベーターの工事や謎の敷設工事などが重なっていて、昼間だというのにひどくうるさい。油断をするとドリル音が鉄骨ごと響いてきて座っている椅子に伝播した振動が皮膚の表面を刺激してかなり不愉快である。こういう環境で文章を書くためには一筆書きするしかない。または一呼吸書き。こういう書き方をするのは久しぶりである。僕は実は昔はよくこういう書き方をしていたので、本来的である。思いつきを書くというのはこういうことだ。Twitterが登場したことによりこういう書き方が失われたとも言える。とはいえ、一部のプラットフォーム(たとえばnote)を見るとこういう書き方を、もっと言えば気楽な書き方をしている人が増えたような気がしている。書くことの重さが減っていて、とてもよいことだと思う。
 
 書くというのは狂うことだが、狂っているときにしか書けないとも言える。つまり一呼吸で書くというのは、狂い終わる前に描き終えるということでもある。狂いが終わると虚無しかない。あるいは自分で発音することだけが阻害された塵の中にいるようなものだ。もっとも諦めて一呼吸つくとノックのようにダクトから金属を殴打する音が聞こえてくる。ここは地獄だ。
 
 この件については僕はラジオでも話そうと思っている。正確に言えばすでに一部は話したのだが、そのことについて知っている人はほとんどいない。その理由は、ラジオで話したわけではなく僕がYouTubeをやろうと思っていて、顔出しで一発映像を撮ってみたりしていて、その一回目として選んだネタがこのTENETについてーー正確に言えばTENETそのものではないーーだったのだ。しかし、映像の撮影と編集にはあまりにも面倒がつきまとい、中途半端にPremiereの中のプロジェクトに情報を封印したまま今ここに至っている。それでも何かを話したいと思って公開しだしたのがnoteの音声である。ラジオだ。番組名はまだない。
 
 番組名はなくとも話す人と話題さえあれば配信はできる。これは一つの真理として僕の背中を押したが、一方、名前と存在についての問題を改めて考えさせることになった。我々は名前を持たない存在に向かって呼びかけることができない。しかたなく、「君」とか「あれ」とかいう代名詞を用いることになる。しかしそれを使えば指示に近いことができるようになる。素晴らしい。ところが「君」とか「あれ」という概念は、実はある現実に極端に依存している。それは言葉以外の器官、具体的には視覚に強く依存している。ついで聴覚や触覚など。見えているが誰かわからないもの、何かわからないものを仕方なく「君」「あれ」などと呼ぶ。それは逆もまた然りである。「君」とか「あれ」という言葉が何か他の何かでないものを示していることを確信するためには見たり聞いたりして捕捉されなければならない。ーーとはいえ、そういうことをしなければそのものは存在しないということでもない。名前がなくても存在しているものがある。一方、存在を示すためには名を流通させるしかない。これからしようとしているものはラジオである。番組名がまだない。そしてーーTENETの主役たる男にもまた名前がない。
 
 別にこのような前口上をTENETについて語るために必要な準備として始めたわけではない。ただ僕が何かを書こうとしたときに必要な露払いとして行われただけの思考がたまたま作品の骨格とリンクしただけのことだが、当然こういう幸運がもたらされる場合、その後に書かれることも概ね真理を突くということになるというのが世界の流れというものである。
 
 さっきからドリル音がまるでギターのように音階をもって奏でられていてまるでまだ映画が続いているかのようである。あるいは微妙な振動がベースのようにも聞こえてきて、ブンブンと振り回されるノーズの動きその残像が見えるようだが、本来そのような風景はこの部屋にはない。幻影である。書くことはここには無いものを見るということである。ドリルが穴を掘削するように、ここに別のどこかへの通路を掘削する。

 薬指の震えを感じながら幾度となく叩くエンター。まだ話は始まっていない。
 
 TENETは異常に複雑な話だった。はっきり言って内容はほとんど全くわからない。振り返ってみると要約的内在的再構成が可能だが、再構成すると消滅する映画という感じがする。これには2つの意味がある。僕がまだ一回しか見ておらず、そして場面を、その意味を全く理解できないまま見てきたことにより、再構成の権利がないと思っているということだ。あるいは、再構成することによって、この、謎めきすぎて理解不可能と思っている経験が消えてしまうことに対する憐憫があるのもしれない。両面的である。もう一つは、これから話すこと自体がその要約的再構成であってしまうのだが、この映画自体がいわば「対消滅」をテーマにしているからだ。ゼロを中心とする数直線を想像してみよう。数直線は右にプラス1万キロ、左にマイナス1万キロあるものとする。広大だ。ところでこの線分をゼロを中心に折り曲げてくっつけてみよう。この線分は処理の都合上見えることになっているが、データとしては厚みを持たないものとする。そうすると折り曲げたらプラス軸でもマイナス軸でもない方向に一つの線分を生み出すことになる。これが我々観客の視聴経験に相当するものだが、その視点が外的だ。数直線を見ていたままの視点で見るとき、ここにはもはや一つの点しか存在しない。つまり、ゼロしかない。そういう話である。まあ、間違っているかもしれないが、とりあえずイメージだけを伝えるとすれば、TENETというのはゼロを展開した話である。TENETの中心にはNがある。これをNullかNeinだと思えばいい。鏡写しに展開し交錯するTとE。もちろんこんな発想は見るまでは生まれなかった。この文章はすでに結論を先取りしつつある。
 
 僕は疲れてきた。最近の場合、それでも公開しないよりはマシだろうなどといってこの当たりで一部の文章を提示し、そしてそれが完成しないということを繰り返してきた。書かれたものは書ききるしかないのだ。もちろん全ての文章をそのように扱ってきたわけではない。しかし、その時書かれるべきものというのは、その時書かれるしかないのだ。そのことは恐らくものを描いてきたものであればある程度はわかることだろう。推敲を否定しているわけではない。むしろ推敲されるべきものをこのようにして生み出すのである。計画的にものを書くあらゆる人を尊敬する。アーメン。そして滅びよ。
 
 TENETについては恐らくは20日は前に多くの人が多くのことを語っただろうがまだ見ていない。恐らくまだ見る必要もないだろう。僕がここに吐き出したものを精査してからでもほとんどのことは遅くない。むしろ今必要なのはEMITについて考えることだ。と言ってもこの世界でEMITについて知っている人などほとんどいないだろう(、と思ったのにEMITと似ていると言ったらすぐに食いついてくる人がいるからネットは怖い)と思うのでまずはその説明をしないわけにはいかないだろう。
 
 テネットと言えば。
 
 時間が逆行する仕組みが登場し、主人公らしきものが第三次世界大戦を防げと言われ、そのキーワードが「テネット」とされる。だいたいこのくらいが上映二ヶ月ほど前に見たトレーラーで示されていた情報である。こうなってくるとああ『メメント』と『インターステラー』を足したんだね、そして今度救うのは世界か、やばい、めっちゃ面白そうノーラン、と当然のようになるわけだが、その感想と同時に思ったことが「エミットに似ている……」だった。もしかしたら他のものに似ていると思うべきなのかもしれないが、私は教養がないのだった。というか、私にはちょっとEMITは特別な作品なのだった。
 
 エミットとは何なのか。辞書的な説明も必要だろうがこれは1994年ぐらいにコーエーから発売されたPC9821用のゲームで、なぜかわからないが後にあらゆるプラットフォームに移植された。あらゆる、は言い過ぎかもしれないが、かなり多くのゲーム機で遊べるようになった。いわゆるコンシューマー機に移植されなかったら僕がこの作品に出会うことはなかっただろう。内容は英語学習ソフトである。

 もう一度繰り返すが、英語学習ソフトである。イングリッシュドリームシリーズという触れ込みだった。またコーエーとしてはジャンルとしてエデュケーションとエンタテインメントを合体させた造語”エデュテインメント”ということを謳っていた。まあ、こういうファミコンで英語を学ぼうみたいな切り口はたしかEMITに限ったことではなかった気がしている。確か進研ゼミでファミコンで学ぶ英語教材みたいなものを配っていたはずだ。

 もっとも英語学習ソフトであるというのは冷静に考えるとゲームの目的を示してはいるがゲームの形式を説明しているとは言えない。もっと言えば通常の意味でのジャンルを説明しているとは言えない。ゲームでジャンルといえばRPGなのかアクションなのかボードゲームなのかスポーツゲームなのかレースゲームなのかパズルゲームなのかとか、つまりはそういうことである。
 
 果たして本作品はADVである。みんな大好きテキストアドベンチャー、ポートピア殺人事件に端を発し、その先でノベルゲームやら美少女ゲームを生み出していく、あのADVである。しかも、ビジュアル部は静止画ではない。アニメーションである。ところで本作は英語学習ソフトなので、発音が聞こえなければ意味がない。ということでフルボイスである。フルボイス。しかも英語だけフルボイスかと思いきや日本語でも表示があってしかもフルボイスである。1994年でこの道具立て、怖ろしいものがある。そして、選択肢がない。
 
 もう一度繰り返すが、選択肢がない。そう、みんな大好き「ひぐらしのなく頃に」と同じ形式である。どういうことだろうか? 別にどうもこうもなくて、英語学習ソフトであるから選択肢などはいらんと判断したともいえるし、アニメでフルボイスとなると選択肢などを搭載して容量を倍加する余裕などなかったのだとも言える(実際本作は三部作なのだが驚くほどプレイ時間が短い)。

 選択肢がないのにどうしてADVと言えるのだろうか。もっとも公式にはADVと呼称されているわけではないので、これは僕が言っているだけなのだが、絵があり、テキストボックスがあり、それを読み進めていく中でミステリめいた物語が進行していくので、これは僕にとってはADVなのである。

 文章というのは集中力で書くしかない。そうでなければ連続性を諦めて最初から断片的なものでしかありえないということを受け入れるしかない。こういうことを言うからにはこの直前に文章が分断されているということを示唆しているわけだが、それでもそういうことを書くのは僕がわずかな絹糸のような連続性で断片を紡ぎたいと思っているからである。息が切れるというのは事切れるということで、事切れるということは言葉が切れるということだ。今回は細い糸を手繰ろうと思っている。

 分岐をもったADVの場合はほとんど見えない糸の存在を感知して正しい方向へと進んでいくことが一つの行動指針になる。分岐をもたないADVは言うなれば選択済みの物語を再生している、と言える。どうして再生していると言えるかというと、物語をまた初めから読んだとしても、表象としては同じことが現象しつづけるからだ。全ての現前は再現であると確かプルーストが言っていたように記憶しているが、小説(あるいはマンガやアニメや映画であっても)などの表象がそうであることはこのようにして単純に確認できる。もっともここに人間の認知という不完全な尺度を加えると急に話が変わってくる。目眩。20年前に読んだ本も今読んだ本も同じものであるはずなら同じように書いてあるはずなのに。Memento Mori。

 まあとにかく話を戻そう。EMITというのは英語学習を目的にしたアドベンチャーゲームで、三部作からなる。基本的にはお話を読んでいくという形で進行するので、これをゲームと呼ぶのはあまりにも先進的な気はするが、クリックもしくはエンターもしくはボタンを押すという形でインタラクティブなのでゲームなのである。なぜボイスが日英ともに存在しているかというと、文章を日英ともに用意したから勢いでつけてしまっただけな気もする。二ヶ国語になっているのは学習上必要だからである。この調子で色々と説明をすることも可能な上、驚くべき情報がひしめいているのだが、それについては後に投稿するだろうラジオに任せたいと思う。
 
 さて肝心の内容だが、これは女子高生の田中百合という少女が信号待ちをしているときにある老人に話しかけられるところから始まる。今日が何月何日かを問いかけ、それからある時計屋の場所を尋ねるのだった。この入りは要するに英語の参考書でよくある「今は何日ですか?」「時計屋はどこですか?」といったような、日常生活で本当に使うことがあるのかこんな定型的な文言を、といった質問文を実際に置いているものとも言える。どんな記憶喪失者が登場したもんなんだよ、と思わざるを得ないわけだが、この入りからまともなお話を作ろうとした結果、記憶喪失者か時間旅行者かを登場させざるを得なくなってしまったと言えるだろう。大雑把に言えばこの老人はそのような存在である。少し会話をしたあと百合は立ち去るのだが、そこで後ろから「エミット」と呼びかけられる。
 
 エミットとは何なのだろうか。またも結論を先取りすればこの言葉にはほとんど意味がない。このような言葉の使われ方はテネットとほぼ同じである。それから発音も似ている。僕がエミットを思い出したのはこのような無意味な符号としての使われ方と、そして発音からである。また、作中で英語を学ぶというのに、エミットについてはほとんど意味がわからない。こういうところも倒錯している。EMITは意味としては「放つ」とか「発する」とかで、繋がるというようなイメージがある。語形変化させるとemissaryというものがあり、これは「使者」という意味を持つ。とはいえ、そういう含意についてはほとんど説明も解釈もされない。ただの記号に近い。
 
 ではどのような機能を持った記号なのか。それを説明するためにはお話のなりゆきにも触れる必要がある。田中百合は一ヶ月後、あの信号待ちのときにまたも同じように同じようなことをある30代くらいに見える青年に尋ねられる。プレイヤーである我々は「あの老人と構図が全く一緒だ」と感じるはずだが、百合は全く気づかない。青年は「また会ったね」という感じで話しかけてくるが、ちんぷんかんぷんだ。だがなんとなく青年の外見が好きだったという百合は(そんなことでいいのか)そのまま喫茶店に入って話を詳しく聞くことになる。聞くと、なんと青年はやはり先に登場したあの老人だったということがわかる。しかしなぜ容姿が変わっているのか。実は彼は別の星の住人なんだが、あるトンネル装置を使ってこの星にやってきてしまったのだった。その星は地球そっくりなのだが、時間の流れが逆転している。人は老人として生まれ、年を取るごとに若返っていくのだ。
 
 とはいえ、一ヶ月で若返るのは早すぎる。それを聞いたところ、異星では一日一年の速度で時間が経過するという。だから彼は一ヶ月で30年分若返ってしまったのだ。なるほどそういうことだったのか、とフィクションに慣れきった我々は納得するのだが、百合は納得しない。異星人であることはおろか、時間が一日一年経過するなんて! これだけ畳み掛けられると何もかも受け入れてしまいそうだが、百合はこの話を信じずに別れることになった。ただ、この元老人はーー名前をケンという。英語教科書にありがちなネーミングだーー、このまま後一ヶ月も経ってしまったら自分が消滅してしまうとわかっているから、なんとしても帰りたいと思っている。ところが自分がこの星にやってくるときに使っていたトンネルは壊れてしまった。ただ、もう一つのトンネルが時計屋の地下にあることは知っていた。だから時計屋の場所を尋ねたのだ。百合は、その時計屋はもうなくて、今は本屋になっている、ということを答えるのみだった。
 
 それから半月強ほど経って、日常を過ごしていた百合のもとにある少年が現れる。ケンである。言った通りに若返っていた。さすがにヤバいということで百合はケンとともに本屋の地下に潜ることを決断、探索する。すると進入禁止の部屋の中に、棺のような扉があることを確認する。これこそがトンネル装置だった。この扉を開けるためのキーワードがEMITだった。看板にその言葉を刻むとケンは開いた扉の中に入る。無事帰れそうである。ケンはそこで、なぜ百合を尋ねたのかを言う。それは百合が自分の母親に似ていたから、ということだった。ここまでが第一部「時の迷子」のなりゆきである。
 
 第二部は「命がけの旅」と題されている。何が起きるかというと、百合そっくりのケンの母親である「ジュリア」がこの星にやってきて、この星で百合に成り代わろうとするのだ。百合は、友達の一郎が、自分と会ったという話をするにつけ、ドッペルゲンガーのような存在が現れたことを察知する。もしかしたらその秘密はあの扉にあったのかもしれないと探しに行くと、そこには自分そっくりの存在がいた。ジュリアだ。彼女に引き込まれ、百合は穴に落ちてしまう。そして別の星に行くのだ。その星ではトンネルの出口は警察が軍が管理する廃墟に置かれていて、無許可の星間移動は違法だとされ、逮捕されてしまう。現地のケンが自分の身元引受人として助けてくれたが、この星では一日一年の速度で時間が経過するため、一刻も早く帰らなければならない。ケンのサポートを受けつつ、命がけで廃墟に侵入し、百合は地球に帰還するが、その最中に銃撃を受けて負傷してしまう。まあ、行って帰ってくるだけの物語だから、なりゆきにはそんなに情報がない。問題はなぜジュリアがこちらの星に来てしまったのか、だ。
 
 第三部「私にさよならを」はその謎に迫るものだが、率直に言って脚本は謎というか空白が多く、その心情はかなりの程度解釈によって補完しなければならない。ケンの移動によって星間移動が可能だということを知ったジュリアは、それを真似して地球に来たようだった。しかし君の星ではこれは重罪なのでは? と考えると、なぜこんなことをしたのかの本当の必然性がわからない。ただ、彼女はこの異星旅行で一郎に出会い、彼に一目惚れしてしまって、だからこの星に来ることを決めたのだった。そして、この世界のカウンターパートである百合を自分の星に入れてしまえば、成り代わることができる。そうしてずっとこの星にいようと思ったのだった。
 
 だが、異星人は地球では時間経過が加速しているのではないか? この当たりの論理関係も正直判然としていない。もしかしたら百合を殺せば、唯一の自分として同じ時間を生きることができたのだろうか。それとも、都合よく星を移動しながら時間をやり過ごそうとしていたのだろうか。わからない。ただ、ジュリアの百合のモノマネは家族や一郎によって看破され、そのままではいられなくなった。そして、ジュリアは戻ってきた百合を殺そうとした。多分殺そうとしたのは私怨だったような気がする。どうしてお前ばかり、という。百合の殺害に失敗したジュリアはどこかに消える。だがこの星では時間が早く経過する。ジュリアの外見は20歳程度。一月も経たないうちに存在が消滅してしまう。それを察知してやってきたケンが母親を探し始めた。そういえばこいつは少年まで若返った(年老いた)はずなのにすっかり元に戻っている。恐らくは元の世界に行けば年齢がリセットされるのだろう。都合がいいと言えば都合がいい。
 
 さて、ある日、少年と同じようにこちらを見ていた少女に出会った。少女というか幼女だ。もちろんジュリアである。百合が、ジュリアを引き寄せるために、意図的に一郎といちゃつきながら歩くというお粗末な罠を張ったのだが、まるでその通りに彼女は現れた。こういう場合、ジュリアは罠にかかったというべきではないだろう。むしろ、百合が罠を張ったことにより、再び現れていいという作劇上のシグナルを得たので、再登場したのだと言える。これだけ若返ると普通の人には彼女がジュリアだとわからない。百合は一郎に「あの子を抱きしめてあげて」という。そして一時だけ二人は包容し、そして別れ、ケンは彼女を連れ帰る。一郎はこのことの意味がわからず、肩に残る涙の跡をいぶかしむだけ。そして本屋は取り壊され、異星とのやり取りはできなくなった。百合はその工事現場を通り過ぎながら、最近エステにハマっているという友人に「あまり若返りすぎると、誰だかわからなくなっちゃうかもしれないよ」と言う。これで物語が終わる。
 
 ということでやはり結局エミットが何だったのかは特に何も明かされなかったわけだが、それ以外に論題にすべきポイントは概ね二つあって、一つは時間操作の問題と、もう一つはジュリアの問題である。言うなれば前者はテネットで後者はインターステラという感じがするのだが、とりあえずここでは前者のことだけ考えることにしよう。……
 
 我々はここまで「時間が逆行する仕組みが登場」「第三次世界大戦を防げ」「キーワードはテネット」という要素だけを頼りにエミットを連想してきた。第三次世界大戦という要素だけは全くかすらなかったが(そして作中でも実はこの第三次世界大戦という要素は実ははったりにすぎなかったのではないか?)他のところでは似ていると言える。むしろそれをわかりやすくしているとすら言える。しかしそれがどうわかりやすいのかはテネットについて述べなければわかりようがない。
 
 そこでここでは「一つの画面に複数の時間があるとはどういうことなのか」と問いを圧縮してみよう。同じ方向に巡行する速度の違いもまた複数の時間といえるが、ここでは巡行するものと逆行するものが同居しているということを「複数の時間」と述べたいと思う。というか本当は二つの時間と言ったほうがいいかもしれないが、なんとなく直感が複数と呼べと言っている。
 
 絵が複数の時間を描くことができるというのは逆にいえばそもそも無時間的だからとも言える。時間を描いていないのでなんとでも読みうるものを描きうるのだが、逆に見るものの時間を想定した上で織り込んで描くことで時間を複数化することができる。たとえば絵巻物は一枚の絵に描かれた作品だが右から左に時間が巡行したりするなどのギミックがある。あるいは騙し絵は、これは時間とは違うが、見方によってAをBに見せることができる(そしてBをAに見せることができる)。わかりやすさを欲する向きには、絵の時間の複数性は、見られ方の複数性なのだ、と言うことになる(しかし、そもそも絵として晒すだけで複数の視点に見られることになるのだから、これは単なる見られることの条件ではないのか?ということに答える必要があるだろう)。それよりも抽象的なレベルで複数性を織り込むことも実はできる。しかしそれはここでは紙幅が足りないので割愛する。
 
 メタレベルの時間ではなくてオブジェクトレベルの時間を複数化する方がテクニカルなはずで、絵でそれをすることは難しい。なぜならば一枚だからだ。それぞれが逆進する二つの時間を織り込むのは、巡行的な時間を生きている我々にとっては非直感的であるため、そのまま想像したり受容したりすることは難しい。テネットをばーっと見て「そのままするーっと納得した」とか言う人がいたら僕はぜったいにその人を信じない。あそこに描かれていることはパズル的であり、非直感的なことである(非直感的であるから間違っているというのではなく、むしろ”正しい”)。たとえばエミットではそれを三枚のカットで成立させている。単純に百合にとっては一月半が過ぎただけだが、その間にケンが老人・青年・少年という流れで若返っているという様子を描くことによって。
 
 とはいえエミットが抵抗できなかったのは、逆方向ではあるが進んでいる、という建前だ。これを崩せなかった。つまりエミットの異星の論理を地球に当てはめるのであれば、普通の人と同じように若きから老いに向かって変化していくことがむしろ「逆行」なのであって、でもそういう風にしたら地球の中での表面的差異をつけることができないから、このようにしたという感じがする。仮に異星人は一日一年の加速の中で生きている、という設定だけを生かしたとしても、結局進行方向は同じに見える。つまり、エミットで異星人が「老いから若きに進む」というのと「この星では時が加速する」という二つのアクセントを持たざるを得なかったのは、作劇上の都合があるのはもちろんだが、それと同時に、複数の時間が同居しているということの隠喩として生じてしまっているからなのである。
 
 時間操作の設定そのものだというのに「隠喩」だというのはどういうことなのだろうか。実はこれもテネットと比較すると明らかで、テネットには異星は登場しない。登場するのは未来である。つまり、エミットにおいて異星は未来の隠喩である。しかし、もし異星という設定だけが重要なら、時間が逆行して見えるような演出は必要なかったはずである。どんどん老いていくという加速の設定だけでも問題がなかったはずだ。だからこれは、エミットがテネットのようなことをしたかったにもかかわらずできなかったからこそ生じている隠喩的構成なのだと理解することができる。
 
 しかしだとすればなぜそんなことをしなければならなかったのか? これこそが最終的な問題である。これを問わないのであれば何も意味がない。それについて考えるためにはテネットの本体について入っていく必要がある。こんなに書いたのにテネットについてほとんど何も語っていない。こんなことがあっていいのか。未来の僕に向けてのヒント。救われた世界は救われたという記憶を持たない。ーー
 

 


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