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他者がいなければ承認されない

『他者といる技法 コミュニケーションの社会学』(奥村隆)を少し読んだ。いい本で、ゴフマンやレイン、ベイトソン、それからシュッツといった面白い(社会)学者たちのエッセンス的な部分を実践的記述の中で味わうことができる。

扠て、社会学は社会の学だから、二人以上の人が存在する中で起きるもろもろを問題にする。とりわけ「コミュニケーションの社会学」をサブタイトルに持つ本書は、社会の最小単位としての二者関係(私とあなた)を重視していることは明らかだが、そこでレインやゴフマンを引きながら「承認は他者がいなければなされない」ということが言われる。

これもまた当然のことかもしれないが、同時に厳しい事実でもある。承認こそが現代の病の一つであり、それが欲しくて人はおかしくなってしまう。SNSが増幅した承認欲求の病がいかに問題かはみんなよく知っていることだろうが、SNSがなかったとしても資本主義の競争社会の中ではみんなが承認欲求の病にさらされる。SNSはこれを増幅するが、他方で、別なゲームを提供することで承認欲求の別の補給場を提供するとも言える。そう考えれば救いにも見えるが、実際には別なゲームでも勝負が強いられるとなると、結局が逃れられない戦いに飲み込まれてしまう。

それを避けるには「ひとりでいる」しかないから、本当に求められているのは、それから現代で少し流行していると思えるのは、それこそ「ひとりでいる技法」だったり、あるいは「自己配慮(セルフケア)の技法」だったりするように僕には思われる。しかし、現実には完全にひとりでいることはできないから、そしてみなそれがわかっているからこそ、この「他者といる技法」が必要とされるのだと思う。人が自分の親密圏に期せずして入ってくることはないことではないし、本当に完全にその欲望を断念することも難しい。

しかし、「他者といる技法」とは何だろうか。この本には、他者とうまく付き合う「ノウハウ」が書かれているわけではない。だからそういうものを期待して読むと目論見が外れてしまうが、そういうものを期待する人は少なくないだろう、とも思う。

では技法とは何だろうかというと、シンプルに「やり方」と考えてよいと思う。その具体例としては「思いやり」とか「かげぐち」のようなものがある。そして本書がしているのは、社会の中に現に現れている、人々の無自覚な「やり方」を、「技法」という名指しによって対象化し記述する営みである。そういう点では、まさに技法として体得したり再利用したりすることも可能だとは思うが、そのような用途に最適化された本ではない。ただ、もし実践性をこの本に求めるのであれば、本書の効用は、自分の無自覚なモヤモヤを言語化してくれている記述を読むことによって、それが整理される(整理可能になる)ということにあると思う。

整理された結果認識されるのは、基本的には苦しい事実であると思う。社会には問題があり、そして問題を感じていなければこのような本を手に取ることはないだろう。だから本書が提供するのは、現にあるこのような「やり方」とは別な仕方があるはずだ、という可能性である。

また純粋に発見的な要素もある。たとえばダブル・バインドについて説明する際に、よくなされるのは親から子どもに対して矛盾したメッセージを与えることが子どもをダブル・バインド(子どもを愛しているのか傷つけたいのかが宙吊りになっている状態)。に置いてしまうというような構図だ。しかし本書では、むしろ子どもの言葉が親をダブル・バインドにおいてしまう、というような事情が描写される。何でも言い合える優しい母親という自己認識がある場合に、母親が子どもの悪口に晒されたら、受け入れれば反論していないという点で「何でも言い合える」が否定され、叱ったら「優しい母親」が否定される。そこで母親は「お前はいい子だから、本当はそんなことを思っていないって、お母さんは知っているわ」というようなダブル・バインド的発言を行う。

これは、これが「よい戦術」だとされているわけではない。存在論的不安に晒された母親がそれでも立場を両立させて生存するためにギリギリの第三の「技法」としてダブル・バインドが行われているのだ、として説明されている。ダブル・バインド自体は二者関係の中では生じることであるが、親と子の関係においては権力的に子に対する抑圧として働いているものと、少なくとも僕には思えていた面があり、そうではなく子から親に対してもあるのだという視点があっただけでも非常に示唆的であった。

とりわけ資本主義に紐づけられた社会においては、(階級)関係が単純化されるものの、本書が示すのはまさに社会の複雑性であると思う。その意味では本書は「抵抗の技法」の先触れとも言えると思うが、しかし、これは運動を目的とした本ではない。言うなれば、もっと優しい本である。だからこそ、「こうせよ」と示したりしないのだと思う。自分は働きかける主体でもあるが、働きかけられる客体でもある。少なくとも言えることは、本書自体が、著者の「他者といる技法」の実践だということである。

そういうところは、めちゃめちゃ長い序章などに典型的に表れてもいるが、段落が長くて読みにくいはずなのに、優しさが伝わる気づいたら読めている不思議な文章である。これは立岩さんや岸さんにも通ずるところがある。

効率性に毒された読者としては、これを実行的で即効的な何かに結びつけたくもなるのだが、ただこのような本があり、それを今読むことができるのだという事実だけを、ひとまず示しておきたいと思う。

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