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【短編】中年くらいの村人

 旅人は川を下り、やがて下流に小さな村を見た。日中、陸路を長いこと探していたせいで、まだ目的地まで相当な距離を残していたが、もう日も暮れかけていたので、今晩はその村にお世話になろうと思った。

船着き場らしいものはなく、近くの川辺に船を手早く寄せ、密な藪を少し抜けると放棄された田畑の一角に出た。道らしい道はなく、轍の上には背の高い草が茂っている。しばらく畦道を歩いていると、背の低い初老の村人とススキ越しに目が合った。なにやらそれまで作業をしていたらしく、相当驚いた様子の村人に、旅人はすかさず話しかけた。

「ここらを放浪しているものだ。行く先もなく困っているもんで、一晩だけ泊めてはもらえないだろうか。」

旅人は旅の過酷さを知っている。ここで交渉に失敗すれば、疲れが癒えずに次は命を落とすかもしれない。どんな手段でもいい。下手に出ようが嘘をつこうが哀れにみせようが、せめて日の出ているうちに彼らの許しを得ておく必要がある。初老の村人は困った様子で、その間表情一つ変えず、ずっと旅人を険しい顔で見つめているばかりである。すると、二つ隣の田んぼからやけに陽気な声が聞こえてきた。何をしゃべっているかさっぱりわからなかったが、中年くらいの村人が、緑のひものついた瓢箪をぶらぶらとさせながらこちらに近づいてきている。初老の村人は小さなため息をつくと、やっとこっち側に出てきて、なにやらもの言いたげな表情で旅人を一瞬にらみつけた。しかし旅人はひどく疲れていたため、それが含んだ意味について特に考えるような余裕すらもなかった。

「どうやってここへきた?まあいい、歓迎してやる。おれが案内するからついてこい。」

中年くらいの村人は、そういって旅人をもてなそうとしてきた。ただ、このある意味なんの脈絡もない友好的な対応は、旅人にとっては好都合であったので、話に乗り、ひとまず彼に村の案内をされることにした。聞くには、この村は主に地酒で生計を立てており、近くの町まで頻繁に物を売りにに行っているため、見た目以上に潤っているという。

「ボロ小屋ばっかりだが、全然不便にはしてねえ。ただ、全部俺の力でやってきたことだ。昔からおれは村の中ではできるほうでよ。あいつら俺の言うことだけ聞いてりゃいいんだ。」

そう調子のよさそうなことを抜かす中年くらいの村人は、自慢だという酒蔵に旅人を案内した。しけった空気の中に、ポツンと一つだけ手持無沙汰に佇む大きな樽を指し、中年くらいの村人は、のぞいてみろ、と旅人に指示をした。旅人はこれまでの険しい道のりで、酒のことなど忘れてしまっていたが、いちるみの期待を抱きながら覗いてみた。しかしそこには何も入っておらず、ただ灰色の何かがうっすらと見えるだけであった。旅人は、それがなんであるかその時は見当がつかなかった。

「今はつくってないんだ。ただ、お前が飲める分は一応残っている。くれてやってもいい。」

そういって中年くらいの村人は、腰に提げている緑のひものついた瓢箪を旅人に差し出した。旅人は、そこから少しばかり酒を頂戴した。今まで無心に生き残ることのみを考えてきた旅人の精神に、少しばかりの余裕が戻った。瓢箪の酒は、そのときちょうど底をついた。

旅人はその日の夜、数人しかいない村人たちと同じ釜を囲んだ。終始会話は少なかったものの、久しぶりにまともな食事をとり、すっかり元気を取り戻した旅人は、床につくとふと昼間のことを思い出した。考えているうちに、旅人は、中年らしい村人から聞いた話の奇妙な点に気づき始めた。出稼ぎに行っていると聞いたが、まずここら近辺に目立った陸路はないはずだ。きょう日中にあれだけ探したのに、結局川を下っての移動を余儀なくされたのはそういう理由からであった。かといって川を使った運搬をしているかといえば、村の近くの川辺に船着き場があるわけでもなかった。手入れの行き届いていない藪、雑草の生い茂った轍などが、外界との接触のなさをあんに物語っている。ここまで考えた旅人は、自分がいまとんでもないところにお世話になっているのではないかという恐怖心を覚えた。しかし、旅人の思考はここで止まらなかった。というのも、外界と接触していないならば、この村が酒造で生計を立てている、というのも嘘なのではないかと思ったからだ。たしかに考えてみれば、田畑は放棄されていたものがほとんどで、ながらく使われていなかった。こんな隔絶された村が、米を作らずに酒を造れるはずもない。また、酒蔵がしけっていたこと、酒樽があるような場所に部外者を簡単に立ち入れたことも加味すれば、もしかしたらあの酒蔵すらも、もう半ばあきらめられ管理されていないのかもしれない。

旅人は、そんなことを考えているうちに、眠りについていた。

翌朝早く、旅人はお土産の瓢箪をもらい、その村をあとにした。その瓢箪には緑色のひもがついており、中には水がいっぱいに入っていた。旅人は、靄のかかった静かな水面をゆっくりとすすんでいき、やがてその中に消えていった。






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