憂鬱な人は「遠くをみろ」という話。
最近、アランの「幸福論」にハマって、いろんな訳のバージョンを読んでいます。今はこちら↓の幸福論(村井章子訳 日経BP)を読んでいます。こちらなかなか、分かりやすくて一番お気に入りです。もし、アランの幸福論入門されるかたはこちらおすすめです。
それでもって、最近気に入っている言葉がこれです。
「憂鬱になった人に私が言えるのは、一言しかない。「遠くを見なさい」ということだ。(中略)自分のことを考えるのはやめて、遠くをみることである。」アラン 幸福論p322 村井章子訳 日経BP 2014
人間の目は、近くを見るようには出来ていない。海や星空を眺め、目が休まると、身体が休まり、心も解放され、情念という靄のかかったものの見方が晴れてくる。としています。
また、憂鬱になる人間の大半は、本ばかり読んでいると著者はいいます。ちょっとこれは、読書会やっている身としては耳が痛いんですが。(笑)
私たちは、暇さえあれば、欲求や不安に囚われ、想像力の中で天国や地獄を作り出し、翻弄されています。そして、そこから逃れようと、本を手にします。
それに対し、アランはこういいます。
「だが書物もまた閉じられた世界であり、目に近すぎ、情念にも近すぎる。そこでは思考は牢獄をつくり、身体を苦しめる。(中略)身体が健康であるためには、思考が自由に羽ばたき、広く見晴らすことが必要である。」同書p323
そう、書物も「使い方」次第なんですよね。
無条件に、「本を読み学ぶことは良いことだ!」なんて、思ってしまいがちなんですが、ある種、「知ることにより囚われる事」も出てくるのが実際です。
そして、憂鬱な気分であるとき、さらなる「思考の牢獄」を作り上げてしまうことに注意が必要です。
私自身の話をすると、とにかくいろんな本を読むのが好きです。そして、「これはいいぞ!」と思うような思想や言葉に出会うと、一時的にその思想に染まる時期みたいなのが定期的にあります。
とにかく目標を立てて仕事に取り組んでみたり、運動にハマってみたり、趣味に精を出してみたり、人間関係に重きを置いてみたり…。
しかし、後になって振り返ると、自分で作り上げた「ルール」に縛られ、余計な苦しみを生み出してしまっていることもあるのです。
「目標通りに出来ない自分ってやっぱり駄目だな」「結局いつもつまらないことでうじうじ悩んでいるな」「余計な一言を言ってしまった」「頑張ったけど、思った通りにならなかった」
とかね。そんな煩悩の塊のような私なんですが。(笑)
しかし、悩んだときに、本に救われて生きてきたのも事実です。これは、本好きの人ならあるあるの話だと思うのですが、本当に言葉にしきれない愛情が、本にあります。
だから、書籍を読むという事は「思考の牢獄」を作ることと「希望を見出す」こと。どちらの側面もあるのだと思います。
「半分信じて、半分疑う」
こういう考え方が案外バランスの取れている考え方なのかもしれませんね。中庸。
そして、悩んだとき、落ち込んだとき。「どうやったら自分の感情をコントロールできるか?」と自分にフォーカスを向けてしまいがちですが、
「自分のことを考えるのをやめて、遠くを見る」
事で、案外答えは簡単なことであったと気が付くかもしれません。
負の感情に囚われているとき、人はある種興奮状態にあり、正常な判断など出来ません。「悩んでいるから、正常な判断が出来ないんだ」と考え、少し頭を休め、思考がクリアになるのを待つ。こんな風に気楽に、呑気に、機嫌よくやっていきませんか。
最後にアランの名言を。
「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである。」
さ、肩の力抜いて、あくびでもして、のんびり行きましょ~。
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