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文学研究と映画研究の視点の違い

今日、大学で文学の授業があった。僕の所属する米英コースの授業である。

毎週課題の短編小説が指定されていて、「講読」と「解釈」それぞれ担当が割り振られている。

講読担当はその作品の登場人物やあらすじをまとめる。解釈担当は作品に込められたメッセージや、各描写がなにを表しているのか、セリフや情景描写、その時代の社会的背景から分析する。

今日の授業で僕は講読担当だった。作品はJack Londonの『To Build a Fire』。この作品はキャンプ地を目指して犬(a big native husky)と雪原を歩く男の話である。物語はいたってシンプルで、雪原を歩く途中、雪で覆いかぶさった泉に足を突っ込んでしまい、水に濡れてしまった男が火を起こすために奮闘するも、うまくいかず、死んじゃう話。登場人物は男と犬のみで、情景も時間もほとんど変わらず、犬と男の距離感と男の心理状態だけが変化し続ける。

僕はこの物語めっちゃおもしろいなと思ったんだけど、今日解釈担当だった4年生と教授の解釈が僕の注目した点と全然違っていて、本当に面白かった。

まずは僕の視点について説明する。僕はこの話の「温度」や「火」の表現の卓越した点に関心を抱いた。物語の中でさまざまな表現を用いて寒さのイメージが繰り返されている。たとえば、ある場面ではとにかく寒い寒いをいろんな表現で繰り返し、温度は何度だとかこの温度だとこれはこうなるとか知識の面からアプローチしていて、またある場面では主人公の身につけているもの、ミトンや耳あて、フワフワの靴とか、寒い寒い言ってる中に毛糸の質感や人工的なぬくもりを感じさせることによって、より周囲の寒さが強調されていた。

心臓が四肢へ送る血液の循環とか、手先がかじかむ状態からどのように感覚を失ってゆくのか、その描写がしつこいほど丁寧で、なんていうか、人が死に至るまでの感覚的な時間の長さ、ゆっくりと着実に死に近づいている様子がとてもリアルで、読みながら手が震えた。

また、下半身が濡れてしまったことにパニックに陥り、火を起こそうとマッチをたくさん取り出すも焦って雪の中へ落としてしまったときの絶望。火を起こすことが生命の揺らぎと直結していて、映像にしたらただマッチを落としちゃうだけの小さい動きなんだけど、生きるか死ぬかのパニック状態が嵐のように文字に起こされるなかで、マッチを落としてしまうこと、それがどれだけ男を絶望の淵に追いやるか、文学の力ってすげーーーと感動した。


と、そんな感じで今日の授業を迎えたわけだが、みんなの解釈の発表を聞いていて驚いた。この物語を通して伝えたいメッセージは、「自然の淘汰」「理性と本能の対比」「文明と自然」。あの時男はどうすべきだったのか。なぜ男は死んだのか。犬がどういう存在なのか。

おーーーーなるほどね!!そうか、文学ってのは内容について考えるのが主軸(もちろんそれ以外の読解方法もたくさんあるけれど)なのか。僕は正直全然そんなこと考えていなかった。だからどの発表も新鮮で、お前ら天才かよ!と思った(激薄)。ただ自分の想像力が欠如しているだけかもしれない(精進します。)けれど、映画研究と文学研究の違いなのかなとも考えた。

僕は2年生の後半に初めて映画研究の世界に足を踏み入れて、まだつま先くらいなんだけど、一応映画研究のゼミにも所属している。だから、文学研究より映画研究のほうがまだ親しみがあって、照明や色、カメラワークや音など、おもに視覚的、聴覚的要素に注目して作品をみている。それが少しずつできるようになってきたのはつい最近のことで、以前は物語のほうに注目がいきがちだった。

だから、映画全体を通して作者が何を伝えたいのか物語を軸に考えるより、作品の中のvisual elementsがなにをどう表現しているのかの方に関心が向く。もちろん『怪物』や『燃ゆる女の肖像』のように、その映画が社会にもたらす影響やストーリーの可能性、問題点についても言及するけれど、文学のそれとはまた違う気がする。

『To Build a Fire』がアニメーションで映像化されているのを偶然YouTubeで見つけて、さっき見てみたけど、これだけ多くの文字、さまざまな表現を用いて描かれていた寒さが、映像ではたった2秒くらいの動作になっていた。

”The trouble with him was that he was without imagination." などと、男の性格が小説では随所で書かれてたんだけど、映画では雪原での行動や表情以外で男のキャラクターについてほとんど描写されていなかった。でも僕もこれを映像化するとしたらナレーションはいれない。男の孤独と恐怖を描写するのに、これをセリフにしていれることは野暮だし、なにかその性格が読み取れるエピソードとして映像でいれるのも違う。これは雪原に始まって雪原に終わるべき物語だからだ。

しかし、観察力に優れているが想像力に乏しい男の性格は、小説で描かれているとされる「理性と本能の対比」を読み取る上で欠かせないものだ。文学から得られるメッセージをこの映像から読み取るのはかなり難しいと思う。

終始静かで真っ白な情景で、嵐のように吹き荒れる生命の揺らぎ、生と死の混在、切迫した男の心理状態が、映像では小説ほどうまく表現されていなかったように感じた。小説ではすっごく長く感じたのが、映像化されるとたった13分に集約されてしまったのも、なんか悲しかった。

映像の世界で、13分間の出来事は13分かそれ以下でしか表せない。でも文学の世界では、13分を1時間、それ以上かけて読ませることができる。それが映像と文学の違いのひとつである。

でも、映像だからこそ表現できる緊迫感もあった。カメラワークとサウンドだ。映像は観る人の視点を決められる。キャラクターの表情にクローズアップすることもできれば、ずっと高い空から広い雪原をひとりで歩く主人公の孤独を見せることもできる。また、なにか恐ろしいものが近づいてくる予感を音楽で表したり、それが徐々に大きくなったり急に止まったりすることで不安を募らせたり安堵に導いたりすることもできる。

文学は、主人公の発言も、その後ろで燃える暖炉の炎も、全て平等に描くことができる。紙の上に同じ字体、同じ大きさで、すべてなにか意味があるものとして読者に読ませることができる。だが、全ての読者に同じ情景をイメージさせることはできない。それぞれの受け取り方と経験、想像力によって脳内で映像化されるから、それが同じものであるとは限らない。

一方で、映像は全ての視聴者に同じ情景を観せることができる。しかし、それ以上のものを観せることはできない。主人公にフォーカスが当てられる中で、後ろの暖炉に燃える炎の存在に気づけるかどうか、セリフとしては言及されない壁の色や、部屋からこぼれる明かりに意味を見いだせるがどうかが、映画研究の肝だと思う。


とまあ、今日は文学の世界に触れてみて、文学と映像、それぞれ良さがあって可能性があって、とてもおもしろかった。僕は文学を読み解く視点も手に入れたい。映画研究はこうだから仕方ないよねじゃなくて、やっぱりどっちも手に入れて、文学を読むときに映像的視点を、映像を観るときに文学的視点を交錯させて読解することができたら、どんなにおもしろいだろう。

再来週の授業で、僕は小説の方のHaruki Murakami『Drive My Car』の解釈を発表することになっている。大仕事!!!その翌週には映画版を扱うことになってて、そっちを選ぼうか迷ったんだけど、せっかく文学の授業だから文学読解に挑戦することにした。とてもたのしみ!!!

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