「チクり」と「苦情」

私は小学生の頃、悪いことしてる同級生を見つけたら、当たり前のように先生に伝えるマジメな子どもだった。

貶めようとか思っていたわけではないけど、悪いことをしていたら注意されるべきものと思っていた。
その行動は悪ふざけしがちな同級生たちには「誰だよ、チクりやがって」と嫌われていたけれど、嫌われる道理はないと思っていた。

一方で、小学生の声がうるさいと行政に苦情を寄せる近隣住民がいるという話を聞くと、無責任なやり方だなあと思っていた。

苦情が寄せられたと行政が小学校に伝えれば、子どもたちは先生に注意される。そうなると、次から公園で遊ぶのに萎縮してしまうからだ。

話し合えばもっと柔軟な対応ができたかもしれないのに、たった1人の意見で公園は使いづらい場になってしまう。


でも、これら2つは本質的に似た問題を孕んでいるんじゃないだろうか。
直接言って当事者間で解決すれば良いことなのに、力がある人に文句を言い、代わりに解決してもらおうとする。

自分が嫌だと感じたことを伝えること。
互いに事情を聞くこと。
そして折衷案を考えること。

チクりも苦情も、この当たり前のプロセスをすっ飛ばしてしまう。その結果、分断ばかりが生まれていく。

きっと、チクりや苦情を受けた大人が内容をそのまま伝えて終わりにしてしまうことが良くなかったのではないかと、今は思う。

大事なのは、当事者同士をつなげることだ。
直接話すと揉めるかもしれない。けど、分かりあえないまま分断されているよりも、将来的に良い関係性を作っていける可能性がある。

子どもでは特にそうだ。
「先生に言えば何でも解決する」と思ってしまえば、その子はいつか理不尽な苦情を言う側になってしまうかもしれない。


対話を重ねることは、面倒なことだ。
だけど面倒くさがって分断を生むよりは、面倒見が良い人でありたいと思う。


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