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象はなぜ「さびしく笑った」のか

オツベルと象とディスコミュニケーションの話、
あるいはやりがい搾取の話。


はじめに 「オツベルと象」を知っていますか

 オツベルと象、という話をご存知だろうか。私くらいの年代だと、中1の教科書に載っていたので、一度は目を通された方も多いのではないかと思う。宮沢賢治の代表作のひとつであり、「走れメロス」「羅生門」と並んで、最も多くの人が読んだ近代文学作品といってもよいだろう。今でも一部の中学国語の教科書に採用されており、中学校1年生たちのための教材として学校現場では繰り返し読まれている。

 青空文庫に全文が上がっている。すぐ読めてしまうので先に目を通してもらえるとこれからする話がスムーズにご理解いただけると思う。

 僕は国語教師なので、この話を比喩でなく百回以上は読んでいるし朗読もしてきた。平易な文章で書かれているくせに、この物語は「ものすごく教えにくい」のである。よくこんな話何年も教科書で取り上げてきたな、と思う。

 最初にぶち当たったのが終盤の難解さである。

「牢はどこだ。」みんなは小屋に押し寄せる。丸太なんぞは、マッチのようにへし折られ、あの白象は大へんやせて小屋を出た。
「まあ、よかったねやせたねえ。」みんなはしずかにそばにより、鎖と銅をはずしてやった。
「ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。」白象はさびしくわらってそう云った。
 おや、川へはいっちゃいけないったら。
                         (太字引用者)

 最後の「川へはいっちゃいけないったら」という見方によっては大変サイコなセリフもさることながら、気になるのは「さびしくわらった」白象の気持ちである。

 生徒はここでつまずいてしまう。
「ひどい目にあわされていたのに、助けられて喜ばないのはなぜなんだろう?」と尋ねても「さあ?」となるばかりである。

 国語教育が悪名高き「お気持ち命題」(「作者の気持ちを答えなさい」という設問と決めつけた解答による教育)に支配されていた頃から、この「さびしくわらった」にはいろいろな解答が用意されてきた。続橋達雄の「オツベルの冷酷さを改心させられなかったことへの悲しみであろう」という説はWikipediaにも取り上げられている。僕もこの解釈で習った。納得など到底できないのだけれど。

 正解などないのだろう。
 だが、このことを何度も考えるうちに、この「さびしい笑い」が現代にも通ずる、普遍的な感情ではないかという考えが芽生えてきた。
 最近思うことにも通じる気がするので、少し書いてみたいと思ったのである。

ディスコミュニケーション#1

 農場主オツベルのところに、象がふらっと訪ねてくる。オツベルは象に、「ずっとこっちにいたらどうだい」と提案し、象は「いてもいいよ」と応じる。

 語り手は言う。
「どうだ、そうしてこの象は、もうオツベルの財産だ。いまに見たまえ、オツベルは、あの白象を、はたらかせるか、サーカス団に売りとばすか、どっちにしても万円以上もうけるぜ」

 活発で聡明な生徒はここで「ええっ?なんで?」と言う。象は遊びに来ただけなのに、「オツベルの財産」とされてしまうのである。

 ここでひとつ目のコミュニケーション不全が起きている。オツベルの提案は白象には「しばらく居候として滞在する」程度の提案にすぎない。だがオツベルはそれを「オツベルによる所有の発生」という契約としてみなしているのだ。

 それを証明するのが、ふたりの会話を聞いていた農夫の反応である。
 オツベルの提案を聞いた農夫たちは「はっとして、息を殺して象を見た」のである。オツベルは象に奴隷になる契約を持ち出していると農夫たちは気がついているのだ。もしかしたら、このようなやり取りが過去にも繰り返されたのかもしれない。
 だから農夫たちは象が怒り出さないかと恐れているのである。

 しかし象は気がつかない。オツベルは気がついている。その証拠にオツベルは象にこの提案をした後、「にわかにがたがた震えだす」のだ。オツベルにとってこれは「命がけ」の提案なのだ。

ディスコミュニケーション#2

 さて、オツベルは象に贈り物といつわって鎖と分銅をつけ、逃げられないようにしてから、こういう提案をする。

「済まないが税金も高いから、今日はすこうし、川から水を汲んでくれ。」オツベルは両手をうしろで組んで、顔をしかめて象に云う。
「ああ、ぼく水を汲んで来よう。もう何ばいでも汲んでやるよ。」
 象は眼を細くしてよろこんで、そのひるすぎに五十だけ、川から水を汲んで来た。そして菜っ葉の畑にかけた。

 「税金が高い」=「苦しい」から、ちょっと助けてくれないか。

 その提案に対して白象は快く引き受ける。「目を細くして」よろこぶのである。
 生徒の感想を聞くと、「象は働くのが好きないい子なのにかわいそう」と言うのである。根拠はこの直後の白象の台詞である。

「ああ、稼ぐのはゆかいだねえ、さっぱりするねえ」

 ここで注目したいのは、「働く」ことが「好き」とは言ってないことである。「稼ぐ」(経済活動)のはゆかい(面白い)でさっぱりする(好きなわけではない)。

 白象がほしかったのは「役割」ではないか、と思うのである。社会的な役割を与えられたこと、それが「稼ぐ」ではないのか。
 社会的な役割を与えられることが労働の大きな報酬のひとつだとするのならば、何者でもなかった白象はオツベルの「手伝い」をすることで社会的役割を得たのではないか。「ああ、ぼくたきぎを持って来よう。いい天気だねえ。ぼくはぜんたい森へ行くのは大すきなんだ」と言って喜ぶ姿や、「息で、石もなげとばせるよ」といった無邪気な力の誇示は、大人の手伝いを覚えて喜んでいる子供の姿にも通じるものがある。

 もちろん、オツベルはそれを利用するだけだ。

 オツベルにとって「象は経済」である。金儲けの道具として象を利用しているだけだ。象は「誰かのために役立つ」というやりがいを与えられて喜んでいるが、その無償の労働はオツベルの「大きな琥珀のパイプ」や「雑巾ほどあるオムレツ」になっていくのだ。

 オツベルが白象に課す労働はだんだん苛烈になっていく(「前にはなしたあの象を、オツベルはすこしひどくし過ぎた」)。餌もろくに与えられず朝から労働させられる白象。
 生徒たちはここで叫ぶ。「ブラック企業じゃん!」

グラフ

象に与えられたわらと仕事の相関グラフ。授業のために作ったもの。
労働時間は象が月を見ているおおよその時間帯から算出した。(雨宮、2019)

ブラック企業とやりがい搾取

 そう、これは子供たちがニュースで見た「ブラック企業」の構造そのものだ。「苦しいから頼む」と言われ頑張りすぎてしまう若者たち。以前労働監督署の方と話したときにブラック企業の話を聞いたことがある。「ブラック企業にいる若者たちは、それがおかしいとは思ってないことが多いんです。上司に頼りにされているからしかたがないし、応えられないのは根性がないからだ、と思っていることが多いです」と言われたのを思い出す。

 以前、有名な学習塾に勤めていたことがある。球場に大きな広告を打つほどの大手塾で、大変業績を挙げていた。就職先として申し分ないと思い勤めた。最初は契約社員で薄給だが頑張れば社員で登用されるという。30過ぎた転職者には申し分ない条件だと思った。生徒は頼ってくれるし、かわいいから一生懸命やった。朝8時に家を出て本社に研修で出勤、業務が終わるのは22時、しかしそこから次の日の授業の準備をする。業務終了は3時。車で家に帰りまた朝8時。休みは週2日だがバイトがいつかないしなぜか若者はすぐやめてしまうので、応援に行ったりバイトの補講をしたりすると休みはすぐつぶれる。日曜日は休みだがほぼ毎週テスト対策があるから休日出勤した。
 もちろん「テスト対策があります。出られますか?」と訊かれるだけだ。「出てください」とは言われない。自発的に出ているから、休日出勤ではない。ボランティアだ。

 やりがいはすごくあった。成長もできた。今教師としてやっていけるのはこのときに身に着けたスキルのおかげだ。だが、2年後血尿が出、駅のホームで倒れた。目覚めた時、自分の住所も思い出せなかった。今思えば命の危険にさらされていた。

 だが、そのときは会社が悪いとは1ミリも思っていなかった。自分が悪いのだ、頑張れない自分が悪い、体の弱い僕が悪いんです、子供たちに申し訳ない、と言って泣く私に、医者はこう言い放った。
「1週間入院してください」
 1週間入院すると体が正常に戻って、これがおかしいということに気がついた。契約社員を理由に有給休暇はなく、残業代は自主研修という名目で支払われていなかった。明確な労働基準法違反である。
 社員のやりがいに寄生して、安い人件費でこき使う。周囲の校舎で次々と社員やバイトが辞めていく理由は、彼らが根性がないからではなかった。
 退院する日に医師は言った。
「いいですか、このまま同じペースで仕事をしたら死にます。辞めたほうがいい。無理ならいい弁護士を紹介します。訴えたら勝てます」

 訴えることはなかった。訴えてもしその塾が閉鎖することになったら、そこを頼っている生徒はどうなるのかと考えた。会社をつぶす気はなかった。僕は黙って体を壊したという理由で退職した。

 退職してからは毎日がつらかった。頼ってきた生徒を見殺しにするのか、と職場で言われたし、そう思ってもいた。新しい職場(ここもブラックだったが)から帰宅するとき、学習塾(勤めていたところとは違う系列である)の前を通るのだが、そこを通りたくなくて遠回りして帰った。涙が流れそうになった。そのしんどさは、教員になるまで続いた。

 「オツベルと象」に話を戻そう。

 死にかけた白象はどうしたらいいかわからずしくしく泣く。月がサジェッションをする。「何だい、なりばかり大きくて、からっきし意気地のないやつだなあ。仲間へ手紙を書いたらいいや」象は泣く。「お筆も紙もありませんよう」(この辺が現代のブラック企業に苦しむ人へのTwitterのアドバイスのやりとりぽくて思わず笑ってしまう)。そこで月は使いをよこし紙と筆を与える。

 ここで象はやっと仲間の象に手紙を書く。

ぼくはずいぶん眼にあっている。みんなで出てきて助けてくれ」(太字引用者)

 これに対する仲間の象の怒りは相当なものだ。議長の象は叫ぶ。「オツベルをやっつけよう」
 「グララアガア、グララアガア」と吠えながら象たちは黒い奔流となってオツベルの屋敷に押し寄せる。

ディスコミュニケーション#3

 象たちは圧倒的な力でオツベルの屋敷を破壊し、オツベルの犬を失神させ、オツベルのピストルを無力化し、オツベルは象の下敷きになる。

 このシーンは生徒たちにとって大変なカタルシスであるらしく、僕が朗読しているとき生徒の目が一番輝くのはここだ。賢治の筆調も軽やかで、文章全体を包んでいる七五調のリズムが多用される。いいぞ、もっとやれ、といった雰囲気が場を包む。

 象たちは白象を助け出し、あの問題のシーンになる。

「まあ、よかったねやせたねえ。」みんなはしずかにそばにより、鎖と銅をはずしてやった。
「ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。」白象はさびしくわらってそう云った。


 実はここで最大のディスコミュニケーションが発生している。

 白象はなんと言ったのだろうか。「ずいぶんな目になっているのでみんなで助けてほしい」だ。つらくてたまらないから助けてほしいだけなのだ。

 象たちの言葉は「白象を助けよう」ではない。「オツベルをやっつけよう」だ。彼らの行動の目的はもちろん白象を助けることだが、行動の源になっているのは、オツベルに対する怒りと憎悪である。

 白象はオツベルの死を望んだだろうか。そうではない。つらい現状を助けてほしいだけなのだ。

 本当の意味で白象は助けてもらえなかったのではないだろうか。白象は役割を手に入れた。それは今までの象の生活では与えられなかったものだったのではないか。オツベルに与えられた「社会的役割」は白象に新しい喜びを与えた。しかしそれはとてもつらいものだった。

 本当は白象は、新しい役割を得たまま、オツベルたちと共存できる社会が欲しかっただけなのではないか。楽しく、安全に、気持ちよく働き続けられる職場。それが白象が本当に欲しかったものではないか。

 オツベルはその象の願いをふみにじった。やっつけられて当然なのかもしれない。だが、それは本当に白象が心から望んだことなのだろうか。

 共通言語を持っているはずの仲間の象ですら、彼の心情を理解してはいないのだ。

 これは勝手な想像だが、もしかしたら、白象は象たちの国が退屈で仕方なかったのかもしれない。象たちは白象からの手紙を受け取った時、「沙羅樹の下で碁を打って」いた。いかにも哲人然としたこの生活は、おそらく若者である白象には刺激がなく、満足できなかったのではないだろうか。

 そしたらそこへどういうわけか、その、白象がやって来た。白い象だぜ、ペンキを塗ったのでないぜ。どういうわけで来たかって? そいつは象のことだから、たぶんぶらっと森を出て、ただなにとなく来たのだろう。

 そう考えると、ただなにとなく来た、というところに、隠された孤独のようなものを感じてしまうのだ。

 そういった視点でこの物語をとらえ直すと、地方の若者が都会に出てブラック企業で酷使される物語に見えてくるから不思議だ。
 この物語が発表される前年まで賢治は教員だった。卒業生たちの進路を見て、都市が地方を、富める者が貧しい者を、強者が弱者を搾取する社会の仕組みに怒りを覚えていた可能性はある。そういう読み方をすると、少しまたこの物語に対する印象が変わってくるのである。

川へはいってはいけない

 最後にこの物語の語り手が発するなぞの言葉「おや、川へはいっちゃいけないったら」。
 生徒に聞くといろいろ解釈が出て非常に楽しい。私は、「聞き手が興味を失った」という説をとる。「ああ、そういう話なのね」と興味を失った子供が、川遊びに行ってしまう姿が見える。子供は悪役が好きだし、カタルシスも好きだ。そのどちらも失われたこの物語にはもう輝きはない。聴き手の役割の放棄は、物語の終焉を意味する。

 現実の話をしよう。

 ブラック企業の話はよく聞く。なにかそういう話があると、みんなそれをよってたかって叩くけれど、怒りをぶつけ、エンタメとして会社を叩きたいだけの人が、よくいる。電話で突撃したりメールを送り付けたり不買運動をするのは、こういうタイプの人が多い。グララアガア、グララアガアと吠えながら、彼らは破壊しようとする。ほぼ、憂さ晴らしだ。

 本当に必要なのはブラックな企業を攻撃することではなく、被害に遭っている人を救済すること、その人がそこでしか働けない理由を考えること、そして、労働環境が改善されるよう、社会の雰囲気を変えていくこと。もちろん、労働環境が是正できない会社ならつぶれるしかない、とは思うが、つぶすことが目的ではない。ブラック企業は我々のサンドバッグではない。

 やりがい搾取というのは本当に厄介な問題だ。その渦の中にいる人たちは、案外自分たちをブラックだと思ってなくて、そのくらい普通だし頑張れないのかよ、と言う。

 ブラック企業を叩いているくだんの人たちですら、自分の職場ではそうだ。そんなことない、と思っている人も多いかもしれないが、完全に労働条件を守っている会社は、そうはない。嘘だというなら、毎日始業時間1分前に出社してみるといい。怒られるはずだ。

 かくいう僕もそうだ。例えば教師の業界ではご飯をゆっくり食べたり、定時を守ったりする人を軽んじる傾向がある。「ぎりぎりに来やがって」「仕事できない奴ほど飯が遅い」「仕事できないくせに早く帰る」などと言ったりする。僕もそう思う時がある。だが、この言葉が権利的にはおかしいことは明白だ。早く帰ることや食事が遅いことと、仕事の出来不出来は分けて考えるべきだし、自分のライフスタイルを他人に押しつける権利などない。

 明らかにさぼってさっさと帰ってしまうような人の話をしているのではもちろんないが、相手の事情など考えないでそういう話を平然とする人は多い。酷い人になるとアルバイト(学校だと時間講師)なのに早く帰ることに文句を言ったりする。もうそうなると、ブラック企業の経営者とメンタル的には何も変わらない。

 社会はマンパワーに支えられている。だが過剰なマンパワー、誰かの奉仕で支えられた社会というのは健全ではない。どうも人に犠牲を強いて、それに平然としている人が多い気がする。まずだいたい政治家からして与党野党問わずそういう思想の人は多い。秘書に対する扱いなどを見ていると、そう思う。

 若手に早く来させて掃除をさせる文化というのもある。私はそういう文化は、きらいである。必要なら当番制にして均等に早く来ればいいだけのことだ。それを美談にしているのはどうなんだ、と思う。

 誰かの過剰な労働でうまくいく政策や業績があるのだとしたら、そんなものは不健全である、やりたがるからやらせてるんだ、この人は優秀だから頑張ってもらわないと、若いんだから働け、早く来い遅く帰れ、そういった考えはすべて間違っている。すべての仕事は、決まった時間内で働き成果を出し、それに見合った報酬でのみ評価される。低い報酬でも仕事そのものに意義を見出すのは、すばらしいし幸せなことだが、そういう人がいなくなってしまったら、待っているのは社会の破綻か、よくて強制労働である。

 コロナウィルスの流行で、今この国が受けている困難ははかりしれない。お世辞にも早かったとはいえない封じ込め策の割に死者が少ないのは、医療従事者の必死の努力によるものだと思う。誇りを持って戦っている人たちには敬意を表したい。だが、彼らが白象のように搾取されることがあってはならない。二把のわらで働かされるようなことがあってはならないと思う。

 この国は油断するとすぐそういうことをする。それは百年近く前に賢治が看破しているとおりだ。

 おや、川へはいっちゃいけないったら。



 

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