私が映画「プロメア」でマジ泣きした2つの場面について

遅まきながら、映画「プロメア」を観に行った。

ド迫力のアクション・個性が際立った登場人物たち・かっこいい音楽・等のエンタメ要素が、TRIGGER特有の理屈より勢いで押し通すハイテンション(偏見です)とマッチして、観て良かったと鑑賞中から思っていた。

そんな中、全編を通して2回ほど、ガチで涙が出たシーンがあるので、今回はそれについて書こうと思う。
当然のようにネタバレなので、本編未鑑賞の方は先に映画館に行くことをおすすめする。感想とか考察とかしなくても面白いから。
あと、一回しか観てないのでうろ覚えや勘違いもあるかもしれないことをご承知おき願いたい。



ひとつめは、バーニッシュが避難した洞窟での、ガロとリオの会話シーンでのことだ。ガロが「燃やしたいという衝動を抑えられないのか」「それさえできれば普通に暮らせるのに」みたいなことを言っていて、そこで胸が詰まった。

率直に言って、「なんでそんなこと言うの!?」という気持ちになった。

私は、そのくだりまで物語を追う中で、バーニッシュが差別を受けている姿は、現実社会におけるマイノリティ差別がモチーフになっていると理解した。
そして、彼らが纏う炎は一種のスティグマであると同時に、まぎれもない彼ら自身の一部だと捉えていた。それは、リオの「炎の『燃えたい』という声が聞こえる」「燃やしたいと思うのはバーニッシュの本能」みたいな言葉(一度しか観てないのでうろ覚え)からも伝わってくる。

にもかかわらず、ガロは「『普通』になるために己の一部を切り捨てろ」と言ったのだ。
なんとむごい発言だろう。

ガロがそんなことを言ったのは、彼にとってバーニッシュの炎は「消火すべきもの」でしかなかったからだろう(彼の「消火と救助」という行動原理は最初から最後まで一貫している)。
でも、リオたちバーニッシュにとっては違う。炎は、彼らが背負う業のようなものだ。迫害される元凶でもあり、自分の身を守る武器でもあり、とにかくそれと付き合って生きていくしかないものだ。少なくとも私はそう捉えていて、だから悲しくなった。


だが、ガロが当初「消火すべきもの」としてしか捉えていなかったバーニッシュの炎には、人を守る力があることもわかってくる。
そして、最終局面において、リオたちバーニッシュは、地球を炎上から守るべく、彼らの炎――すなわち異次元生命体「プロメア」の衝動を昇華(消火?)させるために、完全燃焼を果たす。
ここがふたつめの涙ポイントだった。ガチで嗚咽が漏れた。

ただのやっかいものだと思われていた彼らの特質が、地球を救うために必要とされた。
燃やしたいという衝動が害ではなく益となった。
この単純な反転に、単純に胸を打たれた。

これは多分、私自身がいくつかの面で自分を「マイノリティ」だと感じているからこその感情移入だったんだろう。
「普通じゃない」「なくしたほうがいい」とされてきた「自分の一部」を、逆転の切り札として思いっきり表出できる――マイノリティにとって、これほど気持ちいい自己実現はないように思う。


一方で、太陽系を「燃やし尽くした」プロメアたちが、リオたちの中から離れてもとの次元に帰っていく、というラストには戸惑いのようなものを感じた。
バーニッシュはあくまでも一時的にプロメアの宿主になっていただけで、彼らがいなくなれば「普通」の人に戻ったのだ。

現実世界におけるスティグマは、プロメアのように出ていかない。一生付き合っていかなければならないものだ。
私がバーニッシュの炎をスティグマとして捉えていたから、「そうではなかった」ことに驚いたんだと思う。

「厄介な」炎が消え、「普通」の人間に「戻る」。
これがハッピーエンドなのかは、私にはわからない。
ただ、リオの身体からプロメアが去っていく時の彼の表情が、どこか名残惜しそうに見えたのは、私の見間違いではないと信じたい。

(なお、この違和感については、ツイッターで拝見した批評的感想が的確に表現してくださっていると感じたので、リンクを張っておく)


以上が、私が「プロメア」を観た感想である。
見る人によって多様な感想が生まれる、興味深い作品だと思う。
私の地元ではもうじき上映が終わってしまうが、あと1,2回は観たい。


追記:よくよく考えると、クレイ・フォーサイトは「『普通』になるために己の一部を切り捨て」て生きてきたバーニッシュだった。彼について考え始めると止まらなくなるので、もし考えがまとまったらまた何か書きたい。

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