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流しそうめん20200719

 最近『自分やべえなぁ〜』と思うことがある。『やばい』というのは隠された能力に目覚めたとかサイコパスだからキレると相手の意識がなくなっても殴り続けるとかそういう痛いやつじゃない。『物忘れ』がやばいのだ。

 僕は結構本を読む方だ。いや、『読んでいた』方だ。ここ数年、全くと言っていいほど読んでいなかった。その理由は一つ。『忙しかったから』だ。ダメ大学院生の太陽系代表チーム主力選手としてペンタブラックも顔負けな黒さの研究室で一心不乱にハラスメントを受けていた僕に本を読む時間は、というか心の余裕は無かった。そこのお前!自殺数歩前の人間が「仕事が辛い」とか「大学が辛い」とか言っていたとして、「じゃあ空いてる時間に趣味でも見つけようよ!」なんて気軽に言ってはいけない。楽しめる余裕が無いから辛いのだ。人間1人に詰め込める感情は人間1人分だぜ。

 就職し社会の歯車、かつ潤滑油という矛盾した存在になることで、少しばかりの自由時間を確保できる様になった。だから読書を再開した。数年前にドラマ化され、人気になった小説だ。近いうちに続編が作られるらしい。一回読んだことがあるのでさらっと読み返してしまおう。内容だって覚えているだろう。

…覚えてない。

 いや、何も覚えてない。内容もそうだし、キャラもこんな感じだっけ…?なんか性格きついぞ…?と違和感がすごい。本当にこの本読んだのか?著名人が亡くなったときにネット上に雨後の筍の如く現れる『大ファンだったのに悲しい…😭』とほざく有象無象の奴らの様に読んだと勘違いしているだけなのでは無いか?

 という訳でここ数日、昔に読んだ本をのんびりと読み返していた。『夜のピクニック』、『エルマーとりゅう』、『友達は海のにおい』『黄金を抱いて跳べ』『屍鬼』、『灼眼のシャナ』、『カラマーゾフの兄弟』…。エトセトラエトセトラ。悲しいことにいまいち覚えていない。カラマーゾフの兄弟に至っては『上』『中』『下』の3冊に分けられているのに『中』をすっ飛ばして読んでわかった気になったことしか覚えていない。あーそういうことね完全に理解した、としたり顔をしていた高校二年生の僕を殴りたい。ということはつまりもう一回読めばもう一度楽しめるのでは?とポジティブシンキングを生み出し続ける偉大なるハッピーセット頭脳を所持する今の僕も殴りたい。今読んだところでドストエフスキーの小説なんて理解できんわ。というか父が「俺には読めなかったからお前読んでみてくれ、偉大なる父を乗り越えるチャンスだ」とか言いながら渡してきた時点で『上』と『下』だけだったし僕の所為かこれ?『中』を手に入れる旅に出て来いということか?父の言葉の真意もドストエフスキーも読めないままだ。

 つまり、今までの僕のエンターテイメントの楽しみ方は、右から左に抜けていく感覚を快感に感じていただけの様である。これはやばい。流しそうめんが上から下へと流されていくのと同じ様に、地球の引力に引かれた情報どもが僕の頭の中をすり抜けていっただけなのである。考えてみれば音楽も映画も同じかもしれない。音楽を聴きながら、映画を見ながら、別の何かに手をつけていたのはマルチタスクができる訳でもなく、情報の流しそうめん(食べる人無し)をしていただけである。ひとっつも身についていないのでは無いか?面白いものを作り出すために面白いものを楽しんでいたはずなのだが。つまりは僕が面白いのは才能なのか?頭のハッピーセットはおもちゃの配布をやめない。

 …まあ楽しんでいたのだから特に問題はないのかもしれない。それでもエンタメは楽しむだけではなく、楽しみ方にも気をつけるべきなのだ。高い肉食ってうんこするだけの生活は嫌だ。コロナの所為で昔の映画が上映されているのはいい機会かもしれない。ちょっと昔の映画でも映画館で見てこようかな。

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