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裁判所で名の変更をしました

 親との確執があり、改名に至りました。
 わたしの準備物と手続きの詳細を書きます。
 今苦しんでいる誰かの一助となりますように。

1.背景

 わたしの名前は、両親が占い師に相談して決めたものだ。占い師とは母と祖母が傾倒している人だった。結婚相手を決めるのも、引っ越しするのも、学校も、会社の取引も、全部その占い師が相性を判断して決める。
 占いの内容は姓名判断と四柱推命と、そのほか独自の勘を混ぜたものだ。たぶん。詳しくは知らない。
 母曰く、「あんなにすごい占い師の先生が完璧な名前に決めてくれたんだから、貴方の名前は強運なのよ」とのことだった。
 わたしの名前は強運だった。らしい。
 だけれども、相性がある。「相性の悪い名前や生年月日の子とは仲良くしてはいけない。運勢が落ちる。」と教えられてきた。母は度々、クラス全員の名前と生年月日を調べて、「あの子とは仲良くしなさい運勢が上がるから」「この子とは縁を切りなさい運勢が下がるから」と言った。
 わたしは次第に、「強運の名前」に辟易するようになった。

 一方で、わたしは小学生の頃からずっと、母から名前を呼んでもらえなかった。
 仮に父の姓を「田中」、母の旧姓を「山野」だとすると、間を取って「中野」。わたしは母から「中野さん」と呼ばれていた。
 母は子供が居ると知られたくなくて、他人を装うためにわたしの名前を呼ばなくなった。しばらくして占い師から画数が悪いと言われて「中崎さん」に変更されたが、些細な事だった。
 とにかく、日常的に名前を呼んでもらえない。
 ところが、母は殴る時だけわたしを名前で呼んだ。仮に「花子」だとする。
 殴る理由は様々で、帰宅時の「ただいま」の声が大きくて煩わしいだとか、タクシーの運転手さんが道を間違えただとか、学校で忘れ物をしただとか、そういう細々としたことだ。納得できるものもあれば、無関係で驚くこともあった。とにかく殴る時だけ、「花子!お前のせいだぞ!」と名前を呼んで怒る。
 普段呼ばれないのに、怒る時だけ呼ばれるものだから、「花子!」が聞こえるとそれだけで怯えるようになった。母だけでなく、誰に呼ばれても、肩がビクッと震えるほど驚いてしまう。どんどん、呼ばれるのが怖くなった。

 それで、小学生の頃から、友達には「田中って呼んで」とお願いするようになった。「下の名前、好きじゃないの」と付け加えて。
 そうして高校まで過ごした。
 周りの友人はみんな、どれほど仲良くなってもわたしのことは「田中」と呼ぶ。そうでなかったら、田中の「たーちゃん」だ。心地良い環境だった。
 だから改名なんて大事は思いつきもしなかった。

 転機があったのは高3の夏だ。
 その頃の母は連日、様子がおかしかった。馬乗りになって首を絞めてきたり、包丁を持ち出して自殺を仄めかしたり、いつにも増して凶暴だった。
 その中で、家族全員を集めて、「体を売ろうが、野たれ死のうが、薬漬けにされたっていいから消えてほしい。」「親子の縁を切りたい。」などと散々暴言を吐いたあとに、「あんたの名前はお父さんとお母さんと占い師の先生がみんなで考えた、最初で最大のプレゼントなんやで。それやのに全然名前に相応しい人間にならへん。名前返せるなら返してほしいわ。」と言った。父親も祖母も叔母も、誰も反対しなかった。その通りだと頷いた。祖父だけが、怒っていた。
 そこそこに傷付いた半面で、その手があったかとチャンスに気付いた。
 もし名前を返すとどうなるか。
 新しい名前が必要だ。
 新しい名前!
 それは素晴らしい発想だと思った。両親総意で名前を返してほしくて、わたしもこの名前で生きていくのが嫌なら、新しい名前を考えれば良いのだ。

 わたしはひとまず、SNSのアカウント名から変えた。仮に「幸代」だとする。
 「花子」と「幸代」ではまるで共通点がない。
 友人たちは初め困惑していたように覚えている。けれども「親にアカウントバレしたくないんだ」と説明すると、納得してくれた。徐々にリアルでもアカウント名で呼んでくれるようになった。
 けれども、まだわたしは法的な改名を考えてはいなかった。
 ただ秘密の暗号のように、仲の良い友人たちだけから呼ばれる「幸代」に、救いを感じていた。

 戸籍上の名前を変えようと考え出したのは、大学を中退したときだ。
 一人暮らしをしても度重なる母親の襲来があり、生活は安定しなかった。次第に鬱になった。大学やバイト先にまで母親が怒鳴り込みに行き、居場所はどこにも無くなった。付き合っていた彼氏の実家にも迷惑をかけた。
 母親とは無関係の場所で生きていきたい。そう強く思った。
 大学を辞めた後、一旦は実家に連れ戻されたが、その間に、親と無関係の場所で生きていくための準備をした。どうやったら縁が切れるかを考えた。

 まずは分籍した。これは同居していても簡単に出来る。本籍地は両親が思いつかないところに変更した。
 次に一人暮らしをして、支援措置をしてもらった。区役所とDV相談センターに相談をして、血縁者であっても、誰であっても、わたしの住所を調べられないようにしたのだ。
 さらに本人通知制度も適用してもらった。万が一誰かがわたしの住民票や戸籍謄本を取得しても、すぐにわたしに連絡が来る仕組みだ。
 そして、「改名」だと思った。あれほど名前にこだわりがあった母親との縁を切ることができる。かつ、わたしの居場所を特定するにも難儀することだろう。
 かなり勇気が必要だった。バレたら殺されるかもしれないと、本気で思った。
 けれども、それでも、コツコツと証拠品を集め出した。詳しい内容は後述する。

 とにかくそうして、名前の変更を決意した

 絶縁の準備をする中でも、花子と呼ばれる度に母親のことをフラッシュバックしたり、鬱が再発したり、パニックに陥ったりを繰り返した。けれどもその都度、ますます決意が強固になっていった。絶対に母親の呪縛から逃れるのだという一心だった

2.準備物

 以下、実際に裁判所に提出したものを記載する。
 できるだけ公的機関のものを増やせるように、日常からずっと気を張って、新しい名前(幸代)の使用をあちこちにお願いした。しかしながら、詐欺を疑われることも十分に考えられるため、真摯に事情を話して、ダメな時はスッと引き下がることが必要だと思う。相手のためにも、自分の身を守るためにも。

 ※証拠品の説明が続くだけなので、読み飛ばしてもらって全く構いません。

⑴証拠品

 証拠品は全て、弁護士の先生に依頼する前に、できる限り集めた。おおむね3〜4年分。

①公共料金の請求…42通(3年分)
 意外なことに、公共料金の請求先を変更することが一番簡単だった。
 「名前を変えたいと思っていて、資料を集めたいです。請求先を幸代にしていただくことは可能でしょうか?」
 そう、電話で問い合わせると、すぐに変更してくれた。水道・電気・ガスいずれでも、苦労はなかった。電話1本10分足らず。
 とにかく証拠がたくさん欲しかったので、コンビニ支払いにした。

②通信会社の契約書…1通(4年前のもの)
 身分証明書が必要ないポケットWi-Fiだけが新しい名前で契約できた。

③友人からの手紙…24通(4年分)
 改名といえばハガキ。改名といえば手紙。
 一にも二にもコレだ。
 本当のところ、裁判所が何通ほど求めているのかは分からない。分からないから不安になる。よそ様のブログやTwitterを読み漁って、5通で認められたと言う人もいれば、何十通も掻き集めたと言う人も見かけた。あればあるだけ良いと書いている人もいた。ウワサを元に動くしかない。それはもう、最後までずっと不安だった。
 しかもわたしの友人はほとんどみんな、わたしの母親から何らかの危害を加えられたことがあった。家に怒鳴り込みに来られた子、低賃金で労働させられた子、連日長時間の苦情電話に付き合わされた子。申し訳なくて、これ以上わたしたち親子の確執に付き合わせられないと思い悩んだ日もあった。もし友人が手紙を出したことを母親に知られたら、また迷惑をかけてしまうのではないかと不安になった。だから、なかなか友人たちに「ハガキを送ってほしい」と言えなかった。
 だけれども、悩んだ末にお願いしてみると、友人たちは快く何度も手紙を書いてくれた。本当に感謝しかない。
 とにかくコツコツと集めて24通。一番の力になった。

④配送伝票・納品書・郵便物…81枚(4年分)
 Amazonや楽天を始めとしたオンラインショッピングの宛先を全て幸代にした。後述のプリペイドカードのおかげで、苦労は無かった。

⑤会員カード・診察券…6枚
 美容院やショップカードは身分証明書を提出する必要がなく、簡単に作れる。
 問題は診察券で、保険証と名前が異なるためなかなかokしてもらえなかった。当然だと思う。それでも事情を話すと、カルテは花子・診察券は幸代と分けて作ってくださる病院もあった。とは言え、あちこちで事情を話すことが辛い精神状態のときもあるから、無理はしない方がいい。

⑥航空券…3回分(3年前からのもの)
 旅行の際に幸代で予約するだけ。
 万が一の事故の時に身元を確認できず航空会社さんが困るだろうと罪悪感はあった。けれども、家族に連絡を取られて居場所がバレても困るので、申し訳ないながら幸代で予約した。

⑦交通系ICカード…1枚
 駅の自動券売機で、記名式のカードを発行するだけ。簡単。
 ただし紛失時に再発行はできない。身分証明書が無いから仕方ない。

⑧銀行の通帳とキャッシュカード…1口座分
 持っている口座すべての、銀行支店にお願いに行った。
 当然のことながら、詐欺に使われる恐れがあるため、どこもokしてくれない。
 ところが1支店だけ、「詳しい話を聞かせてもらえますか」と仰ってくださった。
 1.背景に書いた内容をかいつまんでお話しして、証拠品の①公共料金の請求書②友人からの手紙③配送伝票をファイリングしてお見せしたところ、「分かりました」と許可してくださった。ただし、銀行のシステム上は花子を使用し、通帳とキャッシュカードには表向き幸代を印字するということだった。そのため、「なにか不正が疑われた際には身分証明書の提出などを求められることがあります。ご承知おきください。」と言い添えられた。本当に無理をしてくださったのだと思う。有り難い限りだ。
 (該当の銀行さん/支店さんにご迷惑をお掛けすることは本意でないので、名称の記載は控えます。)

⑨プリペイドカード…1枚
 クレジットカードはどこも新しい名前の使用は認められなかった。これもまた当然だと思う。認められてしまえば、いつか犯罪に使われてしまうだろう。
 しかしそうなると、幸代としてネット注文が出来ない。航空券も本人名義じゃないから予約ができない。
 そこでVISAのプリペイドカードを発行した。銀行と同じように事情を説明して、花子の身分証明書と銀行のキャッシュカードも提出した上で、カードにSACHIYOと印字してもらった。
 これでほとんどの買い物は困らなくなった。(VISAのプリペイドカードには、リアルカードを発行してくれるところもあり、ほとんどクレジットカード同然に使用できる。)
(ただしプリペイドカードでは弾かれてしまう買い物はちょくちょくある。それは諦めるか、割り切って旧名のクレジットカードを使うしかない。)

⑩社員証と毎月の給与明細…1社分(1年分)
 以前勤めていた会社では通称が一切認められず、ずっと花子として過ごしていた。
 ところが転職先は税務関係と社会保険関係以外の全てのシステムで通称が認められていた。総務以外、誰もわたしが花子だとは知らない。証拠品としても助かったし、それ以上に、花子と呼ばれることのないストレスフリーの環境だった。
 本名を呼ばれる苦痛を感じていて、改名が許可されず辛い思いをなさっている方は、通称が認められる会社を探してみるのも一手だと思う。

⑪友人とのメールとSNS…3通(7年前のもの)
 弁護士の先生からは、「偽造しやすいメールやSNSは証拠にならないから提出しないでおきましょう」と言われた。そう言うものかと思って納得したけれど、念のためにお守りとして、スクリーンショットをスマホに保存しておいた。
 これが後々、かなり救いとなる。

⑵証拠説明書

 ⑴の証拠品全てに説明書を付けた。
 標目、受け取った年月日、送ってくれた企業や人、立証趣旨を一覧にしたものだ。
 こちらは弁護士の先生から「必ず付けるべきです」と後押しされた。余力がある人は作っておいて損は無いと思う。

⑶申立て書

 申立て書にはほとんど何も書かなかった。
 書くべきことは陳述書に詰め込んだから。
 もちろん陳述書を添付せずに、申立て書に事情を書き切ることも正解の一つだろう。
 ただ、こちらも担当弁護士の先生からの勧めでこのようにした。

⑷別紙-陳述書(具体的事情)

 申立書に何も書かなかった代わりに、別紙A4用紙6ページに具体的な事情を書いた。
 内容は、1.背景 に、旧名(花子)を使うことでの苦労などを付け加えたもの。同情を誘う必要はないけれど、裁判官も人間なので、困っていることを真摯にお伝えすることは大切だと思う。

⑸ 申立人の戸籍謄本(全部事項証明書)

 これは後に依頼する弁護士の先生が、取り寄せてくださることもある。
 ただ、わたしの場合は支援措置をしていたため、他人(弁護士含む)が戸籍謄本を取り寄せるには手間と時間がかかった。急ぎの場合はサクッと自分で出向いた方が早いかもしれない。

3.弁護士への依頼

 証拠品を集め出して3年。
 「花子」を見聞きすることが限界だと思い始めていた。「証拠品は5〜10年分必要」とどこのサイトにも書いてある。しかし、自分の力では変えられない日常に、閉塞感があった。どうにか打破したい。
 無理を承知で、2.-⑴証拠品を全部持って、市役所の法律相談に行ってみた。改名の手続きは自分で申請することもできる。でも、一生に一度あるかないかの大事を前にして、知識も経験もない自分が一人で動くなんて、不安で堪らなかったのだ。
 担当の弁護士さんは、20分ほど事情を聞くと渋い顔をしていた。
「かなり厳しいですね」
 あぁ、断られるんだなぁ。と思っていた。ところが、
「だけど貴方に、何もせずあと2年我慢してなさいとは、言いたくない。頑張ってみましょう」
 そう言って、力強く、頷いてくれた。
 それが昨年の3月のことだ。

 まずは法テラスに申請した。
 ネットで調べると、改名にあたっての弁護士費用は着手金4万〜15万円、さらに成功報酬3万〜5万円とかなり高額なものを目にする。しかし法テラスから提示された金額は、実費着手金合わせて2万円ちょっとで、成功報酬無しだった。相場に比べるとかなりリーズナブルだ。面談の度に10分いくらの相談料が掛かることもない。申立てに必要な諸経費(800円ほどの収入印紙や連絡用の郵便切手など)も含まれている。
 それが4月

 そこからが長かった。
 5月から3回に渡って、弁護士の先生と毎月面談をした。まず、「スパンが長いな」と感じた。毎週か、なんだったら連日じゃダメなんだろうか。でもチラリと覗いた先生のスケジュール帳はパンパンだ。1時間毎の予定がギュウギュウに詰まっているらしい。そうなると、納得せざるを得ない。とにかく毎月きっちり、面談をする。

 面談では1.背景 に書いたような内容を、トータルで6,7時間伝えた。話した内容を先生が陳述書にまとめてくれて、間違いがないかチェックして、修正して、またチェックして…。を繰り返す。間違いだけではなく、針小棒大になっていないか、メンヘラって過剰なアピールになっていないか、辻褄の合わないところはないかなども確認する。
 これが辛い。
 思い出したくないことを繰り返し、詳細に丁寧に書き出さないといけない。面談中に泣いてしまうこともあれば、腹立たしさで拳を握りすぎて血が出ることもあった。面談のあとは毎回体調を崩して寝込んだ。
 母と決別したい。本心だ。
 だけど、当時母に優しくされたかった気持ちは消えていない。風邪を引いたら、鼻声をせせら笑われるんじゃなく、看病されたかった。学校での楽しい会話を、母と共有してみたかった。大きな声での「ただいま」を許されたかった。運勢なんて強くなくて良いから、穏やかに家族3人で食卓を囲みたかった。他人のふりなんてしたくなかった。機嫌のいいときにだって、「花子」と呼ばれたかった。
 父に味方してほしかった。父は優しくて頼もしくて、面白い。だけど母の味方だ。母に殴られて辛くても「お母さんの言い分も聞いてみぃひんとなぁ」と言う。母に裸にされて脇毛を一本一本抜かれる気持ち悪さを訴えても「お母さんの気遣いなんちゃうか」と言う。名前を呼んでほしいのにと泣いたって、「お母さんも苦労してるんやから協力してやり」と言う。わたしがすっかり諦めた頃に、父の気まぐれで母へ意見することがあっても、説得には至らない。ずっと、父はわたしの味方じゃなかった。
 今優しくされたいわけじゃない。でも、優しくされたかったあの頃の気持ちは、抱え続けている。
 陳述書に記載しないことも、洪水のように頭に流れてきた。フラッシュバックを抑える薬を服用していたって、なんともならない。昨日のことのように悲しくて、悔しい。
 過去に振り回されて、感情が揺れるなんて、バカバカしい。そう思うのに、冷静で居られない。
 一人なら、諦めてしまっていたと思う。
 でも、もう他人を巻き込んでしまっている。弁護士の先生ももちろん、手紙を書いてくれた友人たちに、「やっぱり辞めます」なんて言えない。退却できない。背水の陣だ。
 面談を通して、弁護士の先生が母に憤ったり呆れたりするのを見て、「あぁ、やっぱり普通じゃなかったんだな」と再認識した。わたしの認知が歪んでいるわけではないらしい。
 そうして7月の初め頃に、陳述書が完成した。

 それから、
「今月末には裁判所に提出できるよう頑張りますね。気になるようでしたら、いつでも催促の電話もしてください。尻叩きにね」
 と言われた。ハッハッハ!と笑っていた。
 証拠品の選別をするそうだ。
 消印が薄いものを除外したり、そもそも日付が分からない書類を除外したり。裁判官さんが見やすい体裁を整えることもする。そして2.-⑵証拠説明書も付ける。
 それから申立て書や陳述書と一緒にまとめて、冊子にして、裁判所に郵送するらしい。

 大変な作業だ。
 頭が下がる。
「よろしくお願いします」
 と実際に頭を下げて、法律事務所を後にした。

 そして8月
 弁護士の先生から、連絡が来ない。
 どうだろうか。「催促してください」とは言っていたが、本当に催促の電話をしてしまったら気を悪くしないだろうか。何日か待てば連絡が来るんだろうか。
 数日逡巡して、しかし結局電話した。
「すみません、いつ頃になりそうですか」
「ごめんなさいねぇ、お盆明けには必ず!」
 お盆明け。お休みを返上して作業なさるんだろうか。そこまでしてくださるなら、文句は言えない。
「分かりました、よろしくお願いします」
 引き下がって、電話を切った。

 さらにお盆明けの17日。
 やっぱり、電話が来ない。
 催促の電話をするのも気が重い。お世話になっていて、忙しいと分かっている人に向かって、急き立てるような真似はしたくないものだ。お金も相場ほど十分に支払っているわけではない。法テラスの決めた正規の金額とは言え、労力には見合ってないだろう。
 でも、放って置かれていないか不安もある。
 焦りもあった。秋までに名前を変えたかった。だけどそもそもが一か八かの勝負に出ているところで、「秋までに間に合わせたい」なんて我儘、呆れられると思って言えなかった。
 あんまり権利を主張しすぎる客にはなりたくない。だけど、約束したのだから…。と思って、電話をした。
「どうでしょうか」
「実は事務員がコロナにかかってしまって。証拠品を整理する担当だったんです。9月の頭にはなんとかなると思います。」
 コロナ。聞いた途端に、「あぁ…」と息が漏れた。あのご時世、みんなが避けたくても避けられないあのワード。
 仕方ない。誰が悪いわけでもない。
 だけどどうしたって、落胆の色を隠せなかった。ままならない、悔しさが滲む。人生の節目に居るのに、自分で出来ることが少なすぎる。弁護士に依頼すると決めたのは私なのに、身勝手なことを思う。
「先生もお身体お気をつけて」
 そう言って、電話を切った。

 結局、名の変更の申立てを裁判所に提出できたのは、9月の中頃だった。ここまで、弁護士の先生に依頼をしてからほぼ半年

 とにかく時間がかかるものなのだと思い知った。慎重に丁寧に進めたい場合は、弁護士に相談するのは有用な一手だ。でも、速さが伴うとは限らない。(個人差もあるだろう。)
 依頼時に、提出する目標時期を決めておくべきだった。弁護士の先生との面談やレスポンスのスパンも、最初に聞いていれば、こんなに不安になることもなかったと思う。
 なにごとも「そういうものなんだな」と知ってしまえば、気が楽だ。

4.裁判所への申立て

 さて、9月中頃に郵送で申立て書を提出した。
 内容は 2.準備物 に書いた通りだ。

 しばらく待って、ちょうど1ヶ月後に、弁護士の先生から電話があった。
「10月◇日の午後か、11月△日の午前に裁判所に来るよう伝達がありました」
 とのこと。
 どちらも都合が悪ければ、再度調整してくれるそうだが、先に先に伸びていくばかりだろう。わたしは仕事との兼ね合いで、11月を希望した。
 本当はいち早く結果が出てほしいから、10月にしたかった。でも、仕事を休んだりサボったりして、悪い結果だったら、「バチが当たったんだ!」と感じてしまいそうだなと思った。そんなことで神様もバチなんて当てていられないだろうけど、とにかく徳を積みたい気分だった。
 とにかく裁判所へ行く日が決まった。
 11月。あとさらに1ヶ月待つことになる。
 毎日緊張していた。緊張しすぎて眠れない日が続いた。
 ダメだったらどうしよう、とウジウジ悩んでいた。悩んでいたって解決されないのに、悩むことは辞められなかった。
 だけど一方で、結果がどうであれ、友人にもらったお手紙は全部宝物になるんだと確信があった。いただいた応援が目に見えて残っている。それは名前が変えられなかったとしても、幸せなことだと思った。緊張してネガティブになることが失礼なぐらい、本当に幸せなことだと思った。
 (心配したり幸福を感じたり、ちょっと情緒不安定だった。)

 裁判所へ行く日の1週間前に、弁護士の先生と最後の面談をした。
 先生が整えてくださった準備物を見て、「これだけ揃えたんだから、大丈夫だろう」と思うのに、何故か不安を感じた。
 受験の面接みたいだった。対策しても対策しても、初めてのことには不安がつきまとう。
 入社面接で同じことを感じる人もいるだろう。
 虎の巻があったら良いのに。何度も思った。

 そして当日を迎えた。
 かしこまる必要はないと弁護士の先生から言われていたが、念のためにスーツを着ていった。アクセサリーは全部外して、自爪で、黒髪。カラコンも茶色を選んだ。就活の面接に準じた。
 裁判所の待合室で、弁護士の先生と待ち合わせをした。
 裁判所は思っていたより、ものものしい雰囲気はなかった。持ち物検査がある以外は、特別なこともない。子供もいるし、お年寄りもいるし、裕福そうな人もいるし、切羽詰まっている人もいる。大学病院の待合室に似ていた。
 約束の時間に、約束の部屋へ通される。
 参与員さんが出迎えてくれた。
 名の変更の家事事件は、裁判官さんではなく、参与員さんが面談をしてくださる。当日中に、面談の内容を参与員さんから裁判官さんへ報告しに行って、結果が出る。
 面談室は、大きなテーブルにグルリと一周椅子が8脚置いてあって、それだけで部屋がいっぱいになる広さだった。
 参与員さんがあちら側、弁護士の先生とわたしがこちら側。対面して座る。
 弁護士の先生が提出してくれた準備物はあらかじめ、参与員さんと裁判官さんが目を通してくれている。全て読んだ上で、挨拶のあとの、参与員さんの第一声は厳しいものだった。

「他に証拠品はありませんか。」

 A4用紙で200ページ近い資料を提出していた。出せるものは全部出した。他にあるわけない。
「2019年からの資料は充分にありました。頑張っていらっしゃる。とてもよく分かりました。でも、慣例として5年以上の記録が必要です。2019年より前の証拠はありませんか?」
 分かっていたことだが、やはり3年だけでは足りなかった。例外はないんだ。
 絶望感と共に、声が詰まる。
 弁護士の先生は間髪入れずに、弁明してくれる。
「慣例として5年以上必要なことは重々承知の上で、今回の申請に至りました。本人は今、こんなにも苦しんでいます。誠実に生きているのに、名前が足枷になってしまっています。あと2年待ちなさいとは、私は心苦しくて言えませんでした。どうか慣例ではなく、本人の現実を見てあげてくれませんか。」
「実家にいたときは母に見つからないように、証拠は残らないようにしていました。一人暮らしを始めてからの証拠しか集められなかったです。」
 参与員さんは、困ったように眉尻を下げた。
「お気持ちは分かりますが…。これでは裁判官を納得させることができません。私にも、説得材料が欲しいんです。
 優しそうな、穏やかな話し方だった。本当に心から寄り添って考えてくれていて、困ってくれているかのようだった。
「幸代さん、…とお呼びしますね。幸代さん、なんでも良いんです。なにかメール1通でも残っていませんか? LINEなどでお友達と会話した履歴は残っていませんか?」
 メール1通でも。
 その言葉が、ピカピカと輝いて聞こえた。
「印刷してきてないんですが、良いですか?」
「えぇ!えぇえぇ、もちろん構いませんよ!」
 『メールやSNSのスクリーンショットは改ざんされる恐れがあるから、証拠品にはなりにくいんです。』と弁護士の先生に言われて、提出しなかったメール2通と、SNSのスクショ1枚を、スマホにお守りがわりに保存していた。
 メールはひらがなで「さちよ」と呼ばれているもの、SNSは「さっちー」と呼ばれているもので、漢字の使用証拠にはならないようにも思えた。
 それぞれ、スマホの画面を参与員さんに見せる。拡大したり、文面の確認をしたり、特に日付を確認した。
 一番古いもので2014年、次に2016年、2017年とあった。つまり8年前、6年前、5年前だ。
「他にはありますか?」
「いえ、機種変更をしたりして、これしか残ってないです」
「機種変更…そうですね、5年以上となるといろいろありますものね。うん。分かりました。裁判官にはこの証拠品を目視で確認したと伝えましょう。」
 参与員さんがササッとメモに控えた。
 面談室の空気が、一変した。
 どんよりと重たく暗い空気から、一筋の光が差し込む明るい空気へと変わったのが分かった。
「幸代さんにお伺いしますね。名前を一度変えると、もう元に戻すことはできません。新しい名前で生きていく覚悟はありますか?」
「はい。あります。」
「新しい戸籍が両親にバレて困ることはありませんか?」
「支援措置を続けるので、バレることはそうそう無いんじゃないかなと思います。」
「分籍したのは改名を視野に入れてのことですか?」
 ようやく、面談の本題が進み始めた。
 土俵に立てた実感がある。
 いくつかの質問に応えて、悩んだり言葉に詰まったりしたときには、弁護士の先生が助け舟を出してくれた。
 面談開始から20分ほど。参与員さんは大きく頷いた。
「分かりました。幸代さんに伺った内容を、裁判官に報告してきます。待合室でお待ちください。
 待合室で過ごしたのは、ほんの10分ほどだった。なのに、随分と長いように感じた。
 ダメかもしれないと考えるのも怖かった。どうか許可されますように。ただひたすら祈った。
 あまりに緊張していて、顔色が悪かったらしい。弁護士の先生には何度も心配された。

 そして、ドアがノックされ、参与員さんが現れた。
「どうぞ、面談室にお戻りください」
 先程同様に、面談室であちら側とこちら側に別れて座る。参与員さんの表情からは、まだ何も分からない。
 心臓がはち切れそうだった。間違いなく、人生の節目に立っていた。
「結論からお伝えします」
 そして、破顔。参与員さんがニッコリと笑った。

名の変更が認められました

 それ以上、参与員さんの顔を見ていられなかった。頭を下げて、俯いて、
「ありがとうございます」
 を絞り出した。上手く声にならなかったと思う。追いかけるようにして、涙が出た。
 俯いたわたしに代わって、弁護士の先生が深々とお礼を言っているのが、聞こえた。
 あぁ、これで。やっと。

 参与員さんはニコニコと続けた。
「メールが決め手になりました。3年分しか証拠がなくて、それより前のものがメール3通しかなかったのはかなり厳しかったです。ちょっとだけ特別と言って良いかもしれません。でも幸代さんには、新しい名前になる強い覚悟がありましたから、頑張って説得しました。
 これからご自身の人生を歩んでください。」
 ちょっとだけ特別。それはリップサービスだったかもしれない。だけど本当に特別な宝物になった。
「さぁ、書記官室へ手続きに行きましょうか
 参与員さんに促されて、退室する。
 次の部屋では書記官さんが出迎えてくれて、身分証明書を求められた。マイナンバーカードを見せて、5分ほど待つ。
 弁護士の先生に「メールが有用証拠になるとは思っていませんでした、ごめんなさい」と謝られた。あれほどの準備をしてくれたのだ、責める気持ちはない。「いえ、先生が作ってくれた土台のおかげで、ここまで来れました」そう言い添えて、また、頭を下げた。
 書記官さんに呼ばれて、書類にサインをしたら、念願の審判書を手渡された。

実際の審判書謄本(一部)

 審判書を本籍地の役所に持っていけば、名の変更が完了する。
 審判書を手にして、じわじわと喜びが広がった。ようやく。ようやく、ここまで来た。

 裁判所から出ると、太陽が眩しく感じた。晩秋なのに、心なしか暖かい。
 弁護士の先生が、珍しく明るい声で呟いた。
「こんなに晴れやかな気持ちで裁判所を後にするのは、随分と久しぶりです」
 裁判では負けることもある。勝っても複雑な心境なこともある。勝ち負けではなく、ただ悔しいこともある。それは今までの会話でよくよく聞いてきたことだった。月に何度も裁判所に来る弁護士の先生が、今日を特別な日に感じてくれていた。
 晴れやかな門出だった。

5.役所での手続き

 さて、審判の翌日も、休みを取っていた。
 改名が許可されなかったら、一日中泣いて過ごすはずだった。まともに仕事なんて出来ないと思っての、休みだった。

 しかし、そうはならなかった。改名は許可されて、やるべきことは山ほどある。
 まずは審判書謄本のコピーを取った。カラーで1部、白黒で2部。さらにカラーでスキャンもしてスマホに保存しておいた。今のコンビニは大変便利だ。
 役所で審判書を提出してしまうと返ってこないので、必ずコピーは取るべきだ。その後の各種変更手続きに必要となる。

 そして朝イチで本籍地の役所へ行った。
 審判書を提出すると、「名の変更届」の書類を用意してくださる。

 この届によって、名の変更がなされる。
 戸籍が新しい名前に書き変わるのは1週間ほどあと。戸籍謄本を取得できるのもそれ以降だ。
 そして1,2ヶ月ほどで法務局への申請が完了するそうだ。
 そのような説明を受けて、役所を後にする。

 まだこの時点では、各種サービスの名前を変更することはできない。
 しばらく待つしかない。だけど、晴れ晴れとした気持ちで待てる。ワクワクする。
 昨日までの「待つしかない」より、ずっと清々しい。

 1週間後に、現住所の方の役所に行った。戸籍が書きかわった頃だから、てっきり住民票も書きかわっている頃だろうと思ったのだ。
 ところが、まだ名の変更はなされていないと言う。
 説明によると、住民票の書きかえは郵送で行なわれるらしい。①本籍地の役所が手作業で戸籍を書きかえをすると、②現住所の役所へ手紙を書く。③その手紙が郵送で届いたら、④これまた手作業で現住所の役所が住民票の書きかえをする。かなりの人力手法に驚いた。マイナンバーカードがあるんだから、てっきり電子でチャチャッと書き換えされるのだと思い込んでいた。大変な作業である。
 さて今の段階はまだ①が完了したばかりだ。
 「本籍地の役所=現住所の役所」であれば、郵送のやり取りが省略されるので、もっと早いらしいが、私の場合は「≠」だった。この日は何も手続きできず終いだ。
 いつ④が完了したか、という連絡は来ないらしい。まぁわざわざ一人ひとりに連絡するのはどだい無理な話だろう。
 目安として、名の変更届を提出してから大体2週間ほどで住民票の書きかえも完了するそうだ。わたしはとてもせっかちさんだったようだ。確認不足で情けない。

 さて翌週、改めて現住所の役所へおもむいた。
 この日も仕事の休みを取った。やることだらけなので、時間に余裕を持っていくべきだ。

・マイナンバーカードの書き換え
・(国保なら)保険証の新規発行
・年金証書の再発行
・支援措置の新規申請
・障害者手帳の再発行
・ワクチン接種証明書がどうなるか

 必要な手続きはこの辺りだろうか。
 順番に手続きの内容を書いていく。

⑴マイナンバーの書き換え

 さて、マイナンバーは再発行してもらいたいと考える人も居ると思う。
 せっかく新しい名前にしたんだから、心機一転したい。前の名前とは決別したい。当然だ。
 だけどオススメとしては、身分証明書の内1枚だけでいいから、旧名と新名の併記されたものを持っておく方が便利だ
 併記されたマイナンバーカードがあれば、後述の銀行・クレカ・携帯電話会社の改名手続きで、戸籍謄本や審判書謄本の提出を省略できる。とにかく面倒が減る。
 全ての手続きが終わってから、改めてマイナンバーカードも再発行する。というのも手だと思う。
 さて、マイナンバーカードの追記をしてもらってる間に、その他の窓口へ手続きに行っておいた。この頃、マイナポイントの駆け込みでマイナンバーカード関連の待ち時間は、ゆうに2時間を超えていた。

⑵保険証の新規発行

 こちらは併記ではなく、新規発行にしてもらった。
 その場で幸代の身分証明書が手に入る。見慣れた身分証明書に新しい名前が印字されているのを見ると、喜びもひとしおだった。

⑶年金証書の再発行

 年金手帳は自分で名前を書き込むだけなので、役所での手続きは不要。
 但し、既に年金を受給している人は手続きが必要なので、申請すること。

⑷ 障害者手帳の新規発行

 こちらも新しく発行してもらった。
 後日手渡しなので、ちょっと面倒が増えるけど。

⑸ 支援措置の新規申請

 こちらはマイナンバーカードまたは障害者手帳の発行が済んでから行くこと。新しい名前の身分証明書がないと申請が出来ない。

⑹ワクチン接種証明書について

 わたしが名の変更をした頃は、新型コロナ対策真っ只中だった。どこへ旅行するのにも、イベントへ参加するにも、ワクチン接種証明の提示を求められた。
 ところが、接種証明の名前の変更はできないと言われた。(わたしの住んでる地域だけかもしれない。)
 そうなると、接種証明とともに、戸籍謄本か審判謄本、もしくは新旧名併記の身分証明書が必須になる。かなり面倒。
 仕方なく、ワクチン接種券を新しい名前で再発行してもらい、後日、予定していなかった4回目のワクチンを打った。これで新名のワクチン接種証明を手に入れることができた。

6.各種サービスの変更手続き

⑴病院

 保険証を持って行って、「名前が変わったので診察券の変更お願いします」と言うだけ(5軒に1軒ぐらいは新旧名併記の身分証明書を求められるので注意)。
 すぐに新しい診察券が発行される。

⑵銀行

 銀行の窓口に行って、通帳とキャッシュカードを提出する。マイナンバーカードを見せた。マイナンバーカードに旧名が記載されていない場合は戸籍謄本か審判書謄本が必要になる。らしい。
 通帳はその場で新しいものを発行してくれるけれど、キャッシュカードは後日自宅まで郵送。わたしの場合、自宅に届くまで旧名のカードを使えた。ただ銀行によって異なるかもしれないので、要確認。
 「改姓届」しかない銀行もあって不安だったけれど、改名にも代用して良いらしい。

⑶クレジットカード

 銀行が終わったら、次はクレジットカードだ。こちらもマイナンバーカードを見せる。
 カード再発行になるため、そこそこ時間がかかる。急ぎの買い物がある場合はタイミングを見計らった方がいい。
 とは言え、変更の手続きそのものに苦労はなかった。わたしの場合はメール何通かの往復するものと、アプリで完結するものとあった。
 必ず銀行口座の名前を先に変更しておくこと。

⑷携帯電話会社

 手続きが1番面倒だったのは携帯電話会社だった。3つの携帯電話会社の内、1つはネット申請だけで変更できたが、2つはそうもいかなかった。対面または郵送。郵送て。いまどき。
 でも、めんどくさい反面で、有り難くもあった。
 家族がわたしの個人情報を入手しようとしても、携帯電話会社から漏れることはないに等しいわけだ。本人のわたしがこんなに苦労するんだから、きっとそうだ。きっとそうだろうと思える安心感で、今日も生きていける。
(ちなみに対面必須のとある携帯電話会社は、本人確認のために、身分証明書以外に、新しい名前のキャッシュカードまたはクレジットカードが必要だった。審判書は不要。改名前になんのカードも持っていない場合は、携帯電話会社の改名手続きもうんと先になる。とってもめんどくさいけれど、そのめんどくささが貴方を守ってくれているのだと思ってほしい。)

7.さいごに

 手続きはこれで全部。
 さて。わたしは名の変更が認められて半年後、彼氏と結婚した。もちろん夫の姓を選んだ。

 田中花子はもうどこにも居ない。

 誰にも殴られず、誰にも虐げられず、生きていける権利を手に入れた。思っていた自由とは異なるけれど、少しずつ、フラッシュバックも減ってきた。
 たぶん幸代は強運の名前じゃない。でも、花子よりずっと、幸せになれると思う。

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