「勘違いボランティア」が「間違えた支援」をすることのおそろしさ
「わたしがしてやってるんだから」「受け取ってもらって当然」こういうの、ほんと迷惑。ただの押し売り。
「なんでも聞いてあげなきゃ」「それが寄り添いでしょ」それ、ただの甘やかし。
「個に寄り添う」とは、なんでもかんでもわがままをきいてあげることじゃない。
「まにあわない」なら「こうしたらまにあうかもよ」と提示したり
「前もってれんらくしてみたら?ダメ元でも。」と促してみたり
「窓口に行く手続きをサポートするよ」と行動を後押しすることが
「支援」であるはずだ。
逆もまた然り。
「え??ただなんだから、別にいいじゃんこれぐらい」
「どうせただでもらえるんだしもういらない。」
「ほしくないのにくれよった」
「あっちだってやりたくてやってるんだから、こっちもやりたいようにでいいね」
無償であるがゆえに、無償性につけこんで?なのか
受け取るほうもまた横柄だったり・・・
「ボランティア」「支援」とは、本来そういうものではないはずなのに、
いつしかこんなに歪曲してしまっている、というのは、あちこちで耳にはしてきたけれど、やっぱり見聞きと実体験は雲泥の差がある。
生まれ育った沖縄で、子育て教育支援とか、地域づくり事業とかに直に携わったり運営してみることで目の当たりにするものは、なかなかのインパクトだ。
あまり詳しくはかけないけれど、本当に嫌な思いをすることがここ最近増えている。
もちろん、うれしいことや温かな気持ちになることもたくさんあるけれど。
「思考が現実化する、すべては自分の投影だ」というのを適用するならば・・・
そうだな・・・きっと私の奥底にもそんな「エゴ」がいるのだろう。
だから、書いておこう。目を背けずに。
「ボランティア」「支援」は振りかざすものじゃないし、
なんでもかんでも、やってもらって当たり前じゃないんだよ。
間違えた寄り添いは、依存を生む
愛のある厳しさは、信頼へつながる。
時には、「これは違うんじゃないか」「筋が通らないのでは」と一石を投じる勇気だったり、誠実に毅然とした態度で臨むことが必要な「支援」のときもあるわけで。
そこらへんの見極め・使い分けが、教育支援の場面では本当に重要だし難しい・・・。
自戒の意味を込めて、記事にしておこう。。。。
いただいたサポートは、このnoteのおよび、私が代表をつとめる地域団体「食と農の学び舎BASE」の運営に充てさせていただきます♩