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本物の、家庭支援を考える。

生まれ育った沖縄の地で
子どもたちと関わる活動・仕事に従事して、
約20年。

いわゆる、「気になる子」の家庭環境には、ある程度共通して決まったパターンがあると言い切っていいいのではないかと思ったので、もういっそのこと書いてしまうことにした。
(もちろん全部そうだと決めつけるわけじゃない、9割くらいはそうじゃないかという感覚だ。)

一言で言うならそれは、「家庭の礎が極めて脆く弱いか、もしくは、ない」だ。

たとえば
家族の人間関係が希薄だったり、
対話的でない、
子どもの特性に寄り添えていない、
家事をやるなど生活力を鍛える基盤や役割意識を育てる機会がないなどが、
とても多く見受けられる。

また、
習い事や学童に預けっぱなし&学校に任せっきりで、
子育てに対して主体的でない家庭がとにかく多い。
仕事が忙しい、共働き、ワンオペ育児、ひとり親、貧困、単に自分本位で生きたいだけの親、、
事情は実にさまざまだ。


そうかと思ったら、どこか親ヅラだけはしっかりしてて、子どもにあぁしろこうしろ、と威圧的態度をとる保護者もいるし、

物質的には豊かに暮らしているけれど、精神的には貧しい、「情緒ネグレクト」な家庭も、かなり多く、愛着障がいのような子どもたちも、とても多い。

関わってみたら、一発でわかる。

本当に、「難しく、気になる」子どもたちだ。


こういった子どもたちは、家庭という温かな居場所で
ありのままを受容される経験をしていないため、
自己肯定力が育っていない。
生活体験が乏しく、また、これなら熱中するからと、ゲーム機やタブレットなどを与えられ、デジタルデバイスばかりに偏りすぎて感覚を刺激するような遊びや活動をしていないため感覚統合も弱く、運動がぎこちない。ぎこちないから、やらない、いつまでもニガテのまま。社会性も身につかない。

(もともとの、お子さんのこだわり気質と過集中が組み合わさって、さらにそこに、ゲームを与えるという環境で強化された結果、起きてるパターン。ほんとに多い。)

感覚統合が弱いと、情緒の育ちも弱くなる。
ちょっとしたことでも踏ん張りが効かないし
ストレス耐性もびっくりするくらい低い。
学校や園で少しだけじっと話を聞くのができない、
ルールを守れない、友だちと一緒に過ごせない、少しでも自分の思い通りでないと癇癪を起こしたり不登校や行きしぶりを起こす。

こういった、表に現れている不適応や困った現象だけがクローズアップされ、
「発達障がいでは?!」

と 「誤認識」され、また、「まちがった合理的配慮」がなされているパターンの多いこと。。。。

(もちろん、そうじゃないケースもある。ただ、そういったケースは、すでに保護者の方が適切に動いて、学校や専門機関と適切に連携をとって、しっかりと手が行き届いているので、こういった「拗らせ事案」には至っていない。)


家庭に礎がなさすぎて、子どもが学校や園、その他さまざまな場面でうまく立ち行かなくて、私たちのような地域団体、行政や福祉の専門機関、SSWさんなどがなんとかリーチするけれども、やっぱり難しくて・・・・の堂々巡りになるパターンに対し、
「無理してがんばらなくていい、とか行かなくていい」
「そのままでいい」とか、「ゆるめる支援」をしてしまうと、
鍛えられたり育まれる機会が、さらに遠のくため、問題をかえって大きくしてしまう。

「緩める支援」が適切なパターンというのは
*いじめやDVなど、誰がみても明らかな理由で心が深く傷ついている
*いじめなどはないけれど、何かしらの「思い込み」とか「不安」「恐怖」などで著しく心身が固まって動けない、萎縮しすぎている
*強すぎる「べき」思考により自分も周りも不幸にしている
*自分の良さに気づけない、自己否定が強すぎる

などといったケースに対して言えることだ。


それ以外の、
精神的に未成熟であるが故の未熟な思考や行動、誤学習(泣きわめいたり、当たり散らせば要求が通ると勘違いしている、逃げれば済む、黙っていればやらずに、行かずに済むなど)とか、試し行動や要求(背景には愛着形成の課題がある場合も。)や、その他、自己防衛で逃げ回っているパターン
などの場合には、「緩める支援」は逆効果であり、むしろ害になる。


「この子には向かないから、させない
この子にはあわないから、無理させない」

それは、
合理的配慮とは言わない。
優しさでもなんでもない。


ほんとうの合理的配慮とは、

子ども自身が困り感を感じた時に
①助けて、を自分で言える力を育てる
②自分なりの対処を身につける

ために、適切な、安心して自分に向き合える環境を用意し、
ともに、気長に頑張っていくことであるはずだ。

「おとなが先回りして困り感がない環境をつくって」は
いけない。

「学校に行けないから、代わりの場所をさがす」ことだけが不登校支援ではない。

そんなのただの付け焼き刃の対応だ。
根本解決にはならない。

本物の支援や配慮とは

「良質」な葛藤やジレンマ、
「良質」な困り感を経験させて、

どうやったらうまくいくか、
自分の強みは何か・弱みは何か、といったことに対し
徹底的に寄り添い、
徹底的に
一緒にがんばることだ
と、私は思っている。

スモールステップで、とにかく
それをコツコツ粘り強くやることだ。

地域の学び舎にできることは、
それしかないと思う。

しかし、はっきり言って、それは非常に難しいことが・・・多い。

彼らが、礎のない家に帰れば、
変わる気のない親のもとに帰れば、
すべては、「リセット」されるのだから。。

言い方が悪くて申し訳ないが、
そういう現状が、とにかく、多い。残念な話だ。

きっと、この記事を読んでいてくださる方には、そんなことは
ないかもしれないけれど。(と信じて、そういう前提で書いています。)



私たちのような、地域教育活動の場で求められるのは、
あたたかな受容的関わりと、
毅然とした指導的関わりの絶妙なバランスをもちながら
また、適度な距離感や俯瞰した立ち位置で

子どもとその周りをぐるっと

ふわっと 包みこみながら
一緒に育ち合うことだと思う。

また、親のことも、気長に見つめていく必要があるだろう。。。

なぜ、我が子のことに向き合えないのか、学ばないのか、覚悟ができないのか。

きっと、掘っていくと、親自身も同じような課題を抱えていることだろう。

時に、非常に耳が痛い話だが、家庭環境っていうものは、親の考え方とかマインド、習慣は、よくも悪くも、連鎖するものだ。

負の連鎖は、断ち切ってしまいたい。

「自分の育った家では、ちょっと親があまり機能していなかったけれど、地域のあの場所があったから、勉強頑張れて今がある」とか
「今思えば、あの場所で会った仲間が、支えになったな」

とか、そんな声が10年後に聞かれることを信じて、今できることをやるしかないのだ。

いただいたサポートは、このnoteのおよび、私が代表をつとめる地域団体「食と農の学び舎BASE」の運営に充てさせていただきます♩