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夏の彼方

 何かが変わると思った。
 根拠はなかった。漠然とした淡い期待だけがあった。
 今の自分がどこまで遠くに行けるのか、自分の限界を確かめたかった。
 この夏に。

「はぁ………」

 書き置きを残して家を出て、電車を乗り継いでこの海辺の町にたどり着いた。駅前には寂れた定食屋が一軒あるだけ。人の活気を求めて宛てもなく町を彷徨いこの浜辺までやって来たが、途中で遭遇した相手と言えば縁起の悪い野良の黒猫が一匹。どうしようもなく、ここは田舎と呼ばれる土地だった。

「変わるもんがないんじゃ、変わりようもないか」

 浜辺の防波堤傍にポツンと佇んでいたベンチに腰を落ち着け、眼前に広がる夕日に照らされた海原をボーっと眺めていると、自分がどうしようもなく場違いなところに来てしまったように感じた。心細かった。物言わない海にすら気圧されているのかと自分が情けなく思えた。

 ———金ももう無いし、これからどうするかなぁ。

 さしあたり今夜の寝床と食い扶持をどうするか思案していると、波の音しか流れていなかった砂浜に凛とした声が響いた。

「ねぇキミ」

 唐突に届いた声に振り向くと、そこに美しい女性が立っていた。中学一年の自分よりも明らかに年上だろう。服の上からでも分かる女性らしい体型に、クラスで幅を利かせている女子グループにもいない明るい茶髪の持ち主だった。

「なんですか?」
「そこ、私の指定席なんだけど」

 女性はそう言って自分が今座っているベンチを指さした。
 
「これ、公共のベンチじゃないんですか」
「私がここに置いたものだよ」
「そうなんですか、知らなかったとはいえすみません」
「ごめん、嘘」

 女性は自分の隣に座り、背もたれに片腕を引っかけもう片方の手でなにやらスマホを弄り始めた。
 いきなり話しかけられたかと思えば公共物を私物と嘘をついてくる初対面の成人女性と同じベンチで肩を並べて座っている状況が呑み込めず、同時にすぐ傍から漂ってくる女性の香りに居心地の悪さを覚え、そのまま立ち上がろうとしたのだが。

「キミさ、もしかして家出?」
「え?」
「さっき言ってたじゃん。『金ももう無いしどうしようかなぁ』って」

 どうやら心の声が口に出ていたらしい。

「家出じゃないです。一人旅です」
「ふ~ん。じゃ財布掏られでもしたの?」
「いや、そういうわけじゃ。ちょっと、後先考えずに使っちゃったというか」
「それもう家出とあんま変わんないじゃん」
 
 視線を手元のスマホに向けたまま女性が笑う。
 そのことに、少しだけムッとした。

「ほっといてください」

 自分でも分かるほど怒りの感情が乗った声だったが、訂正することなくそのままその場を去ろうとしたとき。

「今夜泊まる場所とか決まってるの?」
「………」
「ウチ、泊めてあげようか」
「はい?」
「二、三日くらいならいいよ、別に」

 会って三分も経っていない見知らぬ女性から家に泊まらないかと誘いを受けたことなどこの十三年の人生で一度としてない。この女性が何を考えているのかまったくもって理解できず、返すべき言葉を見失ってしまった。

「ホームステイ、したことある?」
「ホームステイ?海外の民家に泊めてもらうっていう?」
「そーそー。それの日本版とでも思ってくれればいいよ。まぁキミが嫌っていうなら無理にとは言わないけど」
「そんなの—――」

 お断りします。そう毅然と告げようとした瞬間、盛大に腹の虫が鳴る。それが聞こえたのか女性はまたしても笑い、そしてようやくこちらを見た。
 目を合わせるだけでも気恥ずかしくなるくらい、本当に綺麗な人だった。

「私、ユミっていうんだけど。キミの名前は?」
「……琥太郎《こたろう》です」


「………」
「どうしたん?食べないの?」
「いや………」

 あの浜辺からほど近い場所に、女性のアパートはあった。女性の部屋らしく小奇麗で、結構広い。棚にはよく分からないもの(多分美容の機械か何かだ)が整然と並べられ、タンスは自分が家で使っているものと比べて三倍はデカい。一体どれだけの衣服を持っているのだろう。

「ユミさん、それが晩御飯って正気ですか」
「正気も正気だけど。正しい気だけど」
「いや絶対足りないでしょ」

 ユミさんが作ってくれたのは素麺一人前。一人前というのは自分のだ。対してユミさんの夕食はと言えばポッキー一袋にビール一缶。どこにでも売っているあのポッキーの、パッケージに入っている二袋のうちの片方だけだ。幼稚園児だってもう少しは食べるだろうに。

「私燃費いいから。というか食欲ないし」
「夏なんですからちゃんと食べないと身体壊しますよ?」
「いーのいーの。どうせ仕事で食べ物たくさん貰うし」
「仕事で?」

 飲食店に勤めているのだろうか。
 ユミさんはポッキーをポリポリと小気味よい音で齧りながら、なおもスマホを弄っている。一体何を見ているのだろうか。
 やはり視線をスマホから外さないまま、ユミさんが口を開いた。

「で、コタローはなんで家出したの?」
「だから旅ですって」
「ほーん。こんな何もない町に?」
「場所は、どこでもよかったというか。どこか遠くに行きたくて」
「なんで?」
「———何かが変わらないかなって」
「わっかいねぇ、キミ」

 そう言ってユミさんが笑い、子供を見るような目でこちらを見た。

「ユミさんよりは」

 だから、皮肉っぽくそう言ってやった。

「コタローいくつ?」
「今年で十三です」
「じゃ中一か。まぁそういう年頃だよねぇ」
「ユミさんは?」
「私?二十四」
「そうですか」
「何か、親とうまくいってないとか学校でいじめられて悩んでるとかでもあるん?」
「特にそういうのは無いですけど」
「ふーん。恵まれてるね~」
「別に言うほどじゃ」
「恵まれてる人はみんなそう言うんだよ」

 今の問答の間であっという間にビールを一本飲み干したユミさんはよっこいせと立ち上がると冷蔵庫に向かい、二本目のプルタブを開ける。
 夏ということもあってかユミさんはノースリーブの服にショートパンツ姿で、改めてひとつ屋根の下で二人きりこうして面と向かっていると、ユミさんが俯くたびにチラチラと胸元の谷間が見えてどうにも落ち着かなかった。普段身の回りにいる年上の女性と言えば母親か学校の先生くらいで、ユミさんみたいに若くて綺麗な人と接するのは初めてだ。初対面ということもあるが、どうにもやりづらい。食事をご馳走してくれて家に泊めてくれるのはありがたいのだが、何を考えているのかさっぱり分からなかった。

「あの、ユミさん。どういうつもりなんですか」
「ん?どうって何が?」
「さっき会ったばかりの中学生男子をわざわざ自宅に招いて夕飯をご馳走するなんて、多分普通じゃないでしょう?」

 それこそ、不審者の類だったら。
 中学に上がって部活を始めてからそれなりに体力はついている自覚はあるが、何をされるか分かったものではない。空腹に負けて手を付けてしまったが、目の前にある食事に薬か何かが盛られている可能性だってある。
 
「んー、気まぐれ?」
「からかわないでください」
「なに。もしかして家に連れ込まれてこれから童貞奪われる~なんて警戒してる?いや期待かな?」
「ドーテーってなんですか」
「あー。なるほどね、そのリアクションでもう分かるわ」
「何なんですか本当に」
「ピュアだねぇ」

 そう言ってユミさんはクスクスと笑う。細めたその目は明らかに自分を子ども扱いしていた。


「………」

 夕食後。ユミさんはしばらくスマホを弄っていたが、徐に風呂に入ると言い出して今はバスルームにいる。そりゃあここはユミさんの家なんだから、あの人がいつ風呂に入ろうと勝手だ。
 ただ。

 ———なんでこんなに落ち着かないんだ。

 居間の扉越しに聴こえてくるシャワーの音。別に水音なんて誰が湯船に浸かっていようが同じはずなのに、ユミさんが入っていると思うと妙にソワソワする。

「いやいや、心頭滅却」

 気を紛らわせるものが無いかと部屋の中を見渡していると、本棚に目に留まるものがあった。
 それは英語の参考書だった。一目で分かるほど使い込まれている。至るところに付箋が張られ、パラパラとページをめくると蛍光ペンで書きこまれた単語や構文が散見された。

 ———学生時代に使ってたのかな。というか、あの人英語得意なのか?

 中学に上がってから本格的に授業で英語を学び始めたが、おそらく自分には語学の才能はない。海外に興味がないわけではないしいつかはこの島国を出てもっと遠い場所まで行けるようになりたいと思っているが、才能というのは如何ともしがたい。とはいえ、それで諦めて自分の可能性を狭めてしまうことはそれはそれで腹立たしい。

「まぁ、続けてればそのうちなんとかなるか」
「なにが?」
「あぇいおぅ!?」
「かけきこく。なにその変なリアクション。初めて聞いたんだけど」

 参考書に気を取られているうちに、ユミさんが風呂から出てきていたらしい。さすがに寝間着は着ていたが、乾ききっていない水気を帯びた髪がどこか扇情的だった。

「ん?何コタロー、英語に興味あるん?」
「いや、なんというか、ちゃんと勉強しなきゃなって」
「まーそうだねー、英語覚えておけば世界広がるよ、マジで」
「ユミさん、海外とか行ったことあるんですか?」
「ん?あるよ。結構昔だけど」
「その、どうでした?」
「どうって、なにが?」

 いつの間にか三本目のビールを開けていたユミさんが気の抜けた声で尋ねた。

「その、雰囲気とか?」
「そりゃ、日本とは違うけど。というか、別に外国に限らず馴染みのない土地だったら国内だってそうじゃない?コタローはこの町の雰囲気が住んでた町と同じだって感じてる?」
「……いいえ」
「そういうもんだよ。でも、実際海外行く機会があるなら行っといた方がいいよ、マジで」
「どうしてですか?」
「一言で言うと、“自分を知れる”、ってことかな」
「自分を知れる」

 それは、自分が家を出た理由と遜色ない回答だった。


「ユミさん、もう朝ですけど」
「ん~、あとじゅっぷ~ん」
「仕事あるから起こしてって言ったのユミさんじゃないですか」

 結局あのまま一泊させてもらったわけだが(ユミさんはベッド、自分は居間に雑魚寝だった)、ユミさんは恐ろしく寝起きが悪い人だった。子供のようにタオルケットに顔を埋めてあと少しだけと駄々をこねる様は十歳以上歳の離れた大人のイメージのそれとはかけ離れていて、呆れもしたけどなんというか、少しだけ親近感を覚えた。

「きょうやすもうかな~」
「いや別に体調悪いわけでもないんでしょう?」

 ユミさんはベッド脇にあったスマホを手に取り、何やら画面をタップしている。

「あ~きょうもよやくがいっぱいだ~」
「予約?」

 そういえば、ユミさんって何の仕事してるんだろう?

「ユミさんって美容師とかなんですか?」
「ん~?ま~、あるいみそうかも~」
「お客さんが待ってるんなら尚更早く起きないと」
「もー、コタローってばマジメだなー」

 悪態と共にようやく身体を起こしたユミさんはその足でシャワーを浴びに行き、服を着替え、どこからか取り出した大量のメイク道具で化粧を済ませると、たちまち昨日会ったときと同じ顔に戻っていた。

「んじゃ行ってくるわ。鍵は靴箱の上に置いとくから留守番よろしく」
「ユミさん、朝ご飯食べなくていいんですか?」
「へーき。向こうでお客さん持ってきてくれるし」
「お客さんが?」

 親切な客もいたものだ。

「お昼は冷蔵庫に入ってるもの適当に食べていいよ。足りなかったら近くのコンビニとかスーパーで―――って、そうか。コタローお金ないんだったね」

 ちょっと待ってね、と肩にかけていた鞄をゴソゴソと漁ったユミさんは財布を引っ張り出すと、お札を一枚こちらに渡してきた。

「ほい。これだけあれば足りるでしょ」
「いや、ユミさん。昼飯代にしちゃ多すぎるんですけど」

 渡されたのは一万円札。ご丁寧にピン札だ。福沢諭吉の顔が眩しく見える。中学生の自分が一万円なんて大金を貰う機会は正月のお年玉くらいだというのに。

「いま細かいの無いんだよね。もし買い物するならレシートだけ切ってもらっといてね、念のため」
「いや、あの」
「じゃ、行ってくるよーん」

 こちらの声に耳も貸さず、ユミさんは夏のアスファルトの海へと出航していった。
 というか。

「この一万円あれば、この町出ていけちゃうと思うんだけど」
 
 それこそ、家に帰ることも。
 いや、それはないと慌てて首を振った。
 とはいえ。

「……さすがに、一晩お世話になっといた挙句お金だけ貰って黙っていなくなるわけにもいかないよな」

 もう少しだけ、この町に留まろう。ユミさんに義理を通した上で他の土地へ行くチャンスは必ずあるはずだ。
 
「ちょっと、近くを散策してみようかな」

 どうせこのまま家に居てもすることはないんだ。


「暑いかよ……」

 昨日も町を歩いたのだから分かっていたはずだったのに。この町が驚くほど何もないということ。スーパーやコンビニ、病院といった最低限のライフラインはあるが、それ以上の娯楽施設のようなものは何もない。強いて言えば海があるだけ。夏シーズンだというのに誰も泳いでいないというのがこの町の寂しさを表しているが。
 とっとと見切りをつけてエアコンのあるユミさんのアパートに戻ればよかったのに、なんとなくの気分で行けるところまで行ってやろうと余計な執念に火をつけてしまったのが良くなかった。

「つか、もう隣町とかだよなここ」

 ユミさんのアパートがある町からだいぶ離れたところまで来て、ようやくコンビニで涼むことができた。お昼時だから一緒にちゃんとした物でも食べていこうかと思ったが、ユミさんへの遠慮が勝ったのでアイス一本で済ませることにした。今の自分にとってはこれだけでもご馳走だ。 
 アイスを頬張りながらこれからどうするかと宛てもなく歩いていた時。

「いいじゃんかユミちゃん。俺のことそんなに嫌い?おじさん傷ついちゃう」
「もう、冗談もほどほどにしてくださいよ。次のお客さんそろそろ来ちゃうから」

 聞き覚えのある声に顔を上げると、視線の先にユミさんがいた。朝出かけたときは普通のワンピース姿だったはずだけど、今のユミさんはどういうわけか派手なドレスを着ている。髪も朝は普通に下ろしていたのに。一瞬同じ人か疑ったが、やはりあれはユミさんだ。

「え~、さっきまであんなに俺のこと―――」
「ちょっと、店の前で何言ってるんですか!」

 どう見ても揉めているようだった。
 大人のトラブルなんて、子供の自分には関係のないことだ。良し悪しの話ではなく、大人か子供かの話だ。結局、大人は大人の声しかまともに聞こうとしない。子供の言うことなんて相手にしていないのだ。俺はそれを知っている。知っているからこそ。

 ———腹立つな。

「ん。どうしたんだボウズ」
「え、コタロー?なんでここに―――」

 気付けば自分は二人の間に割って入り、ありったけの敵意を込めて男を睨みつけていた。

「やめろよ」
「———あ?」
「ユミさん、困ってるだろ」
「ボウズ―――」

 男が何か言うより先に、自然と手が出ていた。拳ではなく、手に持っていたアイス。夏の日差しで半分溶けかけていたそれを男の顔に当て、フリーだった反対の手のひらで勢いよく押し付けてやった。強い圧力を受けた氷菓は鈍い音と共にドロドロに崩れ落ちる。

「っ、てめッ!!」
「ぐふっ」

 そんなマヌケな声が自分の口から洩れたと気づいた時には、激しい痛みがみぞおちを襲っていた。次いで殴られたのだと気づいたのは、夏のアスファルトをベッド代わりにするように倒れ伏している頃だった。

「このガキ!」
「やめて!!」

 そんな諍いの声だけが耳に届いていたが、やがてそれもだんだんと遠くなっていき、俺の意識は白い闇に深く沈んでいった。




「……?」
「起きた?コタロー」
「ユミ、さん」
「もう、あんな無茶しちゃって」

 目を覚ますと、見知った天井と、ユミさんの顔があった。最後に見たときとは違う、普段通りのユミさんだった。

「おれ、どうしたんでしたっけ」
「あの客に殴られて、勢いでコンクリートに頭打ってのびちゃったんだよ。病院に運ぼうかと思ったんだけど、店長が今日はもう休んでいいって言ってくれたからとりあえずコタロー連れて家に戻ったの」
「そうだったんですね。すみません」
「どうしてコタローが謝るのさ。私のこと助けてくれたんでしょ。あの客も、子供に恥かかされたんじゃもう店には来ないでしょ。ありがとね」
「別に………」

 別にユミさんのためとかじゃなくて、ただムカついたからそうしただけ。
 でもいつもなら思うだけなのに、どうしてあんなことをしてしまったんだろう。

「お腹、すいてない?食べたいものとかある?」
「———特には」
「うん。じゃあ適当に作ってくるから、ちょっと待ってて」

 そう言って席を立ったユミさんは僅か三十秒ほどでリビングに戻ってきた。

「ごめん、冷蔵庫の中ビールとお菓子くらいしか入ってなかったわ」

 そうバツが悪そうにするユミさんの手には、昨日の夜食べていたポッキーのもう半分の袋が握られていた。

「いいですよ、そこまで食欲あるわけじゃないですし」
「でも、コタローまだ若いんだから食べなきゃダメでしょ」
「ユミさんだって若いじゃないですか」
「私はもう大人だからいいの。コタローは—――」
「羨ましいな、ユミさんは大人で」

 大して大きな声を出したわけでもないのだが、水を打ったように部屋の空気が静まり返った。

「えっと、コタロー?」
「俺は、まだこの町に来るのだけでやっとなのに」

 何かが変わると思った。自分の住む世界を変えたかった。
 今の自分の限界。認めたくはないが、昨日あの浜辺でユミさんと出会っていなければ、それは“ここ”だっただろう。何もない、海に行く手を遮られて静かに死んでいくようなこの町が、今の俺が行ける世界の果て。
 どうしようもなく、自分は子供だった。金もない、経験もない、知識もない、責任も力もない。知らない男に簡単にのされてしまうほどの非力なただの中学生だった。
 ユミさんは暫く黙っていたが、やがて見たことがない笑みを浮かべて徐に自分の身体を抱き寄せた。

「なん、ですか」

 ユミさんの柔らかな部分が頭に当たり、文字通り思考が固まってしまった。やっとの思いで絞り出した声はベタなロボットかと思うくらい片言だった。

「いいんだよ、コタローはそのままで」
「そのままって、なんですか」
「んー、探求心というか好奇心?その気持ちを変わらず持ち続けてねって話。これから先も変わらず持ち続けてれば、きっともっとずっと遠くまで行けるようになるよ」

 ユミさんは頭を優しく手で撫でながら続ける。

「私はもう、無くしちゃったからね」
「?」

 ユミさんの言ってることはよく分からなかったが、服越しに感じるユミさんの体温と心音が心地よくて、昼間の件も手伝ってか徐々に自分の思考は溶けていった。大人の女性に抱かれながら眠りに落ちていくその様は、やはり誰がどう見ても子供のそれだったと思う。


「本当に帰るんだ」
「はい」

 翌日、家に帰ることをユミさんに告げた。元々ユミさんも「二、三日くらい」と言っていたし、これ以上この町にいることも他の土地へ行くことも今の自分にはできない。認めたくはないがそう理解できた。
 ちなみに帰りの旅費は昨日ユミさんに持たされた一万円をそのままいただくことになった。要らないと言ったのだが、昨日のお礼と言って譲らなかったのと、無一文で帰るとなると警察の厄介になるしかないのもあって有難く貰うことにした。
 
「結局、何も変わりませんでした」

 そう自嘲気味にひとりごちると、ユミさんが唐突に切り出した。

「駅行く前に、ちょっと付き合ってくれない?」
「なんですか?」
「お姉さんとデート、しようよ」

 そう言って連れてこられたのはデパートでも遊園地でもお洒落な喫茶店でもない、最初にユミさんと出会った浜辺のベンチだった。

「あっついね」
「夏ですから。今日も怠いくらいの快晴ですし」
「うわ、日差し眩しい。日焼け止めなかったらと思うとゾッとするわ」
「適度に焼けてるのも健康的でいいと思いますけど。ユミさん美人だし」
「コタローは口が上手いね~。そういうところは大人っぽい」
「嬉しくないです」
「照れるな照れるな~。照れてるのは私もだけど。あ、日差しの話ね」
「はいはい」

 そんな他愛もないやり取りをしていると、ふとユミさんが眼前に広がる青い海に視線を向けた。

「———子供の頃さ、コタローみたいに家出したことあるんだよね」
「そうなんですか?どうして」
「コタローと同じ。好奇心とか探求心。もっと広い世界を見てみたかった。まぁ、そこまで遠くまで行けたわけじゃなかったけどね」

 今のキミと同じだよ、とユミさんは笑う。

「それが悔しくて、いつかもっと遠くまで、海の向こうまで行ってやるんだって決めた。大学で語学を学んで、卒業したらいろんな国を見て回るのが夢だったんだよね」
「“だった”というと」
「いろいろあって、海外に行くような余裕が無くなっちゃってね。一番の理由はお金の問題だった。大学の奨学金とか親の借金とか、他にもいくつか。大学出てからは、あー、水商売って言えばいいのかな。とにかく、あまり大きい声じゃ言えないような仕事続けてた」

 昨日、ユミさんがドレスを着て大人の男と揉めていたのを思い出し、“そういうこと”には詳しくないがなんとなく察することができた。自分が思っている以上にユミさんは苦労を重ねてきたんだと思う。

「ずっと忘れてた。目の前の現実にいっぱいいっぱいで、私が元々何を目指してたのか。でも二日前にたまたまこの場所でコタロー見かけたときに思い出したんだよね、昔のこと。そういえば私もどこかへ行きたくて、でもどこにも行けなくて途方に暮れたことあったなって」
「だから、声かけてくれたんですか」
「誰にでも声かける尻軽女だと思ってた?」

 ユミさんはそう悪戯っぽく笑ったが、自分はそれに返す言葉を持たなかった。
 ただ、言いようのない感情が胸に渦巻いていた。

「私ね、今の仕事、もうすぐ辞めようかと思うんだ」
「え?」
「借金ももう返済ほとんど終わってるし、お金貯まったら、海外に留学とかしてみようかなって。まだ全然ちゃんと計画立てれてないけど、チャンスがあれば向こうで別の仕事とか見つかればいいなって思ってるんだ」
「………うん、いいと思います」
「えらくあっさりしたリアクションだな~」
「いや、だって―――」

 ユミさんは大人で、自分でなんでも決められる歳なんだから。自分がそうしたいと思ってそうするのは勝手だし、周りがとやかく言うことじゃない。
 そう言おうとしたとき、隣に座っていたユミさんが不意に俺の頭を手で抱き寄せた。

「コタローのおかげ」
「え?」
「コタローと会って、思い出した。だから決めたの。コタローが、私を変えてくれたんだよ?」
「………」
「“何も変わらなかった”なんてことないから。コタローの気持ちも声も、ちゃんと届いてるから。今のコタローは出来ないことの方が多いかもしれないけど、出来ることだってちゃんとある。それさえ分かってればいいんだよ」
「っ………」

 優しく頭を撫でられながら諭すように告げられて、涙を堪えることができなかった。
 夏空の下、青く澄んだ海の前で、僕は十三年生きてきて初めて、自分という人間についてようやく少し分かったような気がした。


 涙が夏の暑さですっかり乾いた頃、自分達は町の駅の改札に来ていた。本当にもうお別れだ。
 なんとなく名残惜しくて、改札をくぐる前にユミさんに問いかけた。

「ユミさん」
「ん?」
「また会えますか?」
「そうだね。少なくともこの町ではもう会えないと思うけど。コタローがもう少し大きくなって、もっと遠くまで行けるようになったらね」
「分かりました」

 それで充分だ。今の自分には。
 あ、と何かを思い出すようにユミさんが言った。

「すごい今更なんだけど、ユミって名前、本名じゃないんだ。仕事で使ってる源氏名というか」
「え、そうなんですか。じゃあ本名は—――」
「真優美《まゆみ》。真に優しく美しいで真優美。自分で言っててなんか照れるけど」

 さっきの浜辺の時とは違い本気でバツの悪さを感じているその仕草は、名前の通り美しかった。真に優しく美しい。これ以上なくピッタリな名前だと思った。

「じゃあ、真優美さん。またどこかで」
「うん。琥太郎も、元気でね」

 短く別れを告げ、俺は改札をくぐった。ホームに来るとまるで予期していたように列車が到着し、そのまま乗り込んで座席に腰を落とす。一度も改札を振り返ることはしなかった。

『発車いたします。ご注意ください』

 車掌のどこか気の抜けた声と共に列車が動き出す。俺を、元居た狭い世界へ連れていく。ふと窓の外の景色に目をやると、この三日間傍らにあった夏の海が大きく広がっていた。
 いつかもっと、遠くまで行けるようになったら。その時あの海の向こうには何があるのだろう。
 確かなのは、彼女もきっとそこにいるということだけだ。

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