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それでも、小説は書かない

 小説とは人の欲望の掃きだまりだ。
 人の欲望―――七つの大罪とも呼ばれる強欲・暴食・色欲・憤怒・嫉妬・怠惰・傲慢。それらすべてが虚構という建前の元で赦される。もっともそれは小説に限らず人が創造するものの大半がそうなのかもしれないが。この世の富すべてを手に入れることも、美しい女性を思うままにすることも、我を忘れて怒り狂うことも、他者に醜い感情をさらけ出すことも、無為自然に過ごすことも、際限なく溢れる美食を堪能することも、世界の頂点を極めることも、すべてが。
 現実では決して過ぎてはいけないそれらの感情を、俺は小説に吐き出し続けた。
 そして、もう枯れ果てた。

「あのっ!」
「ん?」
 陽が落ちかけていた時間帯。愛用の車を車庫に納め、そのまま玄関をくぐろうとドアノブに手をかけた時だった。
「———なに、君?」
「あの、折川春《おりかわしゅん》先生ですよね」
 そううわずった声をかけてきたのは長い三つ編みに丸眼鏡という絵に描いたような文学少女だった。歳は高校生か、せいぜい二十歳前の大学生といったところだろうか。まだ僅かにあどけなさが顔に残っている。
「あぁ、そうだけど」
 特に否定する理由もなかったので包み隠さずそう答えた。
「あの、私、先生のファンなんです!」
「そうか。ありがとう」
 大方サインでもねだりに来たのだろう。過去にこういったことは何度となくあった。わざわざ自宅まで押しかけられたのは初めてだったが、見かけによらずなかなかアグレッシブな子だ。仕方なくドアノブを握る手を放し、彼女が鞄から取り出すのであろう色紙なりペンなりを受け取ろうとしたのだが。
「あの、私を先生の弟子にしてください!」
 そう言って目の前の少女は頭を下げた。
「———はぁ?」


折川春というのは俺の小説家としてのペンネームだ。作風の都合上、実名を使って作品を発表するのはリスキーという出版社の勧めでつけたものだが、結果として今日まで平穏な私生活が守られてきたわけだからその判断は正しかったと言えるだろう。
 俺は折川春という小説家だった。いやそれは世間の一方的な見方だったとも思う。少なくとも俺は他の作家のように希望に満ちた夢や志を持ってこの世界に足を踏み入れたわけではなかったのだから。
 俺にとって小説の執筆という行為は、ただの欲望の発散だった。理不尽な現実に苛立ちを、不安を、嘆きを、虚しさを覚えたとき、それを言語化して吐き出すこと。そこに適当なストーリーをあてがい、自分の言いたいことを適当な架空の人物に代弁させること。そうやって自己を満たす行為を続けていた。ある日それがたまたま業界人の目に留まり、あれよあれよという内に小説家なんて大層な肩書が俺の名前の前に口にされるようになっていった。
 そんな俺が綴る醜い欲望の物語は瞬く間に世界に拡散された。
 あの小説の数々がどうして、今なお貯金口座に印税を運んでくれているのか俺にも分からない。一体何が原因で世間に広く受け入れられ、支持されたのだろう。
 ともあれ、せっかく手にした好機を俺は逃さなかった。それまでとは桁が違う収入を元手にそれを投資に充てた。元々金銭感覚はしっかりしている方だったし、仮に小説家として売れることがなかったとしても将来に向けた準備は始める気でいた。
 結果それが一生かかっても使い切れない資産に膨れ上がるとは思わず、小説家としてブレイクした時以上に驚いたが。
 無名の小説家としてデビューしてから、働かなくても生きていける程度の財産を築くまで、僅か五年ほどの期間だった。


「座って」
「あ、はいっ、失礼します」
 柏森静《かやもりしずか》と名乗った少女を俺は一旦自宅に入れた。最初は当然門前払いをした。しかし一時間経っても彼女が玄関前に居座り続けたので、さすがに近隣住民にもあらぬ疑いをかけられてしまうかと危惧した結果だった。決して、弟子なんて取るつもりはない。
「もう良い時間だけど、何か食べるか?」
「えっと、お構いなく」
「じゃあ、とりあえず適当に用意するから座って待ってて」
「はい………」
 カウンターキッチンに立って夕食を用意する間、俺の姿を柏森がまじまじと見つめてきてどうにも居心地が悪かった。
 冷蔵庫にあった食材で適当に作った二人前のオムライスをリビングのテーブルに運んだ後、一緒に食事しながら彼女にいくつか質問を投げかけた。
「柏森だったか。君、住所は?」
「島根県です」
「それはずいぶん遠くから来たもんだ。歳は?」
「今年で十九です」
「ふーん。大学生?」
「いえ、フリーターです」
「ここまでどうやって来たの?」
「新幹線を乗り継いで」
「交通費だって馬鹿にならなかったろうに」
「………」
 食事中も柏森は伏せ目がちにチラチラとこちらを窺ってくる。委縮しているのか、弟子の件について返答が待ちきれないのか、多分両方だと思った。はぁ、と一つ溜息を溢して俺は本題に入る。
「君、小説家になりたいの?」
「は、はい!折川先生みたいな小説家に―――」
「やめとけやめとけ、小説家なんて」
「え………」
 落胆、あるいは驚嘆という二文字が彼女の顔に見えるようだった。だが告げるべきことはきちんと告げなければならない。仮にも年長者の大人として。
「君は俺のことを尊敬してくれているのかもしれない。俺が書いたクソみたいな小説を好きでいてくれるのかもしれない。でもな、俺は君が思っているようなキラキラした人間じゃないんだ。そもそも小説家にだってなりたくてなったわけじゃない。俺が好き勝手に書いたものに周りが自分に都合よく意味を見出しているだけだ。君もその一人だよ」
 一方的にそう捲し立て、一口サイズに掬ったオムライスを口に運んだ。直後、とどめの一撃に相応しい一言を思いつき、咀嚼したものを飲み込んでこう締めくくる。
「そもそも、俺はもう小説家じゃない。もう小説は書かないんだよ」
 俺が最後に作品を発表したのは五年前。それから今日まで、一文字たりとも新作は書いていない。
「———て、どうしてですか!?」
 柏森は悲痛な面持ちでそう叫んだ。弟子にしてもらえないことか、俺がもう小説を書かないと宣言したことについてか。
「先生は、すごい才能があるのに……。周りの人も、テレビでもネットでもみんな先生の作品を読んで、絶賛してました!いろんな国で翻訳もされてるって、しかもこんな大きな家に住むくらいお金だって—――」
「あーはいはい柏森さんストップ。とりあえず黙ろう。口を閉じて鼻で息して俺の話を聞いてくれ。あぁ食事は続けてくれてもいいけど」
 “才能がある”、“みんなが褒めてる”、“お金持ち”。そんな世間一般で云われているようなありきたりな俺の評価を並べ立てられ、多少なりとも腹が立った。
「柏森さんさ、君って処女?」
「ぇ………」
 質問の意味が理解できなかったのか、柏森は先程前の勢いが嘘のように黙り込む。その表情を形容するなら“無”の一言だった。
「男とセックスしたことあるかって聞いてるんだよ」
「………ない、ですけど」
「そう。ちなみに俺は童貞じゃない」
「何を言ってるんですかさっきから」
「数えきれないほどの女を抱いたよ。それこそ飽きるくらい。仮に君が今この場で裸になって俺を押し倒して胸を押し付けたりアソコを咥えたりしてもなんとも思わない程度には」
「私をからかってるんですか?」
「俺にとって小説を書くっていう行為は、欲望をぶつけることだった。君も俺のファンなら、俺の書いた話がどれだけ赤裸々で生々しくて醜いものか知ってるだろう?」
 何も性描写に限った話ではない。それが現代劇だろうがファンタジーだろうがミステリーだろうがSFだろうが、俺が小説を書く原動力になっていたのは自分の欲望だった。
「俺が吐き出したい欲望は、もう現実で満たせるようになっちゃったんだよ」
 使い切れない金に始まり、労せず豪勢な食事にありつくことも、その時の気分で女を抱くことも、誰かに怒りを向けることも、他人を羨むことも無くなって久しく、好きな時に惰眠を貪り、不本意ながらベストセラー作家として社会的な地位も手に入れた。
 そしてそれらすべてに飽きるほどに、俺の欲は枯れ果てていた。
「だから、俺はもう小説は書かないし書く気もない。元々小説のことを勉強していたわけでもないから人に教えられるようなこともない。つまり君がここにいる理由はない。話はそれで終わり。そのオムライスを食べたら家に帰るといい。金がないなら出してやるよ」
「———す」
「え?なんて?」
「———嫌です!!」
 柏森は一際大きな声を上げて立ち上がった。どこか不安げだった瞳にも心なしか強い意志が滲み出ているように思える。まぁ所詮、小さな子供の張る虚勢と大差ないものだろうが。
「私、私―――」
 柏森はわなわなと唇を震えさせながらも、確かに告げた。
「私、先生みたいになりたいんです」
 そう口にした直後、彼女の双眸から先程まで垣間見えた光が消え、代わりに大粒の涙が零れる。眼鏡のレンズも瞬く間に曇っていった。いたいけな少女を責めているような錯覚に襲われたが、自分は彼女に対してこれといって不誠実なことはしていない。なので特に心は痛まなかった。ただただ、面倒でしかなかった。
 柏森は泣きながらも続けた。
「わ、たし……っ、先生のかいたお話っ、読んでっ………、じぶんも、こうなりたいって………っ、こんな風に、生きられたらって………」
「だからさっきも言った通り、それは君が勝手に俺の書いた話に慈悲だの希望だのを見出してるだけだよ。自分の心を慰めたいなら自分で好きな話を書いた方がいい。恋愛ものでも異世界転生でも。俺でさえデビューできたんだ、チャンスはそこら中に転がってるだろう」
 言い方を悪くすれば自分の書いた話はただの自己満足、自慰と変わらない。そんなものに執着する彼女の気持ちは、俺には理解しがたいものだった。
 結局、柏森はその後も延々と泣き続けた。残ったオムライスは俺が食べた。金は有り余っているというのに、庶民的な感覚が未だに抜けていないのは良いことなのだろうか。


「作品を創ることも、走ることも、頭を使うことも、何事においても必要なのはエネルギーだ。一口にエネルギーと言ってもいろいろある。単純なものは食料や水、抽象的なものなら将来への夢、誰かへの復讐心や恨みみたいな負のエネルギーまで。俺が教えられるエネルギーは“欲望”だけだ。それ以外の力で小説を書いたことなんてない」
 翌日、俺は家が広すぎて持て余していた部屋の一つを柏森に与え、そこで今彼女に小説の書き方についてレクチャーしている。
 結局あの後、柏森が大人しく家に帰ることはなかった。延々泣かれて俺が根負けしたと言えばそうなのだが、俺自身がここ最近の生活に退屈していたというのも大きかった。小説云々に最早興味はないが、無駄に有り余った時間を潰すには丁度いい相手かもしれない。
「———とまぁ、俺が小説家だった頃に意識していたのはそのくらいだ」
「———それだけなんですか?」
「あぁ、それだけだ」
「ちょっと、凡才の私だと自信が………」
 そう言って顔を伏せる柏森に嘆息し、俺は彼女の両肩に手を置く。
「柏森、お前はどうして小説を書きたいんだ?」
「それは、折川先生みたいになりたいから、です」
 ———俺みたいになりたいってなんだ。
「もっと具体的に言うと?」
「その、自由で、ありのままな表現をしたい、です」
「つくづく俺が好きなんだな柏森は」
「………っ」
 というか、ファンだというなら最初から俺の作風を真似れば済む話じゃないか。わざわざ門戸を叩いてまで教えを乞う必要などないだろうに。まぁ、昨日まで柏森は俺のことを偉大な作家だと思っていたようだから仕方ないのかもしれないが。
 ふと、思い浮かぶ疑問があった。
「そういえば柏森、お前どうやって俺の住所調べたんだ?」
 小説家としての活動はペンネームで行っていたし、家族と友人、仕事関係以外で面識のない彼女が住所を知る手段などないはず。
「えっと、出版社の人に聞いたら教えてもらえたんです。もしかしたら折川先生がまた新作書いてくれるかもしれないからって」
「なるほど」
 どこの出版社のどの編集者か、後でじっくり聞かせてもらうことにしよう。

「どうだ、進み具合は」
 さしあたり口頭で教えられることは一通り伝え(と言っても大したことは教えていないが)、とりあえず短編からでいいから柏森の好きなように書いてみろとだけ言ったのだが、一体どんな話を書いているのだろう。
「えっと、とりあえずこれだけ」
「………」
 彼女から譲られたノートパソコンの画面に視線を走らせる。ファンが聞くと幻滅すること請け合いだが、小説家という肩書に反して俺は普段小説というものを意識して読むことがない人種だ。他人が書いた物語を読んで生産的な指摘ができるかと内心不安もあったのだが。
「———これ、本当にお前が書いたのか?」
「え?」
 柏森は眼鏡の奥で大きな瞳をぱちくりさせる。
「これがお前の書きたいことなのか?」
「………そのつもりです」
「なんというか、無味無臭って感じだな」
 それは本当に普通の短編小説だった。高校生の男女の恋愛が主軸。ストーリー展開や言葉選びに細かい粗はあるが、概ね誰が読んでも楽しめるような、娯楽作品としての面白さの中央値を正確に狙って射抜いたような作品だった。
 別に作品そのものの出来が悪いわけではない。ただ、柏森が好き好んでこの作品を書いたという一点で疑問符がつく。
「お前の色がどこにもない」
「………ですよね」
「お前が書きたいように書けって言ったよな。これが本当にお前が書きたいことなのか?“俺みたいな自由でありのままの表現”、だったか。それが本当にできてるのか?」
「———しいです」
「え?」
「先生にお手本、書いてほしいです」
「いや、だから俺は」
 もう小説は書かない。書けない。昨日もそう教えたのに。そういえば俺の住所を柏森に漏らした出版社のヤツがそんなことを言っていたらしいが、何か依頼でも受けているのか?
「もう書かないって言ったろうに」
「どうしてですか?」
「書きたいことがない。これ以上なくシンプルな理由だ」
「でも先生の新作、待ってる人まだたくさんいると思いますよ」
「そんなの知ったこっちゃないんだよ。俺には」
 結局その日はそれで終わった。柏森はどこか縋るような目で俺を見ていたが、いくらねだられても俺の気持ちが揺らぐことは一ミリもなかった。


「折川先生、私を抱いてください」
「唐突なお誘いだな」
 朝食の席で柏森がそう言いだした時も、俺の心は至って凪いでいた。あるいは萎えていた。
 朝食のバナナを口に運びながら、俺は彼女の言い分を聞く。
「私、先生みたいなリアルな表現が全然できなくて。特にその、大人っぽい場面描写が……。だから経験豊富な先生に教えてほしいんです、その、そういうこと」
 後半の方はだいぶ声が小さくなっていた。
「じゃ街の出会い喫茶にでも行ってくるといい。お金を貰って経験できるぞ。羨ましい限りだ」
「先生とがいいんです!」
 柏森はそう力強い声で反発する。こう言っては何だが、たかが小説のために自分を投げうち過ぎではなかろうか。まだ成人を迎えてもいないのだし、足りない経験は今後追々していくことになるだろうに。
 そもそも。
「俺だって初めにそういう話を書いた時はほとんど女性経験はなかったぞ」
「そうなんですか?」
「歴史に名を残した偉大な芸術家は童貞が多いって聞いたことないか?まぁ俺自身はそこまで大したもんでもないけど、経験として現実を知らないからこそ書けるものもあると思うよ。そもそも小説自体が虚構の塊みたいなもんだ」
「………」
「もし柏森が俺に抱かれたいっていうなら、そのリビドーはお前の作品を創るために使うといい。俺をその気にさせるくらい官能的なストーリーができたら考えないでもない」
 話は終わりだと言うように、俺はカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干した。眠気は晴れなかったがトイレに行きたくなってきた。

「書けたか?」
 その日の夕方、俺は再度柏森の部屋を訪れた。昨日は吃驚するほど味がないレーションのような作品を読まされたが、今日は多少なりとも読み甲斐のある話に仕上がっただろうか。
 ちなみに待っている間、俺はホームシアターで『ニュー・シネマ・パラダイス』を観ていた。知人に勧められて観てみたが確かに名作だと思う。柏森の部屋に入るとき、実は柏森が部屋に持ち込んだニトレートフィルムが発火して火事が起きていないかなんて起こるはずのない不安が一瞬頭をよぎった。
「あ、先生」
 柏森は今朝と変わらず折り目正しく礼儀正しくといった調子で、俺にノートパソコンを寄越してくる。
「………」
「………」
「昨日とは見違えるようだな」
「恐縮です」
「でも、どこかストーリーの組み立て方に粗があるな。読者に想像の余地を残すことは大事だが違和感を残しすぎるのも良くない。いくら筋書きが良くても読み終えたときの読後感が後味の良くないものになるからな」
 自分で言っていてなんとも滑稽な気分だった。まるで一流の小説家のようで。
 柏森自身どこか自覚があるのか、申し訳なさそうな表情で視線を下に向ける。そんな彼女の仕草を見て、俺はやれやれと言う風に息を一つ吐いて続けた。
「ただ、主人公とヒロインの濡れ場の描写は嫌いじゃない」
「でも、まだまだ先生のようには………」
「正直勃起した」
「え―――」
 俺は柏森の肩を掴み、そのままの勢いで傍にあったベッドに押し倒した。彼女自身特に声を出すでも抵抗するでもなく、為されるがまま潤んだ瞳で俺を見上げている。
「柏森」
「………はい」
「今ならまだ間に合うぞ」
「何がですか」
「今朝、俺に抱いてほしいって言ったの。君が拒むなら俺だって特に君を抱く理由も義理もない。君に特別な思い入れもないしね」
「私は、折川先生となら………」
 柏森は羞恥と恐怖の入り混じった恍惚とした表情で続けた。
「いい、です」
「そうか。………なぁ柏森、一つ気付いたことがあるんだが言っていいか?」
「なん、ですか?」
「お前、着痩せするタイプなんだな」
「恥ずかしい、です………っ」
 柏森の顔がさらに紅潮するのを見て、俺も僅かに自分の身体が熱く火照るのを感じた。


「何も本当にやらなくても」
「私がそうしたかったんです」
 翌日、柏森は齢十八歳余りで人生初のイメチェンをした。俺に処女を捧げたことで何か吹っ切れるものがあったのか、それとも事後にベッドで戯れていたとき俺が言った「ミディアムヘアでコンタクトにしたら可愛いと思う」という言葉を真に受けたのか。両方だろう。
 だが実際、髪を切って眼鏡を外して印象が変わったせいか、心なしか立ち居振る舞いが多少堂々としたものになった気がする。あとはメイクをして洒落た服でも着ておけば書店のポスターに映っている売れっ子作家に見えないこともない程度には。
「昼飯まだだよな。何がいい?」
「なんでも大丈夫です」
「なら適当に作るぞ」
 今日も今日とて俺はキッチンに立って二人分の食事を用意する。金は有り余っているというのに、自炊で作るものは炒飯だのスーパーで売っている野菜を刻むだけで作れる青椒肉絲だの、どうにも男らしいずぼらなものばかりだ。金は増えても作れる料理のレパートリーまでは増えない。仮にも若い女性が居候しているのだからもう少し凝ったものも作れるようになりたいものだ。
「そういえば柏森、いつまでここに居るつもりなんだ?」
 フライパンに火を通しながら、俺はリビングでテーブルに座って待っていた柏森に問いかけた。
「え、えっと、その、居させていただける限りは、でしょうか」
 対する柏森の返答はとても歯切りが悪いものだった。無理もない。何の対価もなしについ先日知り合ったばかりの男の家に泊まりこんでいるのだから。あるいは対価と呼べるものは昨夜支払ったのかもしれないが。
「まぁ、俺は別にいいんだけど」
「先生は一体どれだけ金持ちなんですか」
「欲が無くなって悟りの境地に片足突っ込むくらいかな」
「昨日私とあんなことしたのに」
「あれは君にお願いされたし自分でもそう言っちゃったからだな」
「………私を抱いても、その気にはなってくれないんですね」
「?何が?」
「いえ、なんでもありません」
 ものの十五分ほどで昼食が出来上がった。味は美味しかったが盛り付けにもう少しこだわった方が良かったかもしれない。

 その後俺はホームシアターで『オペラ座の怪人』と『レ・ミゼラブル』を観た。金はあるがこれといって情熱を傾けるものもない今の俺にとって映画鑑賞は数少ない趣味だった。とりあえず時間は潰せるしこれといって疲れることもない。つまらない映画ならそのままソファーで寝てしまえばいいだけだ。金だけでなく時間も有り余っている俺だから出来る怠惰な楽しみ方なのかもしれないが。
 やがて夜の帳が降り始める時間になったのを確認し、俺は柏森の部屋に向かった。
「柏森、入るぞ」
「どうぞ」
 部屋に入ると、いつも通り柏森がそこにいた。イメチェンしたせいか、それとも部屋の窓から差し込んでくる夕陽の色のせいか、佇まいは昨日とどこか違う気がした。その勝手な勘違いから来る変化が作風にも反映されていればいいのだが。
「さて、今日のはどんな具合だ」
「———お願いします」
 相変わらず委縮した様子でノートパソコンを渡してくる柏森だったが、今日はいつも以上に怯えているように見えた。一体どんな話を書いたのかと内心期待して読み始めたのだが。
「………」
「………」
「………」
「………」
「………俺への当てつけか?」
 ディスプレイに打ち込まれていた文字の羅列は明らかに、俺が以前書いた物語を紡いでいた。筋書きは同じではないが、設定や登場人物だけが共通している。
 つまり続編、あるいは二次創作と呼ばれるものだ。
 そこで俺はようやく、彼女が繰り返し言っていた言葉の意味を理解した。
「“俺みたいになりたい”って言ってたのは、俺の書いた小説の続きを書きたいからだったのか?」
「———先生にその気がないなら、ですけど」
 柏森は気まずそうに視線を逸らして答えた。心なしかまた涙目になっているようにも見える。
「多分、文章書くこと自体は俺と会ってからが初めてじゃないよな」
「先生が新作を出さなくなってからでした。自分で物語を書き始めたのは」
 柏森はぽつりぽつりと言葉を溢していく。
「折川先生の新作が読みたいのに、待っても待っても、出版社にお手紙を送ったりしても音沙汰がなかったから、自分で書くしかないと思ったんです。でも、いくら書いても素人の書いた出来の悪いお話にしか見えなくて。だから先生の家に来たんです」
「俺から書き方を教わるために?」
「いいえ。弟子にしてほしいなんて、本当は建前でした。私は先生の書く物語をもう一度読みたかった。先生にまた小説を書いてほしかったんです。どうにかしてもう一度先生に筆を執る気になってもらえないかと思って」
「そういうことか。昨日まで手を抜いてたろお前」
 今日彼女が書きあげた作品は、“脂が乗っている”という言葉がこれ以上ないくらいしっくりくる出来栄えだった。昨日まで書いていたものとは比べ物にならない。作風は模倣したものとはいえパソコンの無機質な文字の羅列の奥に、明確な彼女の色と思いと欲が見てとれた。
 それこそ、俺が書いたものよりも出来が良いと思うくらい。彼女の方がよほど才能があるだろう。
「手本が欲しいとか俺と寝てほしいとか言ってたのもそのためか」
「我ながら体を張ったと思ってますよ」
 もう一度俺に小説を書いてほしい。そのために俺に頭を下げて教えを乞い、俺にその余力が失われていると知って貞操までも捧げたのか。
 それが柏森が秘めていた“欲望”のカタチなのか。
「先生」
 柏森が感情の見えない瞳で見つめてくる。
「ん」
「私、小説家になりたいわけじゃないんです。ただ先生の書く小説が好きなだけで」
「それは奇遇だ。俺も小説家になりたくてなったわけじゃない」
「だから、選んでください」
 柏森はどこからかライターを取り出し、俺の前で着火する。もう片方の手にはスプレー缶のようなものを構えて。おそらく中には可燃性のガスでも詰まっているのだろう。さしずめ即席の火炎放射器といったところか。
「小説を書くか、家を燃やされるか、どちらがお好みですか?先生は満ち足りた生活に慣れきって小説を書かなくなったそうですから、これくらいしないとその気になっていただけないですよね?私を犯してもそうだったんですから」
「やっぱり根に持ってるのか?というかある意味やっちゃいけないことを犯してるのは柏森の方だと思うんだが。まぁ“先生を殺して私も死ぬ”、みたいなことは言わないようでちょっと安心したよ」
「死ぬつもりも殺すつもりもあるわけないですよ。死んだら先生の話が読めなくなりますし」
「そういう問題かよ」
 家を燃やすと脅迫を受けているというのに、俺は思いのほか平静を保っていた。柏森のよく分からない理屈に笑みを溢す程度には。あるいは彼女がここで本当に家を燃やしたとしても、俺の経済状況がそこまで大きく傾くことがないからだろうか。いっそ俺の銀行口座を凍結でもしてくれた方がよほど効果的だと思う。
 俺からすれば彼女がしているのは脅迫ではなくて、子供の駄々と変わらない。小説は書きたいから書くもの。読みたいから読むものだろう。他人に言われて書くものではない。
 そして俺はこの先もきっと、もう小説を書きたいと思わない。
「それで、答えを聞いてもいいですか?」
「期待に添えなくて悪いが、小説はもう書かない。読みたいなら自分で書くといい」
「そうですか、残念です」
「あぁ、こちらからも一つ言っておきたいことがある」
「?」
 柏森の表情に僅かに疑問の色が浮かぶ。
「お前の身体、相性が悪かったみたいだ。あんまり気持ちよくなかったよ」
「———残念です」
 次の瞬間、窓から差し込む夕日とは違う赤———柏森の欲望の色が部屋を染め上げた。

 折川春という名前は彼女にあげよう。俺の欲望はもう、小説を書かなくても満たされるのだから。

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