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きみのこえ

 俺は言葉を信じない。
 嘘か真かの話じゃない。“力”とでも表現すればいいだろうか。自分の言葉で他人の心を動かせるとも、何かを変えられるとも思っていない。物心ついた頃からそうだった。周りの奴らは俺の言葉なんて真面目に聞いちゃいなかった。所詮子供の言うことだとでも思っていたんだろう。そういう“無関心”という名の悪意を幼心に人一倍感じ取っていた俺は、小学校を卒業する頃には必要最低限にしか他人と口をきかなくなった。
 そしてこいつも。
「………」
「………」
 高校の帰り道。特に何を話すでもなく肩を並べて下校する俺たちの後ろ姿は、何も知らない通行人からどう映っているのだろう。喧嘩中のカップル?我ながら言い得て妙だと思う。“あの日”から俺達は、ずっと喧嘩中なのかもしれない。
「………」
 隣を歩いていたそいつが不意に俺の制服の裾を引っ張ってきた。倦怠感を隠さず振り向くと、彼女はまるでバリアでも張るかのようにスマートフォンの画面をこちらに向けてくる。
 そこには簡潔な文章が記されていた。
『翔馬《しょうま》、春休みの予定は?』
「特に何も」と、短く返答する。すると彼女は片手で器用にスマホを叩き、次の文章をこちらに寄越した。
『遊びに行きたい』
「一人で行けよ」
「………」
 今日の帰り道での彼女との会話はそれっきりだった。

 菜月澪《なつきみお》は口がきけない。
 小学生の頃は至って普通だった。担任がクラスの出欠をとるときだって人一倍元気に返事をしていた覚えがある。騒々しいやつで、彼女のことを俺は内心嫌っていた。
 そんな彼女の声を奪ったのは、他ならぬ自分だ。
 あの日のことは、正直よく覚えていない。あまり印象に残っていない。あの日起きたことの重大さを認識したのは彼女が声を失った後のことだったからだ。
「翔馬のことが好き。私と付き合ってください」
「知るか、そんなこと。お前の声聞くとうんざりする」
 そんな短いやり取りを交わしたことはなんとなく覚えている。今より幼かったとはいえ、思えば随分素っ気ない返事をしたものだ。しかし、愛の告白を素直に受けとることが、言葉の力を信じることがその時の俺にはもうできなくなっていたのだから仕方ない。
 その日から段々と澪は人前で喋らなくなって、中学に上がる頃には筆談でないと会話が成り立たなくなってしまっていた。
 うんざりする彼女の声がどんなものだったか、俺はもう思い出せない。
 ただ、あの日の俺の言葉には、彼女の声を奪うだけの“力”が籠められていたのだろう。言葉の力を信じていない自分にとって、それはどうしても認めたくないことだった。

「———退屈だ」
 今は春休み。休みが明ければ高校三年生に進級。晴れて受験生の仲間入りだ。休みが明けたら脇目も振らず勉強して、あっという間に一年が過ぎて、進学か、そうでない奴らは就職。きっと、澪とも離れ離れになる。俺は理系であいつは文系だから、進学にしろ就職にしろ進路が同じになることはないだろう。
 ―――せいせいする。そう心の内で呟いてみた。ひどく陳腐に聞こえた。中身が無くて、もし声に出したとしても誰の心にも響かないがらんどうな台詞。やはり俺の言葉には何の力もない。そうやってプラスに捉えている自分すらどこか滑稽に感じられた。
「ん………」
 来客を告げる玄関のチャイムで我に返る。今日は他の家族は出払っていて、家に居るのは自分だけだった。
「はい」
 玄関の扉にそう声をかけたが、返事が返ってこない。もしやと思い扉ののぞき穴から外を窺うと、見知った顔がいた。よりによって今このタイミングで顔を合わせたくない相手が。
「急にどうしたんだ、澪」
「………」
 扉を開け、邪険という感情をまったく隠さないまま尋ねる。対する彼女はいつも通りどこか楽しそうな表情でこちらにスマートフォンの画面を向けた。
『遊びに行こ』
「だから行かないって言ったろ」
『商店街の喫茶店が今日だけワッフル食べ放題なんだって』
「一人で行けよ」
『二人以上のお客じゃないとダメなんだって。だから一緒に行きたい』
 声を無くしたというだけで、性格まで大人しくなったわけではないのがこいつのタチの悪いところだった。小学生の頃から変わらず押しが強い。一度決めたことをなかなか譲らない。“諦めなければ夢は叶う”とか“努力は裏切らない”なんて根拠のない言葉を本気で信じているタイプだった。そういうところが尚更俺の苛立ちを誘った。
「だから俺は—――」
「あ、翔馬。友達?」
 玄関先で唐突に響いたその声に澪は慌てて後ろを振り返る。そこにいたのは身長百七十五センチの俺と大して背の変わらないスタイルの良い成人女性。俺の姉だ。
「姉さん、帰りは遅くなるって言ってなかったっけ」
「予定が変わってね。それより、あんたこれからその子と出かけるの?」
「いや―――」
「………!」
 否定するより先に、隣にいた澪が力強く頷いていた。
 それを見た姉はホッとした反応を見せる。
「よかった~。これから大学の友達と家で遊ぼうって話になってね。悪いけど夕方ぐらいまで外いてくれるとお姉ちゃん嬉しいな~と思ってたんだ」
「………」
 なし崩し的に、澪と外出せざるを得なくなった。

「………」
「………!」
 商店街の喫茶店。アンティーク調なデザインの食器や家具で揃えられた感じの良い店だった。目の前に座る澪は皿から零れそうなくらい積み上げられたワッフルを夢中になって頬張っている。食べきれるのか見ていて不安になるほど、良い食べっぷりだった。一つだけ食べたそれは確かに美味しかったが。
 というか。
「二人以上じゃないとダメなんて、メニュー表にも店先の看板にもどこにも書いてないんだが」
 半ば恨みを込めた声で澪を問い詰める。澪はワッフルをもぐもぐと頬張りながらいつものスマホをタイプしてこちらに寄越した。
『ごめん、嘘ついた』
「お前な」
『だって今日、エイプリルフール』
「あぁ」
 思わずそんな声が口をついて出てしまった。言われてみれば今日は四月一日。世間ではエイプリルフールと呼ばれる日だった。
 エイプリルフールを俺は嫌っていた。誰も彼もがひと笑い取るためだけに一生懸命考えた見え透いたつまらない嘘をついて盛り上がる日。もとより言葉の力を信じない自分からすれば茶番もいいところだった。
 何より、世界中の人間にそんなくだらないことをさせる『エイプリルフール』という言葉の力。まるで万人の免罪符のように使われるその言葉の強大さ。行われていることはくだらないのに、『エイプリルフール』という言葉自体はまるで世界を覆う空のように大きく広い。いつどこの誰が考えた行事か知らないが、少なくとも自分が発した言葉が同じように世界を渡ることはこの先もないだろう。その絶望的観測がいっそう俺を惨めにさせた。
『翔馬』
「………なんだ?」
『何か嘘、ついてみてよ』
 どこか楽しそうにそう言う澪を見て、どうしようもなく虫の居所が悪くなった。
「澪」
「?」
 澪は続きを促すように分かりやすく首を傾げる。嬉しそうに。俺との会話が楽しいとでも言うように。その邪気のない面を、どす黒い感情で醜く歪ませてやりたくなった。
「お前は今日からまた喋れるようになる」
 そう告げた瞬間、澪の顔から笑みが消えた。その表情に内心愉悦を覚えながら、俺はさらに続ける。
「小学生の頃のお前の声、俺は好きだったけどなぁ」
 ―――そんなこと思ってない。大嫌いだった。そしてもう覚えていない。
「お前と声で話すことができなくなって寂しいよ」
 ―――そんなこと思ってない。筆談でだって話すのは嫌だ。
「小学生の頃、お前から告白されて断ったの―――」
 ———………そんなこと。
「悪かったと、」
 ———思って………。
「………思って、る」
 自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。俺は真実を口にしているのか?
 俺は、澪の声を奪ってしまったことを、申し訳ないと思っていたのか?
 いや、違う。いま俺が言ったことはすべて嘘だ。今日はエイプリルフール。何を言ってもすべて嘘。そもそも澪の方から嘘をついてくれと言われて答えたのだから彼女はすべて嘘としか捉えていないだろう。
 そう自分を納得させたのだが。
「………」
「澪?」
 澪は、泣いていた。声もあげず。ひたすら静かに、目から涙を零しながら、笑っていた。
「———うそつき」
「え………?」
 澪の口がそう動くのが見えた。そして久しく忘れていた、懐かしい声が耳に届いた気がした。
 当の本人はやはり涙を絶やさず笑っている。頬から零れ落ちたそれは彼女の手元のワッフルに吸い込まれていて。でもそんなことお構いなしに、澪はもう一度口を動かした。
「本当はそんなこと、思ってないくせに」
「澪、お前………」
「でも、いいよ」
「………?」
「———許してあげる」
 俺はいま、一体何を許されたのだろう。澪は俺の何を嘘と断じたのだろう。そして澪はどうして突然声を取り戻したのだろう。ずっと喋れないふりをしていた?それとも、俺がさっき“また喋れるようになる”と言ったせいか?
 でも、一つだけ言えることがある。
「澪」
「………?」
「お前の声、やっぱり嫌いだ」

 そう告げた俺の言葉に、果たしてどれほどの力があるのか。澪にそう信じさせるだけの心は籠もっていたのか。
 次に澪の口から出てくる言葉を聴けば、きっと分かる。

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