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わたしはだあれ ~名前と自分と、ときどき他人

 こんにちは、涼雨零音です。

 みなさんはいくつ名前を持っていますか? 本名、ペンネーム、芸名、旧姓、ハンドルネーム、ゲームのキャラクターネーム、もしかしたら源氏名、エトセトラ、エトセトラ。

 あらためまして、涼雨零音です。この名前はわたしのペンネームです。今年(2020年)の4月に、note、Twitter、NOVEL DAYS、アルファポリス、カクヨムにこの名前のアカウントを作りました。それまでは公募に作品を応募するときにだけ使っていたので、一般には公表していませんでした。

 その他の名前としては、ゲームのキャラクターネームはありました。いくつかのゲームで、みんな同じ名前を使っていました。もちろんゲームが異なればキャラクターは異なるわけですが、それによって演じ分けるといったことはなく、ゲームをするときはいつも同じ名前、同じ人というつもりで活動していました。仲良くなったフレンドとは、ちょっとプライベートな話なんかもしつつ、ゲームキャラクタの後ろに本来のわたし、これは言ってみれば「本名のわたし」ですが、それが見え隠れするような状態だったのではないかと思います。

 今はオンラインゲームはぜんぶやめてしまって一切やっていないので、わたしが使っている名前は涼雨零音と本名の二つです。

 これまで、本名のわたしが文芸活動をするときだけ涼雨零音を名乗っていました。そのため、この名前には人格みたいなものはありませんでした。いわば署名だけの名前。署名されるためにだけある名前だったと言えます。

 ところが、note とTwitter を連携して他のnoter さんたちと交流をし始めたことで状況に変化が現れました。涼雨零音という名前でだけわたしを知っている人が一気に増えたのです。それによって、この名前がただの署名ではなく、なんらかの人格を持ち始めました。

 あなたはわたし。わたしはあなた。あなたはほんとうにわたし?

 あなたはほんとうはだあれ?

 わたしの中に、本名の自分と涼雨零音は同一人物なのか、という疑問が生じました。もちろんフィジカルな肉体という意味では共通です。今この文章を書くのにキーボードをたたいている指は、本名のわたしの身体についている指です。しかし意識はどうなのか。本名で文章を書くときと、涼雨零音が書くときで、わたしの身体を動かしている意識は共通なのか。フィジカル部分は100%共有されているけれど、果たして意識はどうなのだろう。

 わたしは、本名では小説は書きません。詩も、短歌も、書きません。しかしエッセイは書くし、その他のいろいろな文章は書いている。なんらかの創作、文芸を行うときには涼雨零音を使う。涼雨名義でSNSを始めるまでは、それで問題なかったのです。すみわけはきっちりできていた。互いに不可侵。文芸は涼雨、その他の活動はSNS含め全部本名。ところが涼雨のSNS進出によってこれが揺らいだのです。創作、文芸しかやっていなかった涼雨零音がエッセイを書くようになり、SNSで他のnoterさんと仲良くなり、友だちのように、文字ベースではあるものの、会話をし始めた。

 本名のわたしが書いたエッセイと、涼雨零音の書いたエッセイを比べてみて、わたしは自分でも少し驚きました。明らかに違うものになっていたんです。同じようなテーマで書いた文章もありましたが、涼雨と本名は立ち位置が違う。それが意図せずに行われていました。

 涼雨零音はほんとうに「わたし」だろうか。

 わたしでありながらわたしとは違うもの。

 この文章はこれまでにないタイプのものになりました。いまわたしは涼雨零音として、本名の自分から見た涼雨零音について書いています。本名のわたしが涼雨零音に間借りしてこの文章を書いています。しかしこの文章を書いている身体はもともと本名の「わたし」のもので、それを涼雨零音に貸しているのではなかったろうか。

 わたしの中に二人のわたしがいるという感覚。それは多重人格のように完全に切り替わるのではなくて、バランスが変化することによってそれぞれの「わたし」という現象が動き出すという感覚。

 この文章を書いているのはどちらのわたしだろう。

 なにげなくつけたペンネームは、そのペンネームを通してできた友達によってもはやただの名前ではなくなった。言ってしまえば、名前が命をもって一人歩きし始めたのです。それはきっと、note で知り合った皆さんのおかげです。

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